1章 はじまりの、はじまり。
2040年。世界は変わった。
その当時、人々は躍起になっていたらしい。
新しいエネルギーが必要だ、と。
化石燃料は底をつき、自然エネルギーの利用には限界が見えていた。
地球の気温は年々と下がっていたし、なぜかは知らないが海面の高さは上がっていたそうだ。
世界の滅亡?陰謀論?そんな話も飛び交っていた。
そんな時に、全く新しいエネルギー技術が開発される。
VESと呼ばれる中学生が考えそうな名前ではあるが、その技術のおかげで今もこの世界は発展を続けている。
簡単に言うと、使用した燃料から発生した廃棄物を再度燃料として使えるシステムなのだという。
詳しいことは、よく分からない。
ともあれ、新技術万歳。
オー・マイ・ゴッドが地球を埋め尽くした。
このまま人類は、よりよく便利な生活ができるだろう。
そう思われていた。
しかし、思わぬ問題が起こる。
それは、多くの科学者や天才たちも想定していない、全く未知の出来事だった。
もうあきあきだ、と机に臥せったまま僕は思う。
「エネルギー問題と人類の変化」というテーマで、何故か毎年のように講義が行われる。
かつて起こったとされる出来事ではあるが、何故こうも繰り返し同じことを。
正直、脳内の情報だけで内容を復唱できるレベルだ。
2040年、VESの出現でエネルギー問題は解決した。
しかし、数年後から奇怪な問題が起こり始める。
2046年、2月7日 21時37分。
とある病院で産まれた新生児は、一卵性双生児だった。
母子ともに無事でいわゆる安産。
なんの問題もなかった。
その子供たちが、目に見える超能力を使えたこと以外は。
VES出現後に産まれた子供たちは、何故かその多くに超常的な力が宿っていた。
大人たちには何の変化もなかったが。
その力は予知能力や空中浮遊に念動力といった、
わかりやすい超能力もあればとてつもなく目が良かったり、耳が良かったり、
ただひたすらに足が早いという多種多様ぶり。
それはただの才能の可能性もないか?などという疑問はいったん置いて、
とにかく誰にも予想できないファンタジー世界が突然訪れたのだ。
これから、また世界は大きな変化を迎えるだろう。
そう思われていたが、そうはならなかった。
18歳になると、子供たちは突然に能力を失った。
理由はわからないまま、その事実だけが残っている。
そして現在。超能力を持つものはほとんどいない。
僕たちは最初から数えると5か6世代目にあたるらしいが、ほぼ皆無だ。
3世代目は約1%ほど。4世代で0.0001%ほどの遺伝があったらしい。
で、現在の僕たち世代は0.0000001%未満。
つまり、世界中探しても数人いるかいないかくらいの計算だ。
もう長年、能力者が生まれたという報告はない。
だが、今もVESと人類の変異に関する研究は続いているのだ――
という風に終わる動画を毎回見せられる。
この内容を、小学1年生の頃から10回ほど聞いているわけだ。
しかも、長らく能力者の発見や報告はないわけだから、内容がアップデートされない。
飽きるのも仕方ないだろう。
ちなみに、最近の大きな進歩といえば
世界通貨が採用されたことや、殆どの機械が完全に電子制御されるようになったことくらいだが、車は空を飛ばないし、未だに電車は現役だ。
電車が絶対に遅れることがなくなったのは、幸いだが。
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いま、高校一年生の僕は
ここからなにか新しいことが始まったり、世界がもう少し楽しくなるのではないか、なんて別に思っていたわけではない。
いつもどおりの時間に起きて、いつもどおりの時間に通学。いつもどおりのメンバーと談笑し、いつもどおりに部活。いつもと同じように疲れて帰り、いつもどおりに寝る。
それがだいたい五回繰り返されて、休み。
世界には劇的なことなんてそうそう起こらない。
普通に過ごせることの幸せをかみしめて生きているのだ。
実は、かつての僕も夢見る少年であった。
幼い頃のおぼろ気な記憶で、能力者を見たことがある気がする。
多分空を飛んでいた。
だが、それは僕だけの記憶。
誰にも信じてもらえないし、一緒にいた人も知らないらしい。
夢を見たのだろう、と周りから言われた。
それでも、少年の僕はその力に憧れた。
いつか自分にも能力が発現するのではないか。
そう思って日々を過ごしていた。
しかし、そんな夢は小学校入学と共に崩れる。
この繰り返される授業の初回が訪れたのだ。
能力を持つものは、統計上もう生まれないのではないかという動画だ。
現段階で能力が出現する確率は10億分の一程度。
さらに、もう十数年間は発見さえされていないのだという。
この時の僕は、数字なんか多分100までしか知らない。
千や万という言葉を知ってはいても、その数字まで100からどう至るかはわからない。
そんなところに億である。
その衝撃たるや、まさに全身に電流が流れたと言うべきだろうか。
もしくは頬あたりを一筋の雫が流れていたかもしれない。
能力者を見たことを信じてもらえず、存在しないと言われた僕は
その時に夢を見るのをやめてしまった。
今の僕は現実主義者。
自分の目で見たもの以外は信じない。
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「相変わらず、たそがれてるねぇ」
唐突に声をかけてきたこいつは同級生のクラスメイト。名前は佐々木 蓮。
いわゆる高校生、といった感じのそこそこ長身、なかなか整った顔立ちをしている。
小学校からの、腐れ縁というやつだ。
「おまえ、あの授業嫌いだもんな。昔からさ。」
言いながら飲んでいるのはコーヒー牛乳だろ。昔から好きだもんな。
腐れ縁とは言いつつ、蓮と話しているのは苦痛じゃない。
意外と軽薄なようでそうではなく、浅はかなようで実は思慮深いような気がする。
僕が心を許せる数少ない人間のうちの一人ではあるのだ。
「で?どうすんの、今日。行くよな?」
ああ、そうだった。
軽く相槌を打つ。
この授業の唯一とも言える利点、というのか。
かならず一学期末、つまり夏休み直前に行われるのだ。
明日から夏休み、ということで教室の中はハイテンション。
普段より2割増しくらいの騒がしさだ。
回りほどにはしゃぎはしないが、僕も夏休みという学生にとって
最大級のイベントに喜びを感じないわけではない。
ということで、今日は部活の仲間たちと、プールに繰り出す予定になっていたわけだ。
僕の部活は、科学研究部。
当校の校風というかルール的なもので、学生は全員部活動に属さなくてはならない。
運動には興味がなく悩んでいた僕は、蓮に誘われる形で文化部である科学研究部に入部した。
ところが実情は、
「科学で解明されないものを研究する部」略して科学研究部であったわけだ。
つまりはオカルト部なのである。
しかし、何故かそこには学園の粋を集めたとも言える知能が集結しており、夏休み最終日付近で簡単にまとめた自由研究が県の展覧に選ばれたり、少々隙間の時間で書いた論文が雑誌に掲載されてしまうので、オカルト部をやっているとはだれも思わない。
ちなみに、学園の粋の部分から、僕と蓮は除外する。
「とりあえず部室集合みたいだから。先行って待ってて」
ああ、そうか。長くなるなよ。
学園の粋とは真逆の位置にいる蓮は、夏休みに際して、もう職員室に呼ばれている。
あれだけ堂々と惰眠を貪っていれば、政府職員だか公務職員だかも、教師に報告をするというものだ。
中学時代から4年連続で直後に呼び出されているんだから、そろそろ懲りろ。
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部室まで歩くのもなかなか暑い。
スーパーエネルギーが発見されたなら、まずは全世界空調配備してほしいものだ。
しかし、100年ほど前は夏の気温が40度に迫る勢いだったらしい。
エネルギー一つでそんなに差があるものなんだな。
などと考えながら歩いていると校舎とは別棟にある
部室の前に着いていた。だが、ここで考える。
カギを取ってきていない・・・
正直ここから校舎棟に戻って鍵を取りに行くのはかなり面倒くさい。
と思ったが、そういえば都合よく職員室に毎年呼び出される旧友がいたな。
やつに任せることにしよう。
一応連絡だけ入れておくか……
とメッセージアプリを起動していると、部室の扉が開いた。
「あれ?こんなところで。入ればいいのに。」
僕に声をかけたのは一つ年上の先輩であり、部長を務める華だった。
名は体を表すというが、それをここまで地で貫く人はいない。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。
容姿端麗、成績優秀、運動神経抜群、下級生に優しく、同級生に優しく。全学年の男子生徒の何割が彼女に見蕩れていることか。
それでいて女子の恨みを買わないという、まさに生きる奇跡とも呼べる彼女。
先ほどの思考を簡単に説明をする。
「ほぅ、よっぽど呼び出されるのが好きみたい。部室より多く職員室に行ってる気がする。」
と、彼女は呆れ気味に笑う。
喜べ、蓮。お前は今この人の笑顔を一つ増やしたぞ。
見れないのは残念だとしか言いようがない。
「とりあえず入って待てば?君達が最後だよ。」
僕たちは最後なのか。
そんなに遅くなったつもりはなかったのだが。
と思ったが、そういえば僕らの担任は話が長いのかもしれないな。
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部室のドアを開けると、ひんやりと涼しい風が流れてきた。
何らかの薬剤の管理をする、だとか理由をこじつけて華が堂々と公式に部室に冷房を導入させたのだ。
これだけでもできるレディであることがお分かりだろう。
その恩恵を受ける者が二人、すでに部室で準備万端に待機していた。
山田兄弟は一卵性双生児で、正直言ってまったく区別がつかない。
同級生ではあるがクラスが違うので、ここ以外で関わることが
殆ど無いせいもあるのだろうが似すぎている。
こちらも二人揃って成績優秀。運動神経抜群で人当たりもいい。
比較すると自分のスペックが悲しくなってくるからやめよう。
「あ、もう二人は準備できてるよねー?」
「「はい、大丈夫です」」
外からの華の声に返答する。双子というのは思っている以上にシンクロするらしい。
でも、準備って、そんな大荷物が必要なのか?
「え?このくらいは必要でしょ?」
「備えあって憂いはないから・・・」
たかだかプールに行くくらいでなかなかに重装備だ。
リュック二つもいるか?
華ならわかるが、お前たちはいらないだろう。意識高い系か。
そんな心の声を漏らしかけたとき、けたたましい足音が近づいてくる。
「おーす、おまたせ!待った?待ったよな!ごめん!」
そう思うなら呼び出され癖を直せ。
全く悪びれない様子で蓮が飛び込んできた。
「ん?あれ、華先輩は?まだ来てないの?」
今しがた外から声が聞こえたが、どこかへ行ってしまったのだろうか。
「いなかったぞ。俺が半径二十メートル以内に華先輩がいて見落とすわけ無いだろ」
だそうだ。きっとどこかへ行ったのだろう。
「ごめん、おまたせ。結局待たせちゃったね。言い訳手間取ってさー。」
言い訳、という言葉に少し引っかかる。
「いいですよいいですよ!オレ、華先輩のことなら何もいわず数日は待ちますから!」
「「いや、数日待つより前に心配しろよ」」
少し引っかかった僕のちょっとした疑問は、
蓮の調子と兄弟の見事なシンクロにかき消されてしまった。
「うんうん。みんな通常運転だねー。よし、いこっか。」
引率するように華が歩き出す。
「よっしゃー、行くぞ!」
続々と同級生たちも続く。
つられて僕も歩き出すが、ちいさな引っ掛かりは残ったままだった。
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鬱蒼としげる木々の間を、僕たちは延々と歩いている。
どういうことだ?
蓮を見てみるが、当人は知らぬ存ぜぬでスタスタと歩いていく。
先頭を歩いて華の歩く道を確保していくあたりは優男っぷりに磨きがかかっていると
評価したいがちょっと待て。
これは一体どこへ向かっているのだろう。
さすがに堪えきれず、華に尋ねる。
「え?聞いてないの?蓮くんが伝えるって……」
何かを察したのか蓮が少し早足になる。
ほう、そうか。
講義中は寝ていやがるくせにこんなところに無駄知恵を回したわけだ。
その無駄知恵をもっと勉学に回せ。
プールに行くんだ、って聞いてます。
と、答えたその瞬間、一行の足が止まる。
「いやぁ、まあ、確かに?池があるらしいから。Poolといえばそうなんだけども、これ、部活だよ?」
部活?
頭にクエスチョンをうかべる僕に華は続ける。
「この先に、ものすごく古い旅館があるらしいのね。結構いわくつきらしいんだけど。その旅館に宿泊して、実際の霊現象を学ぼう、っていう科学研究会の夏合宿なんだけど。」
そういうことか。
今思えば不審な点は山ほどあった。
華の「言い訳に手間取った」発言。
山田兄弟の多すぎる荷物。
明らかに田舎に進む電車。
「だって、言ったらお前こないかもしれないじゃん!」
少し遠くから蓮が言う。
まあ、たしかにそのとおりかもしれない。今日のこの予定がなければ、
おそらく家に帰りダラダラと過ごしていただろう。
「家に帰る前に連行してしまおうと思ったんだよ」
無駄で余計な気配りありがとう。
「それ、でも大丈夫?親御さんにも言ってないんでしょ?」
そうだ、もう来てしまったからには仕方ない。
連絡くらいしておかなければ。
行方不明だなんてことになったらそのほうが面倒だ。
取り出したスマートフォンの左上にはここ久しく見なかった漢字二文字が表示されていた。
これはどうしようもない。今更この木々の隙間を戻る気にもなれない。
「あ、大丈夫っす。コイツのご両親にはオレから連絡してるんで!」
蓮はやや遠くで笑いながら言う。
随分と計画的な犯行である。
「まぁ、だったら平気かな。ごめんね。直接言えばよかったかな」
軽く謝る華。
うっすらと汗ばんだ身体に太陽の光が反射してなんとも神々しい様相になっていた。
こんな女神に謝られては許さないなどとは言えない。
それにこんな場所から帰るという選択肢も、もはやない。
正式に僕の許可を得たからか、蓮の足取りが気持ち軽くなっているように見えた。
「そっか。じゃ、サクサク行くよ!多分今半分くらいだからね。」
ポロリと華がこぼした言葉を誰も聞き逃さなかった。
多分今半分。
足取りが軽くなったはずの蓮も立ち止まった。すでに2時間ほどは歩いている。
双子もなんとなく口数が減っているぞ。
「「あと半分ですから、がんばりましょう」」
その表情からは笑顔も消えていた。
シンクロ率は依然高かったが。
「そーそー、もう少しだからレッツゴー!」
と、華は進んでいく。
よく見るとほとんど息も上がっていない。
それどころか、森が深まるに連れ笑顔になっているような気さえするが、気のせいか。
女神のことだから、常人には図りえないのかもしれない。
とはいえ、歩き続けることしかできない僕たちは、ザクザクと林の奥に進んでいった。
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林を抜けると、大きく開けた場所に出た。
その先にひっそりと、どっしりと旅館が見える。
なるほどこれは何らかのいわくもつくだろう。
周りの木のせいか、より暗く見える。
そして、薄っすらと靄がかかっている……気がする?
しかし、古さはあるものの建物自体はしっかりとしていた。
道すがら聞いた話では、2040年ごろに作られたそうで
かつては避暑地付近の旅館ということで盛況だったそうだ。
確かにこのあたりは涼しく感じる。
手早くチェックインを済ませて部屋に案内してもらう。
とりあえず、靴を脱いで座りたい。
慣れない道を4時間近くも歩いた僕たちは明らかに満身創痍だった。
一人を除いて。
「こちら、朱の間でございます。」
なかなか高齢な女将の説明もそこそこに、僕たちは部屋の中心に座りこむ。
「わぁ、いいお部屋。なにか出そうな雰囲気だねぇ、ときめくねぇ!」
浮かれているのはもちろん華だ。その細い体のどこからそんなバイタリティが生まれているのか。
電車移動から、到着まで徐々にテンションを上げている。
そして今が最高潮というわけだ。
「よし、まずは室内探索だよ!部員諸君!」
長歩きの疲れから、何も気にかけずドンと座ってしまったが、ふと見渡せばなかなかの良物件ではないか。
いや、勘違いしないでほしい。
オカルト部的に良物件だ、ということである。
やわらかすぎる間接照明は、まるで病院の足元灯のようだ。
立て付けの悪いふすまもなかなか評価が高い。
室内に置かれている調度品は鎧、ベタすぎる。
柳の横に傘をさして立つ女の掛け軸。
まるで、幽霊が出そうな部屋とオーダーして作られたような空間がそこにはあった。
「はい、ダレない!これ部活だから!掛け軸、調度品チェック!」
燃えている華。
もうこうなってしまっては手がつけられない。
重い体を起こして、五人それぞれが部屋をチェックする。
鎧の中、掛け軸の裏、壺の底、タンスの中や押し入れまで、隅から隅まで徹底的に容赦なく探索、探索、探索。
「うーむ、これはなかなかだわ・・・」
鬼教官とも言える華の指示を受けながらひたすら探索を行った結果。
とめどなく出てくる、恐怖の品々、というか主に御札。
壁紙の代わりにうちはお札を採用しているんですよー、と言われても違和感のない量だった。
本当に御札を貼っている旅館を僕は初めて見た。
「でもなー、なにもおきないんだよなぁ。」
確かにそうだ。
部屋に入ってからバタバタと探索をし、今は落ち着いて机を囲んでいるが、物音一つしない。
するとすれば、バサバサ、だったりホーホーだったり、自然が鳴らしてくれている音のみだ。
古旅館としては風情があって心地が良い。
「ねぇ、これ剥いじゃっていいかな?」
恐ろしいことを平然とした顔で言い始める華。
しかもこれは全力で止めないと、
この人は天使のような顔で平然とこの封印をちぎり取る。
「いやっ、華先輩、それは流石にやばいですよ。」
「「そうですよ、御札も含めて旅館のものですから!」」
器物破損ということにもなり得るかも...。
下僕集団は、できる限りの知識と語彙をフルに使用して鬼教官の凶行を止めた。
「いやだなぁ、冗談に決まってるじゃん。ま、着いてすぐだしね。まだ時間はあるからさ。お風呂入っちゃおうよ!あんだけ歩いたから、汗かいちゃったしね。」
(いや絶対にあの目は本気だった……)
誰もがそう思ったが、
ともあれ室内の探索はいったん終了を迎え、下僕四名はホッと胸をなでおろす。
そうだ、ここは旅館。
いくら部活動だとはいえ、温泉くらい楽しんでも、バチは当たらないはずだ。
「「そうですね、温泉に行きましょう」」
「ふー、温泉は醍醐味だよな。」
それぞれがカバンをひっくり返し、着替えやアメニティを用意する。
「あ、お前の荷物、オレのカバンにあるからな」
準備万端がすぎる。
しかしそこは純粋に感謝しよう。
そんな、無邪気な下僕たちに、鬼教官は一言。
「ん?何言ってるの。ここ温泉とかないよ。」
ココオンセントカナイヨ…?
どうやら誰も言葉の意味を理解できなかったらしい。
「え・・・。」
「「いまなんと・・・?。」」
皆の口からあふれたのは、言葉というよりも音という感じだった。
旅館に温泉がないはずはない。
今までで最も部屋が静まり返った瞬間だった。
合わせたかのように、今まで外で鳴っていた自然の音もしんと静まり返った。
めっちゃ空気読むやん、田舎の鳥。
しかし、信じられない。
ここは旅館ではないのか。
旅館に温泉がないということがあるのか、いやない。
そもそも、温泉がない旅館など成立していいのだろうか。
かならずあるはずだ。
走馬灯のように温泉が脳を駆け抜ける僕たちに更に一言。
「いや、ないよ。だってここ超林の中じゃん。
ぜんぜん掘られてないから。お風呂は入口の横にあったアレだよ。
完全部屋風呂!あ、でも地下水使ってるかもよ?」
いらない……。
地下水なんかいらないんだ……。
しかし、確かに言われてみれば温泉があるような気配が感じられない。
どこを探しても室内からは浴衣が出てきていない。
つまり、温泉などない。
それに、温泉がある旅館は、温泉旅館を名乗るのではないだろうか。
「これ、部活だから!私先に入っちゃうね。なにか起こったら写真と録音ね。」
そう言い残して、華は入口横の襖の奥に消えていった。
ああそうか。
あそこがお風呂だったんだな。
なんてハードな一日だ。
誰もいわなかったが、みな、そう感じていた。
しかし、それでも一日の疲れを癒せれば。
そう思って次々にお風呂に入るのだが、入浴後の顔は、全員冴えなかった。
まさか浴槽もないなんて。
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わいわいとオカルトな話で盛り上がっていたが、
疲れのせいなのか、皆が健全な高校生であったのか、日付が変わる前には全員が床についた。
ものの見事に、全員が死んだように眠っている。
僕以外の話ではあるが。
周囲のオカルト話には、特に興味もなく、ふむふむと相槌程度に聞き流していたのだが、
次第に眠くなりおそらく誰より早く眠りについたのだと思う。
疲れも溜まっていたし、僕は人より体力に劣るようだ。
そんな僕であるのだが、珍しく目が冷めてしまった。
普段であれば、太陽がジリジリ肌を焼いていようと、まわりが騒がしく話していようと、
目がさめることはないのだが。
目を覚ました僕の体には何故か強い違和感があった。
体がとてつもなく重い。
まるで何かが乗っているような、押さえつけられているようなそんな感じだ。
時間を確かめようと思ったのだが、体も動かない。
やっぱり疲れている。金縛りとはこういう現象なのだ。
脳の覚醒と体の睡眠。
疲れている上に、これだけ周囲でオカルトな話を聞かされ続ければ、それは金縛りの夢ぐらいは見てしまっても仕方がない。
しかし、本当に動けないような気がする。
妙にリアルな感覚。
まあ、夢なのだろうが。
真上を向いたまま動けない視界の中に、時折ゆらゆらと白い何かが写っては消え、写っては消えしているように見えなくもないが、まあ、夢だから。
完全に真っ黒い何かが僕の顔を覗き込んでいる。
でもまあ、凄くリアルな夢だ。
うん。
そういうことにしておこう。
そうに違いない。
こうして妙にリアルな夢に悩まされ、眠れた気がしないまま、次の朝を迎える。
合宿二日目、三日目には一体何が待ち受けているのだろうか。
そう思う人も当然ながらいるのだろうが此処から先は語ることができない。
僕の記憶はここで終わってしまう。
というより、合宿そのものが、二日目の朝の時点で終了してしまうのだ。
朝を迎えても、僕の体は重いままであった。体も全然動かない。おまけに声も出ない。
苦しい、これは本物の金縛りかもしれない。
と思っていたら、誰よりも早く起きて周囲を探索するつもりだったらしい華が
悲鳴を上げた。
「きゃあ!ちょっと!ねぇ!大丈夫?」
声に押されて、寝ていた1年生たちも起き上がる。
「おい、!大丈夫か!おい、返事しろ!」
周りの声がガンガンと頭に響く。
「大丈夫です。心配しないでください。」
と答えたつもりだが、声は出ていなかったようだ。
そのまま僕は病院に搬送された。
実はこの林の裏側には、
しっかりと道が通っていたらしく、旅館の連絡で実に迅速に救急車が到着した。
林側を通ったのは華の冒険心からだったらしい。
点滴を打たれながら測定した体温は、40度を超えていた。
あんな夢を見てしまうわけだ。
せっかくの合宿を中断させてしまった罪悪感を感じながら、僕は目を閉じた。
僕はまったく気がついていなかった。
この時から、僕の人生というか、経験というか、その全てをくるんと覆す出来事が、連続して起こる。
そのすべての始まりはこの合宿、そして風邪なのだということに。
ただ僕がそれを感じ始めるのは、この40度を超える高熱を伴う夏風邪を、なんとか克服して、部活に復帰してからのお話。
まだもう少し先の出来事である。