千代田八千代はくじけない!
ピピピ、ピピピ、ピ、出かける時間をセットしておいたアラームを止めた。
「ガス、電気よし! 戸締りよし! 携帯、忘れ物なし! 準備オーケー」
アパートの二階。部屋を出て、鉄階段を静かに降りる。鍵も忘れずにかけた。
「はー、良い天気。今日は良い一日でありますように」
この女、千代田八千代十九歳、大学生。法学部一年。
は、ものごころがついた頃から絡まれることが多く、星まわりが悪い。
いじめっ子、不良、酔っぱらい。偏倚集団。年齢を重ねるごとに、絡んで来る相手もレベルアップした。
その絡まれ体質は小学四年生の時に悪化、変質を遂げている。
担任の先生と生徒二名が犠牲になった【体験学習の小学生ら三十八人を乗せたバス、転落・横転】事故に遭い、八千代自身は、身を挺して守ってくれた担任のおかげでほぼ無傷だったものの、それ以来さまざまな事故や、事件にも遭遇するようになった。
そんな日々を、持って生まれた気強さで乗り越えてはきた。しかしそれらはストレスに––––そのストレスを解消するための暴飲暴食。
今では身長百六十五センチにして体重八十三キロ。恰幅の良い……簡単に言うと、ただのデ——、
「ぽっちゃりですけどーぽっちゃり! 何この失礼なナレーター」
……そうしたこともあり、この女、千代田八千代はアルバイトも長続きしない。必ず何かが起こり、クビ又は失業する。学費と生活費を稼がなければいけない苦学生には、とてもキツイ。
今も新しいバイトの面接に向かっている。太い手首に、ぎりぎり巻かれている腕時計で確かめる。
面接の時間までは充分余裕がある。
八千代が目指しているのは国道沿いのバス停だ。そのバス停の手前が、T 字になっており右に曲がる道があるのだが、とんでもない急坂になっていて、自宅のアパートからはこちらを通れば近いのだが、八千代は一度もその坂道を通ったことはない。
上るのはもちろん、下るのもキツイらしい。
良かった。バス停には親子が一組いるだけだ。あとはバスが混んでないと良いんだけど——!
そんなことを考えながらT 字に差し掛かった時、叫び声が聞こえた。「止めて! 誰か。助けて」右の、坂の上の方からだ。
そちらを見上げると、かなりのスピードでベビーカーが駆け下りてくる。その後ろを母親と思われる女性が追っている。とても追いつかない。
「えええええ、何? 何で? ヤバイよ。ベビーカーが来ます! ベビーカーが!」
声を上げたが近くには誰もいない。またか! 私! と自身を呪う八千代。こんな漫画のようなことが実際に起きるとは、と慌ててベビーカーが到達するであろう位置に移動する。バス停の親子は気づいていない。
八千代の身体であれば充分クッションになるだろうが、それは上手く受け止められた場合だ。止められなければベビーカーは国道に飛び出し、間違いなく車に跳ね飛ばされる。
「止めなきゃ、ここで私が止めなきゃ」
覚悟を決め、腰をかがめて両手を前に突き出す八千代。
身体で受け止める気だろう。
ベビーカーが迫る。緊張する八千代の耳に、バス停にいた親子の、男の子の声が聞こえた。ようやくこちらに気づいたようだ。
「ママ、見て! 見て! 女のお相撲さんがいるよ!」
どすこーい!
「うるせいわ! クソガキャァ」
八千代は切れた。(だから子供は嫌いなんだ)と、しかしそれどころではない。
「神様、お願い! 止めれますように。私に力を。赤ちゃんを助けて——」
止まった——八千代の目の前でベビーカーは止まっている。八千代も膝をつき、両腕を突き出して固まっている。
勢いで赤ん坊は飛び出しそうになったが、八千代の柔らかい腹がクッションになり、ベビーカーの中に戻っている。無事だ。
しかし、八千代の両手はベビーカーを押さえてはいない。代わりにベビーカーを押さえた手は、ゴツゴツとした男の手だった——。
「大丈夫ですか? ちょうど車の流れが切れていて良かった」
耳元で優しい声が聞こえた。
八千代は振り返りたいが、後ろからその男の両腕に、顔を挟まれているので体勢を変えることができない。顔だけでも振り向こうと思うが首の肉がじゃまでそれもできず「はい。赤ん坊は笑っています。良かった。ありがとうございます。受け止める自信がなかったので、助かりました」
と、赤ん坊を見ながら言った。
追いついた母親は泣きそうで、何度も頭を下げていた。
イケメンね。と八千代は思いつつ、その男にお礼を言ってバス停を見る。あの親子がいない。バスは行ってしまったようだ。
それでもまだ面接には間に合うと、八千代はバス停に向かおうとするが、膝の痛みで足を止めた。
「やっぱり、大丈夫ではなかったですね。怪我をしてますよ」
そう言って、その男はスーツのポケットから薄青色と白のチェック柄のハンカチを出して、八千代の膝にあてた。
「わ? わわ。痛っ」
驚き見た両膝は、ストッキングは破れ、血がにじんでいた。
「あ、大丈夫です。大丈夫です。いつものことなので」
「これがいつものこと? それは大変だ。ちゃんと手当てをしないと」
「いえ本当に大丈夫です。面接に、あ、でも……ありがとうございます……」
すぐに家に帰り、ストッキングを履き替えないと面接に間に合わない、でも、イケメンに膝をポンポンされている、異性の優しさに触れたことのない八千代の心臓は、今にも口から飛び出そうだ。
あきらかに挙動不審。傍からみたらかなりヤバイ。
このままでは面接に間に合わなくなる。面接にすら行けないパターンは初めてだと思いつつも身体が動かない。繰り返される不運に、いまでは八千代も一定のパターンや、場の空気等を感じるようになっていたのだが、いつでもそれは予想をはるかに超える。
ただし、今回のこれが本当に不運だったのかは、この後の展開次第である——。
「さっき、面接がどうとか言っていたけど、急いでましたか?」
「いえ……もう……間に合わないので諦めます」
落ち着きを取り戻し「ご縁が無かったんだと思います」と言う八千代に、その男は軽くうなづき、名刺を差し出した。
「改めて——はじめまして、弁護士法人アム法律事務所、弁護士の大田輝末と申します」
「はあ、そうですか。弁護士さんだったんですね」
「まあ堅苦しいのは無しにして、実はこの三日間、うちもアルバイトを募集してまして。もっとも明日の午前中で締め切りですが」
「え? ええ? わあ、はい。法律事務所ですか。私は千代田八千代、せいよん大学法学部法律学科一年です」
「それは良いですね。今回は事務員の募集なので、一般PCスキルさえあれば良いのですが、それなら千代田さんの勉強にもなると思います。面接、受けてみますか?」
「はい! ぜひ。よろしくお願いいたします」
「良かった」と言って大田はタブレットを出し、手慣れた操作で確認し、面接予約を入れ「では、明日十一時に」と。
それから、しばらく二人は会話を楽しむのだが、この男、実は詐欺師——であれば、この物語も楽しくなったのだが、正真正銘の弁護士であり、太眉のキリッとしたイケメンだ。
八千代の声に反応し、反対車線側の歩道から上下合わせて六車線ある国道を突っ切って八千代を助けた素早さと、体躯の良さもさることながら、弁護士として最短の二十六歳でデビューを果たす頭脳の持ち主だった。
そして何より、生粋のデ——……好事家だ。
これまで不運不遇の人生だった八千代に、残念ながら、幸運の風が吹いている。
それは追い風となり、八千代の広い背中を押していた。
ストッキングを破り怪我をした膝も、ただアスファルトに膝をついただけで、自身の体重によるものだったのに。
「なんとでも言いなさいよ、くそナレーター! ぜーんぜん気にしない。はあーー大田さん素敵だったなぁ。こんな事あるんだ。今までの『こんな事あるんだ』は不幸な目に遭った時に言ってたから、幸福な目に遭って言うのは初めてだよ〜生まれて初めて〜」
哀れすぎて、聞いてるこっちは泣きそうだ。
八千代は明日の準備を終え、自宅のベッドの上で想いふけっている。
『上司が時間には厳しいので、遅刻だけはしないように』と念を押されていた。
もしかしたら、これまでの不運は、この幸運を手に入れるためだったんではないだろうか。当然遅刻なんかで失うわけにはいかない。
期待と不安の中、就寝した。
ピピピ、ピ、出かける時間をセットしておいたアラームを止めた。
「ガス、電気よし! 戸締りよし! 携帯、忘れ物なし! 準備オーケー」
いつものルーティンをこなし家を出る。
「今日は、絶対良い日にしなきゃ!」
八千代は気合は全開、頬をパンパンと二度叩く。
特注のリクルートスーツもパンパンだ。
バス停に着く。昨日の坂では何も起きなかった。
八千代はとにかく用心深く行動していた。
思ったよりバス待ちの人が多い。
……。
…………。
………………。
周りはざわついている。バスが一向に来ない。
八千代はすかさずSNSを確認し、この付近の情報を手に入れる。『北まづめ駅前でバスジャック!』『北まづめ駅に刃物を持った男』『北まづめ駅前で——』最寄りの駅で事件が起きていた。SNSはお祭り状態だった。
バスが来ないわけだ。
「タクシー!」
八千代は手を挙げて叫んだ。
九時十五分タクシーの中——。
弁護士法人アム法律事務所までは、バスと電車ならば一時間かからずに着ける。
しかし、この朝の通勤ラッシュでタクシーでは、一時間半はかかるだろう。
二、三個先の駅から電車に乗ろうかと八千代は考えたのだが、念のために確認したSNSで、電車が停電で止まっているのを確認し、このまま行くことに決めた。
焦る八千代。
「最悪。やっぱりこうなった。一時間も余裕みたのに、いきなりギリギリじゃない。私って、本当にいつもこうなる……間に合って」
祈るように手を握る。
十時四十分——。
弁護士法人アム法律事務所の入居しているビルは目前だ。
地上二十三階、地下二階。オフィス、店舗からなる複合ビル、リンクセンタービルの二十一階にそれはある。
渋滞で流れは止まった。超高層建築物なので、すぐそこに見えているのだが、まだ距離はある。
「降ります。ここで降ります」
そう言って八千代はタクシーから降り、走り出した。
ドスドスドスと、重低音とともに振動が地面に広がる。「はふっはふっっ」早くも息があがる八千代は、それでも周りを見ることなく、ひたむきに走った。
汗が流れる——飛び散る——。
空は青く、快晴。一筋の飛行機雲だけがどこまでも伸びている——が、八千代は一人、ゲリラ豪雨にでもあった? と思うぐらいずぶ濡れだ。「私、今日、けっこう痩せたりして」と、八千代。
それはない。が、自分に都合の良いことでも考えながらでないと、精神的に保たないのだろう。
十時五十分——。
「はふっ、はっ、きっと、良い方向に向かっている。考えてみれば、バスに乗れても電車は動いてなかった。そこからタクシーを拾うのも混雑しててきっと無理だった。大田さんとの出会いが、はっ、私の人生を変えてくれるんだ、から」
頬の肉が縦揺れするたびに、目を見開いたり、閉じたりと表情が変わる。ポッチャリ? で変顔、汗だく女子がドスドスドスと走っている。周りの通行人が見ないわけがない。
しかし、そんなことはお構いなしだ。
「うおー姉ちゃん、どうしたぁそんなに急いで。地震かと思ったわ」と笑う土方のオヤジたちを無視。
「あの……」と弱々しく話しかけてきた老人を「ごめんなさい」とふりきる。
自転車で転んだ男の子を横目で見つつ「ごめんね、頑張れ男の子、と心を鬼にして前を向いた。
走る、八千代は走る。一念通天、流汗淋漓、鬼気迫るほどの迫力で、走る姿はまるで熊。
十時五十五分——。
リンクタワービルのエントランスを抜けて、エレベーターホールに着いた。
全十二基のエレベーターはメインの低層棟と高層棟で、五基づつにわかれていて、残りはバックヤードにあるのだろう。
ここで気づいた。「そうだ、ビルに着けば良いわけではなかった。事務所は二十一階だった。もう間に合わないかも」と。
しかし、今の八千代には杞憂であった。追い風は吹いていた。
高層棟のエレベーター前に、十人ほどが待っていて、おかげでちょうど扉が開いたのだ。
「良かった。やっぱり、私の人生はこれで変われるんだ。アルバイトも決まって、その後、また何か起きるかもしれないけど、きっと大丈夫」
エレベーターに滑り込む! 間に合った——。
ブーー警告音が鳴る。
「ん?」八千代は一度降りて再度乗る。
ブーー警告音が鳴る。
積載荷重オーバーの警告音だ。
乗っている他の人達は見ないふりをしている。
八千代は降りた。
エレベーターの扉が静かにしまる。
あとから来たサラリーマンが言う。「あー間に合わなかった。あと五分はこねーな」
高層棟用の他のエレベーター四基も、降りて来ようとはしている。
あと二分ほどで十一時だ。
「はー……なるほどね。やっぱりだ」
八千代は何かに納得してビルを出た。
どうやら、幸福になるにはまだ早いようだ。
が、その顔は頭上の空のように晴れやかだ。まるでマラソンランナーがゴールした時のように晴れやかだ。不運なんて慣れている。
汗を拭きながら言う——、
「とりあえず、痩せよ!」
おしまい