ウンノナイオンナフタタビ
1
ズンドコドコドコズンドコドコドコ、ピッ。アラームを止めた。これは、いつもの出かける時間をセットしたそれではなく、起きるためのものだ。
「あーー頭痛い。昨日飲み過ぎたな。これが世に言う二日酔いか? いつ帰って来たっけ? 学校……三限からだよな」
洗面所に向かう八千代の朝は、起きてすぐ歯を磨く。ベッド横のソファに座り、パンダのぬいぐるみを抱えて携帯をいじりながら歯を磨く。それがルーティンなのだが——。
この女、千代田八千代、十九歳、大学生。法学部一年。
飲み過ぎたと言っていたが十九歳。しかも法学部だ。困ったもんである。
八千代はものごころがついた頃から、絡まれることが多かった。
いじめっ子、不良、酔っぱらい。偏倚集団。年齢を重ねるごとに、絡んで来る相手もレベルアップした。
そういう事もあり、いつもアルバイトは長続きしない。
ちょうど一ヶ月前、弁護士事務所のバイトを自らの体重でふいにした時、痩せようと誓ったのだが。
身長百六十五センチ体重八十三キロ、千代田八千代[完全体]は今も健在だ。
「ん?」
歯を磨きながら、いつものようにソファに——座れない。ソファはすでに占領されていた。
毛布を腰から下に掛け、八千代のお気に入りのパンダのぬいぐるみを抱き、上半身裸で寝ている男に。
「ぶふぉおおーー」
八千代の口から歯磨き粉が噴出する。吹き矢のように飛んだ歯ブラシはパンダのひたいに突き刺さった。
恐ろしい肺活量。お前は忍者——
「うるさい! うるさいうるさい。このナレーターは、事あるごとにわたしをdisってるけど。楽しんでるんじゃないかしら。今はそれどころじゃないのよ」
男に免疫のない八千代は大パニックだ。おろおろしながら、洗面所と部屋を行ったり来たりしている。
「誰? 誰あれ? ガラガラガラッペッ。痴漢? 不審者? あれここ、わたしの部屋だよね〜??」
それは間違いない。あんな、南の島の民族が奏でそうなアラーム時計は他にはない。
ピロリロリロ、ピロリロリロ
男の携帯に着信だが、男は起きない。驚きつつ、八千代は画面を覗き込んだ。
「え? 真穂? なぜ真……」
着信は切れた。
「……穂……この男、真穂の知り合い? ん? うぉわわああああ!」
「うわっはい! はい?」
叫び声で男が飛び起きた。
「あああ、ま、真穂の、彼氏ちゃん? 彼氏ちゃんだよね」
「ん〜あ、はい。おはようございます。千代田さん」
ピーヒョロドコドコ、ピーヒョロドコドコ。
今度は八千代の携帯が鳴る。相手は真穂だ。
八千代は携帯を持ったまま硬直している。
「あ、マポリンからですかね? モーニングコール頼んでいたから」男が寝ぼけまなこを擦りながら言う。
「へ? モーニングコール? ……あ、ああー、そうだ。そうだったね」
八千代は完全に思い出したようだ。
昨日、「大学生ともなれば、酒に飲まれてはいけない!」と、八千代宅で飲酒の練習と称し、言い出しっぺの真穂とその彼氏の三人で飲んだのだ。
桜枕真穂は終電前には帰ったが、一限目から授業の彼氏、瀬央透は大学から近い八千代の家に泊まったのだ。
モーニングコールも頼み、念のため、八千代の目覚まし時計もかけた。
「も、もしもし、おはよう、真穂。うん。さっきの真穂からの電話で彼氏ちゃん起きてるよ。うん。かわるね」
瀬央に携帯を渡した八千代は安堵の表情で大きく息を吐いた。
「ん。おはようマポリン。大丈夫、ありがとう。また後でね〜」
この彼氏ちゃん、骨格はすらりと細身だが、先ほどまで出していた上半身を見る限り細マッチョと言うべきだろう。平たい顔に、そばかすと韓流ナチュラルマッシュがよく似合っている。おっとりとしたしゃべりも相まって、かわいい弟君系だ。
「あれ? この歯ブラシ……」
瀬央がパンダのひたいに刺さったそれを抜いて言う「僕、これ使って良いんですか?」
「駄目だわっっ」
こうして八千代の長い一日が始まる——。
2
「それではお邪魔しました〜」と瀬央は家を出た。
どんな流れからだったかは覚えていないが、男を泊めてしまった自分に驚き、「お酒って怖いわ〜」と思う八千代だった。
大学の三限目、授業は十三時十分開始なのだが、いつも八千代は早く来ている。ガヤガヤと騒がしい学生食堂で満面の笑みで大量の食事を運んでいる。もちろん自分が食べる為だ。
さて、食べようか、という時に「やちよん、おっはよ〜悪かったね、透、泊めてもらっちゃって」と真穂が現れた。
「あれ? うん。おはよう。早くない? 真穂、三限からじゃなかったっけ?」
「そういう、やちよんだって三限目からでしょう」
「私はほら、授業前に脳味噌にエネルギーを蓄えないとダメだから。学食安いし」
「どれどれ、カルパッチョ風サラダに明太マヨサラダ、サラダ菜、サラスパ、皿ウドン?」
「ね〜サラダづくしだよ〜痩せちゃうよ」
「うっうんうん。そ、そうだね。なんだか、サラ違いなのが一品あるような、無いような、だけど」
「ふふふん。で、真穂は何食べるの? 何も持ってきてないけど」
「あー、うん、あまり食欲無くて。ここに来たのも、やちよんがいると思ってなんだよね。ちょっとお願いがあって」
「ん? もぐもぐ、んんん? 私に?」
「あ、気にせず食べてて。なんかね、ここ一週間おかしな事ばかりでさ。マンションのポストの中の物が落ちていたり」
「ふむふむズルルルル」
「誰かに後をつけられているような」
「んー? モグモグごくん」
「普段より早く帰ったり、逆に遅く帰ったりした時はそんな事はないんだよね。それで、昨日も理由つけて飲み会してもらったんだけど……」
「ふむ、モグ?」
「帰ったら、ドアノブがヌルヌルしてて」
「ごくり。ちょっと待って、それ、嫌がらせとかストーカーなんじゃない。一応、しっかり戸締りとかしておかないと」
「ちゃんとそれはしてるんだよ。してたんだけどね、家に入ったらテレビのリモコンが、いつも置くところと違うところにあったの」
「⋯⋯まさか、それは、さ、勘違いだと思うけど」
「わたし、教育番組見ないんだけど、テレビつけたら⋯⋯チャンネルが教育番組だったの」
「警察行こう警察。部屋に入られてるよ、それ」
「あ、でもね、わからないのはさ、悪い人が教育テレビとか見るかな?」
「はあ? それはいま、問題ではないよね」
桜枕真穂、通称せいよん大学理学部、生物化学科一年は、八千代以上のボケラーなのでは? そんな匂いのする女だった。
「だからね、お願いがあるの。その前に確かめようと思って」
「確かめるって⋯⋯どうやって?」
「ほら、やちよんの言ってた特殊能力で⋯⋯ほら、なんだっけ? 見た瞬間に記憶しちゃうやつ」
確かに八千代にはかなりの能力はある。これまでに不運を繰り返していたせいで、一定のパターンや場の悪い空気を感じたり、意識せずとも、辺りにいる人間の顔を覚えていたりする。自分を守るためだ。
「そうそう、瞬間記憶喪失!」
「駄目じゃんそれ! 忘れちゃってるじゃん! 確かに、それはそれで凄いけど」
ボケラー二人の会話のせいで、千二百文字も使っているのに一向に話が進まない。困ったもんである。
「ま、まあ瞬間記憶能力みたいに凄いものではないけど、それなりには役に立てるかも。真穂につきまとってるかもしれない誰かを見つければ良いってことか」
「そういことなのだ。じゃ、五限終わって、十九時前かな。いつものファミレスで」
「了解! お酒は無しね。アルコール入ると記憶が無くなる。あ、そうだ、彼氏ちゃんにも協力してもらおうよ。学食来ないんだっけ⋯⋯? そういえば、彼氏ちゃんとつき合い始めたのも一週間前だよね?」
「ん、うん、そうだけど」
「もしかして、彼氏を作ったから真穂のことを想っている誰かが、恨んでるとか? もしくは、彼氏ちゃんを想っていた誰か、とか」
「ど、どうかな? そういうのはないと思うけど⋯⋯確かにね、透は奪った感じではあるけど」
「え? 今なんて?」
「透にね、彼女はいたんだけどさ、なんか、わたしと付き合うことになったから⋯⋯」
「間違いなくその女が犯人だろ!」
遠まわりしすぎな二人である。
3
「わー広いね、部屋。これがワン、エル、ディー、ケーか〜凄すぎる」
広く綺麗に整頓されている部屋に圧倒される八千代。
あのあと学生食堂に真穂の彼氏である瀬央が現れたのだが、とりあえず犯人が確定するまで相談をするのはやめた。そもそも犯人と呼べる者がいることすらはっきりとはしていなかったからだ。
二人は約束通りファミリーレストランで合流し、これからのことを決めて二十時過ぎ、現在、真穂の住むマンションに来た。
「さて、それでは——」と言い、八千代は人差し指を立てて口元に持っていき、ボソリと「じゃ、探そうか」と、ウロウロと熊のように家探しを始めた。
「本当に盗聴器なんてあるのかな?」
と桜枕が小さくたずねた。
「それをこれからはっきりさせるの。家に入られてる形跡もあるんでしょ? ちなみにそのテレビの前に筆立て二つあるけど、入ってるテレビのリモコンはあってる?」
「うん。あってる。この前は手前のエアコンとかのリモコン入れに入ってたの。
「よくテレビの【警察24時間目】とかで盗聴器仕掛けられてるとか、やってるじゃん」
「そっかぁ、さすがやちよん。確かに【相方】とか【仮装店の女】とかでも出てくるよね」
「それドラマだけどね……ま、そんな感じ。テレビみたいに探す機械はないけど、たいていコンセントのとことかにあるみたいよ。ほら、こういうタコ足配線のやつ。他には〜」
「…………あれ? そういわれると、そういうタコ足って、わたし買ったことないね」
「え……まじ?」
部屋中を探して、玄関、トイレ、キッチン、リビング、脱衣所、寝室から計六個の盗聴器が見つかった。
「……ほら、この画像と一緒でしょ。盗聴器だよ」
集めたコンセントを分解して、携帯で画像を確認した。すべて三穴コンセント型だ。
桜枕は今にも泣きそうで、口を手で覆い、ふるふると震えながら「これ、昨日も充電するのに使ってたよ」と、八千代は呆れつつも、なだめるように「秋田美人の真穂はね、色白で可愛らしくて、スタイルもすらーっとしてるうえに、おとなしくて、おっとりしてるから狙われやすいんだよ」と言った。
そう、秋田美人の桜枕は八千代とは正反——「だから普段から警戒心を持たないと」正反対であ——「今回は、はっきりとしていなかったからアレだけど、せめて自分の用意した物じゃない物が家にあったら、おかしいと思わないと駄目だよ」
語り手の言葉を遮るとは…………。
「も〜〜〜本当に危機感ないんだから」
「あ!」
「ん? なんか思い出した?」
「あ、ううん。ごめんなさい。ありがとうやちよん。なんか探偵みたいだよね」
「え? いやー、そうかな? じゃ、犯人見つけよう。新事実はいつも一つ! ひいじーちゃんの名にかけて!」
「…… うっうんうん。微妙に間違ってるような、あってるような、だけど」
「じゃあまず、いつ盗聴器を仕掛けられたかわからないから、この家に今まで入ったのってどんな人がいるの?」
「え……全員言うの?」
「ん? どうしたの? けっこういるの?」
「んーーと」
「なあに? どうしたのよ、も〜〜〜〜」
「あ!」
「え? 何また? 何かあるならちゃんと話してよ」
「あの、これは関係ないんだけどね、実は……地元の友達、唯一の親友でミユキっていう子がいたんだけど、やちよんが、その子にそっくりなんだ。特に今みたいに、ほっぺたを膨らませて「も〜〜〜〜」って言うところ。ふふっ」
「え……、そうなんだ。確かに全然関係ないね。しかも、別にほっぺたは膨らませてないし。むしろ「も〜〜〜〜」って言ったらほっぺたヘコむよね」
八千代には思い出話に浸るよりも、つっこまなければいけないことがある。
「それに、なんか想像つく。その友達あれでしょ、私みたいにポッチャリしてるとか、そういうオチでしょ。そういうのいらないから」
千代田八千代、十九歳はこういう話題に、相当卑屈になっている。
「そんなことないよ、ぽっちゃりとか太ってるとかないよ。そんなの普通だよ」
「太ってるとか言ってないし。まったく、も〜〜、あ! もーって言っちゃった」
「あ……」
「……ふふ」
「ふふふ」
『あっ、ははははは』お互い見合って笑っている。
「良かった。やちよんが笑ってくれて。怒られると思った」
「は〜まあ、怒ったりしないよ。で、その友達はこっちに出てこないの?」
「え? あ、違うよ、そういうのじゃなくてね、わたしがこっちに出てくる半年前に、出荷されちゃった」
「それ人間ですらないじゃん! 何? 豚? 『も〜〜〜〜』だから牛かっっ!」
「やああぁぁぁ、怒らないで〜やちよん。本当に親友で、大好きだったんだよ〜」
「そんなん、私も大好物だわっっ!」
この二人、永遠に続けるのだろうか。
4
このストーカーらしき犯人に、何か少し違和感を感じている八千代だが、とにかく盗聴器を仕掛けた犯人を探さなければいけないと、この部屋に入った人物を聞く。桜枕はようやく答え始めた。
「それじゃあまず……ね、うちの両親と、電気とかガス屋さんでしょ。あと、理学部の松岡くん、生命環境学部の木村さん、法律サークルの上町田くんに——」
「か、上町田も? 真穂、ちょっと待って、私達入学してから半年ちょいだけど……もうそんなに? それって、つきあった人って事?」
「そ、そうかも」
「……容疑者が多すぎて見当がつかない。じゃあ、彼氏ちゃんとつきあう前は?」
「あ、相葉……先生……」
「はーーー? 先生?」
「あ、でもでも相葉っちに結婚が決まったから別れたんだよ。すぐ」
「それは……二股だったって事だよね……」
「そう、だからすぐ別れたんだけど……」
「あーなんか頭痛くなってきた。ついでにお腹もすいてきた」
「ごめん……わたし地方出身で、地元では友達もミユキしかいなくて……こっちに出てきて、ちやほやされるようになって調子にのっちゃったんだと思う」
「まぁ、それに関してあれこれ言う気はないけど、あんまり取っ替え引っ替えしてると、今回みたいに自分の身が危険にさらされたりするからさ」
「取っ替え引っ替えって……なんだか、あ、でもでも、今回は健全なんだよ。まだキスもしてないし」
「そんなんどうでも良いんだよね」
「……はい。次からは気をつけます……ていうか、もう付き合うのとかやめようかな? やちよんがいてくれたらそれで良いかな。そっかわかった! わたし、寂しかったんだ! 毎日一緒だったミユキと別れて、一人になって……だから、そばに誰かいて欲しかったんだ……とか?」
キャピ! という擬音がつきそうなしゃべり方と動きで、桜枕はごまかそうとしている。
「知らんわ。さびしんぼちゃんアピールは良いから、今起きてる現実に目を向けよう」
「むーーやちよん言い方がきつーい。なんだか肉肉しい」
「そこ『憎たらしい』でしょ! 完全にわざと言ってるし、完全に開き直ったね」
「だって〜なんかもう、全然わかんな——」
モ〜、モ〜、モ〜。
言いかけた桜枕の言葉を、自身の携帯の着信音がさえぎった。
「その着信音、なんかムカつく」八千代の心の声。
「もしもーし。真穂だよ〜どした? うんうん」
「そのしゃべりもなんかムカつく」八千代の心の声フタタビ。
「え? あー今ね、やちよん来ているの。そう。う〜ん、そうだね。わかった。また明日、授業終わってからね」
そう約束して手短に電話を切った。
「彼氏ちゃん?」
「うん。『今から会いに行って良いか?』って。なんだろう? 学食で、今日はやちよんと一緒だって言ったのにね。だから、明日にしてもらった」
「ホウ、ソレハ オアツイ コトデ」
「わあああ、なんか、もの凄く冷たい言い方〜。目もすわってるし」
「ア……ワタシ、イイコト オモイツイたわ。この盗聴器を利用して、犯人を見つけよう」
八千代の作戦はこうだ。
リビングの盗聴器だけを残し、これから一時間おきに、それとなく言い方を変えながら、独り言のように明日瀬央と会う事を言う。
犯人が聞いていれば、一つしか作動していない盗聴器を不思議に思うはずで、ちょうど無人になるこの家に来るだろうと。本当に侵入出来るのならば、それを、ここに隠れた八千代が捕まえる。
もし犯人が真穂の方に現れた場合は、そのまま瀬央にストーカーのことを話し、協力してもらう。
「でももし犯人が男の人で、ナイフとか持ってたらどうするの? 危険すぎない?」
そう心配する桜枕だが、八千代は意外にあっけらかんとしている。
「んー何か違和感があってね。何だろう? アピールがないのかな。ポストや玄関にイタズラはしてるけど、姿を見せて告白したり、家に帰った途端に『おかえり』とかメールをして来たりとか、ストーカー的なアピールがさ。だから襲ってくるとか、なさそうな気がするんだよね」
「アピール……? じゃ、何が目的なのかな?」
「んーわからない。盗聴器とか凄い怖いけど、ただ監視してるだけのような……。弱っちい女なのか。それだったらわたし、押し潰せるし。あ、それは無理か。わたしそんなに重くないから」
全部わかっているので言い直さなくて良い。
「じゃ、リビングの盗聴器をコンセントに戻すよ。作戦開始」
十七時半——四限で授業を終え、預かった鍵で真穂の家に身をひそめる八千代。しかし、その巨漢を隠す場所はなく、普通にソファでくつろぎ、テレビを見ている。もちろん電気をつけず、テレビのボリュームもしぼっているが、全然ひそんではいなかった。
自分の家のようにポテチを食べてコーラを飲んでいる。
十八時ちょうど––––コッコッコッ、チャリン。それは来た。
外の音を警戒していた八千代は気付き、テレビを消し、座ったまま左に見える玄関に目をやる。
チャリン、ガチャガチャ。
(わっわっうちの前? 来たの? 本当に来ちゃった?!)
ノソっと立ち上がり、リビングの入り口横に隠れ、そっと玄関を見る。
(真穂は……まだ終わってすらいない。身内の方? なわけないよね)
カシン! と鍵が開いた。
(ええー? 何で? ピッキングってやつ?! 早っっ。こんなに簡単に開いちゃうの??)
ドアを開け、靴を脱いで入って来た。玄関からリビングまでの短い廊下をトストストスと歩く。その歩き方に、忍び込むような警戒心は感じられない。
バクバクバクと心臓がうるさい。八千代は脇を締め、両手を肩の高さまで持ってくる。
リビングに入って来たのは女だ。百七十センチは超えていそうな細身のモデル系で美人系。巻き下ろしの髪が派手な服装によく似合っている。
入るなり女は、右手の寝室を軽く見て、リビングと、ゆっくり部屋を見回しながら、
「あーめんど、どこって言ってたっかな〜。何か盗んでやろうかしら……それはダメっっかあ?!」
すぐ左にいた八千代と目が合う。
「きゃああああ!」
女の叫びに反応して八千代も叫び「ぎゃああああ!」突き飛ばした。
どすこーい!!
女は脆く、となりの寝室まで吹っ飛んだ。
「いた、いたたた。何? あんた、誰?」
八千代は女の言うことに答えることなく突進し、覆いかぶさった。
「うぎっ、ちょっ、重っ!どけ、デブ!」
「わたしは——ぽっちゃりだわっ!!」
そこはしっかり否定した八千代だった。
「あんたこそ、誰? どうせ、彼氏ちゃんの元カノかなんかでしょう」
「は、はあ? バッカじゃないの。今カノだっつーの」
「やっぱりストーカーか。どうせやるなら、自分を捨てた男の方にしなさいよ!」
「捨てられてねえっつーの。ぐうう。苦し、い。話してやるから離しなさいよ」
「聞きたい話なんてないわ。あんたを捕まえ、て」
「あの女騙されてんだよ。私たちで騙してんだよ!ぐうえ」
「……え? 私たち?」
八千代はようやく力を抜いて立ち上がった。女はグッタリしている。
「はあ、はあ、マジ死ぬとこだった。だから、私たちで、あんたのお友達を騙してたんだよ」
女は起き上がり、だらしなく座り込んで言った。
「私たち、て誰?」
「決まってんでしょ、私と透!」
「何言ってんの? 盗聴器まで仕掛けたストーカー女の言ってることなんて信じられるわけないでしょ」
「じゃあこれなーんだ」
女は足元に落ちていた自分のハンドバックを取り、中から鍵を出した。
「この家の合鍵。あの女から透がもらったものだよ。ちなみに盗聴器を仕掛けたのは透。ま、仕掛けさせたのは私だけどね」
「……うそ……どういうこと?」
なにがなんだかわからない、といった様子で、呆然とする八千代。
「透に聞いたけどあの女さあ、田舎もんの学生のクセして仕送りでこんな良いマンションに住んでさ、男を取っ替え引っ替えしてんでしょ。すげームカつくからさ、金ズルにしようって事になったわけえ」
「もう話さないで良い」
「あーはいはい。わかりました。じゃ、警察呼びなよ。あ、私呼ぶわ。自首、自首」
そう言って女はバックから携帯を出し、電話をかけた。
——「あーもしもし、バレちゃったよ。居たの居たの、家にさ。あの女の友達なんじゃないの。デ⋯⋯[自称ぽっちゃり女]だよ。だからもうお終い。あの女もポイね」
そう言って電話を切る。
「あんた、どこにかけてるの?」
「ふん。これであの女も、透にボッコボコに、さーれーるーっっよ!!」
女は言いながら、そばにあったクッションを投げた。「わ!」と、それを顔面に受け、怯んだ八千代の横をすり抜けて女は逃げた。
「あ、ちょっと待って、うそ⋯⋯真穂——」
ピッ。瀬央が携帯を内ポケットにしまう。「大丈夫だった? お母さん」と桜枕。
理学系研究科共通講義室——桜枕と瀬央は二人きりだ。
「んー今回早かったなあ。仕方ねえか」
今までのおっとりとしたしゃべりはすでになく。狂気の笑顔を見せた。
「え?」
モ〜モ〜モ〜
桜枕の携帯が鳴る——。
「きゃああああ——」
5
「はあ、はあ、はあ、はふ、はふ」
八千代はまた、走っている。八千代の家から大学への道のりは二キロほどだ。夜の国道沿いの歩道をドスドスドスと走る。
(だめだ。何回電話しても出ない。真穂⋯⋯ごめん、私のせいだ。お願い、無事でいて——)
バカだったと、あの女の電話を止めなかった自分を悔やんでいる。
桜枕との出会いを思い出す。
(あえて聞かなかったけど、理学部なのに真穂が法サーに入ったのは、きっとわたしが居たからだよね。一人上京して、孤独で、ミユキちゃん似の——ミユキちゃんには似ても似つかないはずだけど、なんとなく雰囲気の似ているわたしを見つけて、同じサークルに入ったんだよね? わたしも入りたてで不安だったから、真穂が話しかけてくれたのがとても嬉しかった)
八千代の目が潤んでいる。全身から噴き出ている汗で、涙なのかどうかもわからないが、八千代の目は潤んでいる。
後ろからパトカーのサイレンが近づいて来る。
「え? まさか、大学に行くんじゃないよね? やだ、やだよ、真穂に何かあったら、わたしは——わたしは牛以下だ——」
八千代は考えていた。いつも届かない——。
何か問題が起きても、自分で解決したことがない。
良いことがありそうな時も、一歩届かない。
足が、遅いから?
手が短いから?
体重九十キロには余裕で届くのに——。
「そんなこと! 考えて、ないわああ!」
ファンファンファンファンファンファンファン。
そう叫んだ八千代を、けたたましい音を立てながらパトカーが追い抜いた。
——大学構内。八千代はようやく着いた。入ってすぐの広場はごった返している。この時間でも、残っていた学生が多くいたようだ。数台のパトカーが停まっている。先程のパトカーもいるのだろう。
八千代が一際多く野次馬の集まっている所へ突進する。人をかき分け⋯⋯というより、はじき飛ばしていく。
一台のパトカーのそばに、毛布を肩から掛けた桜枕を見つけた。
「真穂!」
夢中で突進。ここから先は駄目だと制止する制服警官もはじき飛ばした。ラガーマン八千代。
「真穂ー」
それに気づいた桜枕が、毛布の隙間から手を振る。
「あーミ、やちよ〜ん」
二人は抱き合った。どちらも、今にも泣きそうだ。
「わっ? わわっ?? やちよん、どうしたの? ビチャビチャだよ? 雨?」
汗だ。
見ると、ちょうど瀬央がパトカーに乗せられている。
「真穂、大丈夫? どこも、何もされてない?」
「うん、大丈夫。ちょっと転んだだけ」
と、言いながら隣を指さした。「ん?」男がいる。理学部物理学科助教の相葉元基だ。相葉っちだ。
「何?」
「襲われていたところを先生が助けてくれたの」
「そうだったんだ。良かったよ〜」
そこに女性警官が来た。事情聴取のため、桜枕と相葉の二人が連れられていく。
別れ間際、八千代は桜枕に確認する。
「さっき、わたしに気づいた時、ミユキって言いそうになってたよね?」
「うううん。言いそうになってない」
桜枕は即答した。
数日後——あの後すぐに、瀬央の彼女であるキャバ嬢も捕まり、八千代も事情聴取を受けた。その際わかったことだが、女を金づるにする計画ではあったが、相手の女とのイチャラブは許されてはいなかった。それを監視するための盗聴器だったようだ。
この犯人の二人は、これまでも似たようなことを二、三していたようだが、その内容がどれも軽微で他の被害者同様、桜枕も立件の意思がないこともあり、[微罪処分]となった。
それを受け、大学側も処分は[厳重注意]にとどまった。
こうして事件は終わった——。
大学へ向かう国道沿いを、歩いている。
「一限目からの時も、歩くの良いかも」
八千代は一限目からの時はバスを使っていたのだが、今回のことで一大決心をしていた。
自分の運命を受け入れて、自分自身で解決出来るようになろうと。
そのために、体を鍛えて格闘技も身につけ⋯⋯痩せよう、と。
何気なく行き交う車を見ながら歩く八千代は、信号待ちで停まっている車に目をやると、「うおっ!」と言って見ないふりをして通り過ぎた。
助教の相葉の車のようで、隣には桜枕が乗っていた。
(うはー、こまったちゃんは相変わらずだわ。ま、わたしを巻き込まなければ良いか)
確実に巻き込むだろう。
聴取の際にわかったことがもう一つ。話しが桜枕の生活状況に及んだ時だ。
瀬央たちは勘違いをしていたが、桜枕の実家からの仕送りは微々たるもので、今住んでいるところも、幼い頃から農家を手伝い貯めた貯金で契約をしていて、現在は中高生を持つ家庭を相手に、家庭教師のバイトをして工面していた。
桜枕は、芯の強いしっかり者だった。
現在、熱烈不倫中ではあるが……。
空を見上げる——。
「わ、わ、あの雲、たい焼きみたい。お腹空いちゃうね」
いやいやいや、最近頑張っていた自分にご褒美と、ついさっき朝食でカツ丼を食べたはずだ。
「わわわわーあれは、パフェかな。あれはパンケーキね。き、き、きなこもち。ち、ちー、チーズケーキ。うわ、またきかー」
おしまい