第7節
七
妖精、と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。
蝶々や蜻蛉の翅の生えた美しい小人だろうか、それともキラキラと瞬く光の粒だろうか、それとも、地下の宝石を守る小さな老人だろうか。
様々に思い浮かべるかもしれないが、それらは「妖精」という大きなカテゴリーのうちの一部でしかない。
妖精の中には、血なまぐさいものもいる。
例えば、オールド・ブラッディ・ボーンズや、エッヘ・ウーシュカ。前者は名前からして血みどろであることが分かるだろうし、後者に関しては人を水に引き込んで八つ裂きにして食べてしまう恐ろしい怪物である。これらの他に、お馴染みのエレフやピクシーなどもいるが、前述のものも含めて全て「妖精」だ。
妖精という言葉は、日本で言うところを妖怪、と用法が似ているのかもしれない。
それは妖精と妖怪がイコールの存在であるという暴論を吐いているわけではない。イギリスでの妖精の扱いと、日本での妖怪の扱いは、どうしたって異なる。これらがイコールで繋がることはない。
それぞれの文化で培われた、似て非なる、独立した定義である。
本題からずれてしまったが、つまり、ここで僕が言いたいことは、妖精とはキラキラとしたメルヘンの存在であるとは限らない、ということだ。
なんて悪趣味なのだろう――それが僕の、建物に入った最初の感想だった。
あれはシャンデリアのつもりなのだろうか? 元は一体何の生物だったのか分からない、無残にちぎれた死体が、あちらこちらにぶら下げられている。所々に薄い毛が生えているので、人間ではなさそうだ。もう少しじっくり検分すれば、何の生き物か分かったかもしれないが、そこまで僕の心臓は厚くない。
見ていられなくて、思わず目を背けた。が、背けた先にも、柱に巻き付けられた何かの臓物が目に入った。長さからして、生物の消化管のようだが……。
こみ上げそうになる吐き気を逃がすために、他のことに意識を向ける。
この建物、外から見た時は小さな教会に見えたが、中に入ると、外観よりも明らかに広いように感じる。そういえば、建物に入る時、妙な感覚があった。もしかすると、この建物全体に、魔法でも掛かっているのかもしれない。
魔法。大いに夢があるではないか。
いつか本で読んだ、魔法使いの世界を思わせる。……のだが、辺りにちらばる凄惨な光景のせいで、心躍らせることはできなかった。
それに、心躍らせることができない理由が、もう一つ。
今現在、両脇を衛士に固められているのだが……その衛士が問題だった。
横川さんは、美しい騎士だと言っていた。……が、これのどこが、一体、美しいのか。
そう思いながら、もう一度ちらと、衛士の顔を覗く。
覗いた顔に、生気はない。
眼窩にはまった眼球が、コロリと此方を向く。だが焦点は合わず、そこに意思のようなものは感じられない。
まるで、蝋で固められた人形のようだ。時おり物陰からちらりと見える使用人たちも、やはり兵士と同じように、生気のない顔をしている。
これでは、妖精の国というより、死者の国だ。
妖精の正体については、様々な説がある。
その一つに「地獄に落ちるには善良だが、天国に上るにはあまりにも悪い者の魂」というものがある。つまり、天国にも地獄にも行くことのできない死者のことだ。
今回に限ってはその説が正しいように思う。
では、その王ということは、死者の王ということだろうか?
けれど、それではまた話がこじれる。
この国で死者の王と言えば、一柱しかいないのだから。その一柱は、決して妖精ではないし、そもそも男神ではない。
ガクンッ
突然、衛士の歩みが止められ、僕はつんのめり、危うく躓きそうになる。皮肉にも、両脇の死人がしっかりと支えてくれていたおかげで、どうにか止まったのだった。
辿り着いた先は、大きな広間だった。
礼拝堂、と言った方が良いかもしれない。ただ、十字架は見当たらず、どこもかしこも、残酷な装飾が施されているが。
本来なら十字架が置かれているであろうそこには、玉座があり、玉座にはくすんだ金髪の青年が気だるげに身体を預けている。
青年の傍らの床には、見覚えのある女生徒が倒れ込んでいた。
死んでいるのでは、とドキリとしたが、静かに上下する肩が、彼女の生存を伝えてくれた。
生きている……。そうほっとするのもつかの間、甘やかな顔の青年から、ぞっとするほど冷たい声が掛けられた。
「何だ、お前は。お前のようなものを呼んだ覚えはないが」
「僕は、楽器弾きです。貴方様に、音楽を献上いたしたく、参上いたしました」
用意していたセリフで、たどたどしく役を演じる。
ここで僕が演じるのは、オルフェオ王だ。妖精王に音楽を献上し、その褒美を――大切な人を取り返すという褒美を得る役割だ。
僕の申し出に、青年は怪訝に眉を跳ねさせた。
逡巡するも、やがて「聴かせてみせろ」と高圧的に、こちらを試すように告げたのだった。
「ありがたく、光栄に預かります」
脇に抱えていた荷物を下ろし、ポリエステルの袋を解く。
チャックを下ろすと、竜の鱗を思わせる木肌が顔を覗かせた。
筝である。それは、学校の琴部の部室から、勝手に拝借したものだった。
日頃から生活態度を正していて良かった。おかげで、職員室に鍵を借りに行っても、何一つ疑われることはなかった。「本気の説得」をすることもなく、難なく鍵の入手をクリアできたのだ。
加えて、今日が琴部の活動日でなかったことや、筝を部室から持ち出す際に誰にも見咎められなかったことも、運が良かった。やはり日頃の行いの賜物だろう。
テン、トンと、弦を弾いては、柱の位置を滑らせ、音を調整する。
借り物であるため、自然と手つきが慎重になり、普段そうするよりも調整に時間をかけてしまった。
ようやく音を合わせ終わり、僕は鞄から男物の浴衣(これも演劇部の部室から拝借したものだが)を取り出す。
観客の目の前で服を脱ぐわけにもいかないので、ワイシャツの上から簡単に着付ける。
――流石に、学生服のままでは格好がつかないものね。
筝は、幼いころに祖母から習っていた。
彼女はかつて地元では有名な琴奏者で、地域の市民センターの「お琴クラブ」で定期的に教鞭をとっていたほど。
祖母が琴を弾いている姿を見て、僕も真似をするように始めた。だが、琴に関してはことさら厳しい人だったので、かなり熱心にしごかれた。一音でも外したり、適当な演奏をすることがあれば、横合いから竹の棒が飛んできて、腿をぴしゃりと打ち据えられたものだ。お蔭で、小学校の水泳の授業では、真っ赤に腫れ上がった腿をよくからかわれた。
そんな彼女は、人前で筝を演奏する時には、必ず身ぎれいにしていた。
普段からきちんと整った格好をしていたが、たとえ個人の前での演奏であれ、子供たちに対する演奏であれ、美しく格好を整えたものだ。
上手であれ下手であれ、人様を楽しませるために一芸を披露するなら妥協するな、演奏だけが芸ではなく、美しい装いも芸のうちの一つだ。……とは祖母の受け売りだが、僕もそう思う。
そんなわけで、筝にはあまり良い記憶がないものの、僕に多くを教えてくれた楽器でもある。今でも腿を叩かれる痛みを思い出すが、それでも、時おりふと思いついて爪弾くほどには愛着がある。
最後に弾いたのは、三日ほど前のことだったか。
一日弾かなければ、取り戻すのに三日かかると言われている。単純計算で、あと九日は弾かなければ、三日前の勘は取り戻せない。最盛期(祖母が存命の頃だ)までの勘を取り戻すには、一体何百日必要なのだろう。
分かってはいたが、僕にオルフェオの役は大きすぎた。なんせ、オルフェオの元となったオルフェウスは、一説にはアポロン神の息子とされているのだから。芸術神であるアポロンの、竪琴の才を引き継いだのがオルフェウスだ。その演奏で、冥王の同情を引き出したほどだ。
神に迫る演奏なんて出来っこないが、そんなことを言っていても仕方がない。
ごくりと唾を飲み込み、筝に手を置く。
ポォン
広い空間に、筝の音色が渡っていく。
が、それらは響くことなく、空間に溶けて、消える。
音がぶつかるものが無いのだ、ここには。
ただ音が渡っていく。音に手ごたえがない。
霧散する音に、歯噛みした。
それでも、始めたからには弾き続けなければならない。どうにか冷静な思考を保ち、弦を弾き続ける。
一曲を無事に弾き終える、二曲も同様に。しかし、三曲を弾き終え、四曲目を弾き始めようとしたところで、「もう良い」と冷たい声が飛んできた。
広い空間で、勢い余った最初の一音が、短く消える。
恨みがましい余韻が、遠くの通路で響いていた。
「何か、リクエストはありますか?」
「無い。それ以前に、その楽器は私に馴染みのないものだ。それでは、上手いか下手かも分からない。分からぬのであれば、心を震わすこともない」
「そうですか」
初めて聞いた楽器なら、それこそ興味が湧くと思うのだが。彼にはそれがないのか。いや、自分の演奏が下手過ぎた可能性も否めない。
帰ったら、もう一度筝を練習しよう。そう心に固く決めた。
「いらないな。ところでお前、名前は何と言う?」
「名前……」
妖精に名前を問われても、正直に答えてはならない。もし答えてしまったら、名前をたどって、探しに来るからだ。
探し当てられた人間がどうなるかなど、想像に難くないだろう。現に、探し当てられた少女が、そこにいるのだから。
「ネモです」
そう答えると、目の前の男は、喉を鳴らして笑った。その表情は憎らしそうに歪められている。
彼の反応を見て、僕は直感的に思った――しくじった、と。
「『名無し』とは、いやはや……小賢しい。お前は、妖精の道理を多少なりとも理解しているようだ。そう、私たちに名を明かしてはならない。私たちは、私たちに無礼を働いた人間を探し出し、必ず報復するからだ。いや、賢い、かしこい」
男がするりと、玉座を立つ。
「この国の住人は、どれも無知な者ばかりだった。妖精との付き合い方を、何一つ知らないのだ。そんな国で、お前のような者は珍しい。だが、少々機転が足りなかったな。使い古された『名無し』などではなく、それらしい偽りの名前を喋れば良かったのに」
まずい。そう思って、後ずさった時のこと、ガシャンと、重量のあるものにぶつかった。
ハッとして振り向けば、そこには死人の騎士が立っている。それは虚ろな目を、ぐるりと僕に向けたのだった。
「道理を分かっているからこそ、ただで帰すわけにはいかない。大方、この娘を連れ戻しに来たのだろう? 年恰好がちょうど同じだ、もしや恋人か? まあ、そんなことは関係ない。お前には褒美の代わりに罰をやろう。不快な音を奏でた罰と、私を欺こうとした罰だ。刑罰は、そうだな、縛り首では生ぬるい。八つ裂きなんてどうだろう?」
逃げ出す間もなく、左右から身体を拘束され、地面に引き倒される。
まともに受け身をとることも許されず、床に顔面を強打し、口内にじわりと血の味が広がった。
血の味だ、なんて見当違いなことを考えている間に、あっという間に手足を縛り上げられ、体が浮き上がる。
ゴツン
宙づりに持ち上げられた拍子に、頭を強く床にぶつける。
痛みに一瞬、意識が飛びかけ、くらくらと激しい眩暈からようやく気付いた時には、自分の体は肉吊り用の鉤針に括りつけられていた。
玉座の男が、衛士の腰から錆びた剣を抜き取り、見せびらかすようにそれを掲げながら、こちらに近づいてくる。
剣についた錆びは、尋常ではない。
赤い錆びは、それこそが血のように見えてくる。
もしかすると――僕は周囲のシャンデリアを見回した。あの錆びは、これらのシャンデリアを作った際にできたものではないのか。
物騒な想像は、しかし、それが真実に思えてくる。
肉吊りフックにぶら下げられた自分と、それを見てにたにたと笑う、刃物を持った男。どう考えても、血なまぐさい未来しか予想できない。
後ろ手に縛られていては、脱出のしようもない。
「生身の人間の解体は久々だ」
「血抜きした方が良いと思うけど」
「血抜きをしない方が楽しいだろう」
「悪趣味だ」
悪態を吐きながらも、脳は回路が焼ききれそうなほどに、めまぐるしく思考を回転させている。
どうしよう、どうしたら良いだろう。
考える、必死で。この絶体絶命の状況を、一体どうしたら打開できるのかを。
しかしいくら考えた所で、答えは、自分に有利な結末は、出てこない。
どう思考を巡らせても結論は一つだけ。
自分は「成す術もなく死ぬのだ」と。
「……訊きたいことがあるんだけど」
「私に答えることなど無いのだが」
少しでも時間を稼ごうという魂胆は、あえなく潰え、男は、スラリと剣を振り上げた。
ぎらりと、錆びた銀色が鈍く光る。
男の美しい顔が、加虐的に歪んでいる。
――ああ、本当に死ぬのか、僕は。
頭の中にサラサラと描き出される未来予想は、いつもよりもずっと鮮明だった。
すぐそこに迫っている死に対して、僕が抱いたのは、恐怖よりも、憤怒だった。
あれこそ、これから自分を殺す凶器だ。僕を殺傷至らしめる死因だ。なのにどうして、恐怖ではなく、怒りが勝る。
これは、僕の望む結末ではない。
事件は解決していない。横川さんも救えていない。こんな半端な結末では、あまりにも、情けない。
無理やりに、望まぬ幕引きを強いられることへ、狂わんばかりの怒りが募る。
ああ、三国志によく出てきた「憤死」という言葉が、今ならよく分かる。あの刃が僕の命を絶つのと、僕が憤りで以て死ぬのでは、一体どちらが先なのだろう。
いや、いや。それではいけない。
僕は、自分で、自分の命を絶たねばならない、確実に。
だって、そうでなければ意味がない。なし崩しに死んだのでは、何ら贖罪にならないのだ。僕が、僕の意思で絶たねば、どうして、僕が殺した家族に顔向けできよう。
本当なら、弟たちを成人させてから、死に場所を探すつもりだったけれど。
もしかしたら、これこそが、自分に与えられた罰なのか。
それならば、受け入れる他ない。
ならせめて、こと切れるまで、与えられる痛みを見つめ続けよう。僕を殺すものを、死ぬその瞬間まで見続けよう。決して逃げることは許されない、瞬きすら、許可しない。そうして、小さな反撃として、こと切れる直前に、僕は僕の歯で、この舌を噛み切ってやるのだ。
決して閉ざさぬよう、眼球が零れそうなほど、目を見開く。
ふと、ひらけた視界の隅に、少女の姿が入った。
――横川さん。
彼女は、昏々と眠り続けている。
これだけ騒いでも目を覚まさないのはどうしてだろう。それほど衰弱しているのか、それとも、魔法か何かで眠らされているからなのか。心なしか、彼女の顔色は、放課後に見た時よりもさらに青くなっている気がした。肩が上下していなければ、死んでいると勘違いしたことだろう。
結局、自分では助けられなかった。悪戯な時間稼ぎくらいしか、僕は、彼女に自らの価値を残せなかった。
自らの死を前に、彼女に申し訳なさと、悔しさを抱く。だが、彼女が眠っていてよかった、とも安堵するのだ。クラスメイトが惨殺される姿なぞ、見せたくはない。
「横川さん、ごめん」
ポツリと零した呟きを合図に、ブン、と剣が振り下ろされる。
銀色の刃が、僕の腹を目掛けて――
「累」
突然、視界の横合いから現れた、真っ黒な影。
それは目の前に立ちふさがり、振り下ろされた刃を、腕で受け切ったのだった。
黒い肩越しに、真っ白な顔が、ゆっくりと振り返り、血のように真っ赤な目が、僕を見下ろした。
「時間稼ぎをするという話ではなかったか」
「クロ……!」
ぱぁっと顔に期待を浮かべて呼びかけるも、返された表情は、呆れ一色だった。
「言い訳をどうぞ?」
「時間稼ぎはしたよ」
オルフェオ王の物語通りにいけば、横川さんを助け出す……まで行かなくても、クロが助けに来てくれるまでは充分な時間稼ぎができると思っていた。
「ほう。稼ぎが足りなかったみたいだが」
「最善は尽くしたもの。それでも駄目だったなら、残念だけど、仕方ないじゃないか」
「累」
怒気を含んだ声音に、胃が腹の底に落ち込むような心地になる。
「……ごめんなさい」
素直に謝ると、クロは「皮算用もほどほどにしろ」と言って、ブチリと、手の縄を引きちぎった。が、肉吊りに引っ掛かったままの足はそのままに、彼はくるりと踵を返した。
足の縄は自分で解け、ということらしい。が、ナイフもないのに、固結びされた縄を素手で解けるはずもない。
早々に足の縄を解くことを諦め、僕は大人しく吊られたままでいることにした。自分の行動の浅はかさを反省するのには、丁度いい。
ブラリと、自由になった手を頭の横で垂らし、反省の意思を示す。
それを見て、クロが満足げな表情を見せたので、どうやらこれが正解だったらしい。
「お前、何なんだ」
突然現れた男に警戒するように、青年は顔を引き攣らせる。クロの腕にわずかに食い込んだ剣を退き、半歩後退した。
「そう言う貴方は、妖精王であるとお伺いしました。しかし、いやいや妖精王とは、はは、随分出世したものだな、ギァンカナッハ」
対してクロは、心底不機嫌そうな表情を浮かべ、煽てるような声音で妖精を嘲笑した。
「ギァンカナッハ……。本物の妖精王ではなかったのか」
ギァンカナッハ。ガンコナー、とも言うその名の意味は「愛を囁く者」。
人気のない谷間に現れ、若い人間の女性を口説く、美しい男の妖精だという。
ただ女性を口説くだけなら、なんとも愉快な妖精だが、ガンコナーはそんな可愛い妖精ではない。
「ガンコナーに口説かれた女は、やがて自分の経帷子(死装束)を織る」とされ、言い寄られた女性は、ガンコナーを忘れられず、そのうち恋煩いによって死んでしまうのだ。つまり、自分に想いを寄せる女性から精気を吸い取る、恐ろしい妖精である。
「お前、私を知っているのか」
「お前という個体は知らない。ただギァンカナッハは、大体みな似たような姿をしている。金髪に、黒目がちの瞳。いかにも人間の女が好きそうな、な」
はて、と首を傾げる。言葉に棘があるように思うのは、気のせいだろうか? 普段から皮肉っぽく、口の悪い男だが、ここまで積極的に嫌味を吐くのも珍しい。
「大方お前も、明治の頃に入ってきたくちだろう? この国はアニミズムが浸透している故に、俺たちのような異形が入りやすい。最近だとデュラハンなんかが、首無しライダーとして都市伝説になっているぐらいだ」
「あれデュラハンだったんだ……」
首無しライダーは、一九八〇年頃に生まれた都市伝説だ。とある暴走族の男が、道路に張られていたピアノ線に引っ掛かり首を失い(どうしてピアノ線が張られていたのかは謎だが)、頭部を失ったまま走り続けている……という話である。
まさかその正体が、イギリスからの舶来者であったとは、露にも思わなかった。
「異形が入り込みやすい風土だが、住処として暮らしていくには厳しい環境ではある。この国は閉鎖的だし、まして妖精との付き合い方など知らない。旅行で来る分には良い国なんだが。この国の人間は、郷に従わない者に対してはひどく冷酷だ。『村八分』なんて言葉もあるくらいだしな。どうやら、お前とこの国とでは、相性が悪かったらしい。こんなところに追いやられているくらいだものなァ」
ガンコナーは、女性を惚れさせ、生気を奪う妖精だ。その特性上、彼らは女性に話しかける必要がある。
しかし、その妖精の性質は、この国の国民性とは合わなかっただろう。
現代日本でも、突然外国人に話しかけられたら、驚く人は多いのではないか。
まず外国人相手では、日本語がほとんど通じない。日本人の大半が日本語の中で暮らしているので、突発的な英語に緊張してしまう。そして彼らは距離感が近くて、フランクだ。加えて男性ともなれば、日本人の平均身長よりも上背の高い人が多い。
英語に堪能であったり、普段から外国人と接する機会のある人間であれば、何の障害もない。だが、そうでなければ、程度の差はあれドキリとするのではないか。
明治や大正であれば、なおのこと。まして明治以降は、江戸時代とは違い、貞操観念が厳しくなっていく時代でもある。
明治以前は、貞操観念がかなり緩かったらしい。地方では、行きずりの旅の男女が一夜……なんていうのも珍しくなかった。
貞操観念が厳しくなっていった時代。そして、外国の人間に対する耐性がなかった時代。そんな時代で「人気のない場所で話しかけてくる異邦の男」となれば、恐怖の対象でしかなかっただろう。ガンコナーに魅了されるより前に、女性の方が、そそくさと立ち去ってしまったに違いない。
「やり方を変えれば、何かしら手はあったんじゃないか? 様式美に沿った『神出鬼没の妖精』なんてやめて、人間社会に溶け込めば良かった。よそ者には厳しいが、一度懐に抱けば案外優しいところのある風土だぞ、ここは。それをしなかったのは、お前のプライドか」
「……」
「まあどうでも良いんだ、そんなことは。問題は、プライドを先行させて、本質的な誇りをなくしてしまったことだ。情けない。まさか、女の代わりに怪異や霊を食らうとは。口説き妖精が、随分と零落したものだ」
「怪異……もしかして、これは」
ぐるりと辺りを見渡せば、元が何だったのかよく分からない肉片たちがゆらゆらと吊られている。
「ぶらさがっているほとんどが、妖とすら呼べないほど弱い怪異や、浮遊霊だ。猫や鳥なんかも混じっているみたいだが。ああ、人間もいるな、分量からして、二体か?」
「二人……? そういえば、ノバラ公園で昔、女の子が行方不明になったと聞いたことがある。もしかして」
引っ越してくる前、この地域のことを調べた。地方紙を遡り、この町でかつてあった事件も洗いざらい、全て。
その中にあった事件だ。ノバラ公園周囲で、二一年前と、九年前に、それぞれ少女が行方不明になっている、と。二一年前の事件は高校生、九年前の事件は小学校の高学年だったはず。
「きっとそうだろう」
「そんな」
行方不明の二人が、この中――数多吊るされた肉の中にいる。世間的には、未だ生死不明とされている二人が。
「……」
できることなら、連れ帰ってやりたい。彼女たちの家族が、きっと待っている。
生きているなら早く会いたい、死んでいるなら早く帰ってきてほしい、と。彼らはきっとそう思って、日々を過ごしているはずだ。
「お前、もしかして同郷なのか」
ギァンカナッハの言葉に、クロは既に不機嫌な顔を、さらに深くさせた。随分と器用なことだ。
「さあな」
「クロ、ギァンカナッハが嫌いなの?」
「前々から、気取った妖精だと鼻についていた」
「もしかして、それは嫉妬というものでは?」
「そんなわけないだろ」
言葉尻に焦りが見て取れる。おそらく図星なのだろう。理由は、大方予想がつく。
ギァンカナッハは、美しい妖精だ。
金色の髪に、黒目がちの瞳。その声は背筋が震えるほど甘い。
女性の心を奪うための、美しい容姿。同じ男でも、羨望の眼差しを向けずにはいられない。
なるほど、クロはひがんでいるらしい。
口説き妖精の華やかさに対して、クロはと言えば、ひどく地味な姿をしている。
男の嫉妬ほど見苦しいものは無い、とはよく言うが。たしかに、これは少々、いや、かなり見苦しい。動機が私怨であるのだから、なおのこと。
「お前も妖精か」
「俺はただの一般イギリス人だ」
「嘘つけ、人間の気配がしない。黒髪の妖精といえば、ギリードゥーか?」
「そんなにお優しく見えるのか、俺が? そりゃあ光栄なことだ」
ギリードゥーは「黒い若者」という意味の黒髪の妖精。心優しく、森に迷った少女を助けた伝説がある。ただ、とても警戒心の強い妖精なので、人里に近づいてくることはない。なので、詳しい伝説はほとんど残っていない。
クロの口ぶりからして、彼は何度かギリードゥーと遇ったことがあるようだ。文献にほとんど残されていない妖精の正体には、興味がある。是非、詳しく聞いてみたい。
そのようなことを考えている間にも、クロの眉間の皺がみるみる深まっていった。
ああ、怒っている。とても憤慨している。
ギァンカナッハが、自分の正体を当てられないことに腹を立てている。
自分は認知しているのに相手――それもひどく気に食わない――が自分のことを微塵も認知していない……彼は、それが尋常でないくらい面白くないのだ。まるで、自分だけが彼を意識していて、肝心の相手は、こちらに微塵も鼻を引っ掛けていないようだから。――いや、実際そうなのだが。
彼の腹立たしい気持ちは理解できる。だが人は、それを「逆恨み」と言うのだ。
「ギァンカナッハ、僕たちはクラスメイトを取り返しに来ただけだ。君は彼女の命を喰らうつもりなのでしょうが、どうか、それは止めていただきたい。僕にとって大切なクラスメイトなんだ」
「私にとっても、レイは大切な糧だ」
「彼女はとても苦しんでいた。それは君もよく知っているはず。一度は君を慕い、君に救いを見出していた彼女だ。そんな女の子を、君が苦しめるというのか? どうか、彼女を解放してやってほしい、これ以上は酷というもの」
「レイが私をどう想っていたかなんてどうでも良い。元より、私にとってはただの食糧でしかない。君は食用のニワトリに情けを掛けるのか? しないだろ。……その顔、まさかするというのか? ああ少年、それはただの錯覚だ、同情などではない。単なる臆病風に吹かれているだけだ。これから殺す命に対しての共感から来る怯えだ。現代の者たちは、生活に余裕がありすぎる、だから余分な共感をしてしまうんだ。古い時代を知る私からしたら、そんなものは、ただの甘えだよ」
尊大な物言いの男に、僕は、ピクリと眉を跳ね上げる。
「自分の考えを一般化するのはどうかと思うな。君、誰かに聞いたの? 自分だけの考えでしょう、それ。昔の羊飼いだって、すまないなぁ、って謝りながら羊を殴り殺してたかもしれないよ」
彼は、横川さんを、食用の存在であると捉えていたらしい。それは良い、いや、良くはないのだが、百歩譲って良いこととしよう。いま一番問題なのは、彼が、完全に思考放棄をしていることにあった。
たしかに、食用のため育てた動物に同情することは、傲慢だと言えるだろう。そもそも生き物に「食用」という名称を付けること自体が、傲慢ここに極まれり、だ。豚や鶏に罵倒されても、僕たち人間には返す言葉がない。
だが、果たして、それらに同情することを、甘えと言うだろうか。
だって、命の重みが分かるからこそ、苦しいのだ。
何かを殺めることに、何も感じなくなってしまったら、僕たちは一体いつ、命の重みを知れば良いのか。
まったく人間とは、難儀な生き物だと思う。こんなにも脳が発達しなければ、本能のままに生きることができたなら、こんな当たり前なこと――生きるために他を殺すことに、苦しまず済んだだろうに。
しかし。しかし、だ。奪う命を哀れむ……そこにあるのは、果たして傲慢だけだろうか。何も感じず殺すことと、憐みを持って殺すこと、それらは同じだろうか。どちらが正しいなどはきっと無い。だが、努々「他を差し置いても自分が生きることは当然の権利」などと愚かな傲慢を抱かぬよう、その小さな傲慢さ――奪う命を哀れむ傲慢は必要だと、僕は思うのだ。
つまり、そう、僕は腹を立てているのだ。
何を偉そうに、思考放棄を誇っているのかと。
何を、古い時代を盾にして、愚かな傲慢を誇っているのかと。
「あと、さっき口を滑らせていたけど、君って実は余裕ぶっているだけだったんだね。本当は余裕がないのか。獲物に対して同情を抱く余分も、躊躇する余裕も、微塵もないほどに」
そもそも、古代と現代を比べることが愚かしい。古代と現代が積み木のように重なっているとして、積み木の下が無ければ、上は崩れてしまうし、積み木の上がなければ、それは積み木ではなくなってしまう。古代と現代は連続している、故に、それらを比べる必要性などない。
「……そもそもの話、お前たちと私とでは精神構造が違う。お前たちにとってのお涙頂戴話が、私たち妖精の道理に合うとは思うなよ。彼女が私に懐いていた? そうかい。だが、それで『はいそうですか』なんて言って彼女を返すとでも思ったのか? 随分と平和ボケしているようだ」
「そう。どうやら平行線でしかないようだ。なら、実益の話をしよう」
ふう、と深く息を吐く。落ち着こう。僕は喧嘩をしに来たわけではない。交渉人としてやって来たに過ぎない。横川さんを救うために。
「君は空腹状態にあるんだろ。なら彼女の代わりに、望むものを望むだけ持ってこよう。聞くところによると、君たち妖精は、穀物や虫、鳥を好むんだろう。さすがに妖婆は用意できないけど。定期便でも可だ。どうだろう。長い目で見て、こちらの方が良いのでは?」
僕にとって、最良の提案だった。これなら、血を流さずとも、お互いに利益が生まれる。
だが、最良の案と思っていたのは、僕だけだったようだ。
申し出に、ガンコナーは顔を真っ赤にさせ、ぶるぶると手を震わせる。
「私を愚弄するか。そんなものでは話にならない。レイを返すなら、レイに代わる命が必要だ。ならお前が代わるか?」
「……もしかして、僕、失言だった?」
「まあ、そりゃそうなるだろうよ。俺がアイツなら、こう言うだろうさ。『俺は乞食じゃない』って」
踝を吊られたまま首を傾げる僕に、クロが呆れた表情を浮かべた。
確かに。プライドの高い妖精に対して、物で釣るのは悪手だったような気がする。それこそ、プライドを裏切られた思いになるだろう。
僕はまだまだ妖精心の理解が足りないらしい。
だが、今回に限っては、これが正解だったようだ。ギァンカナッハは、怒りで冷静さを欠いている。横川さんと僕を取り換えても良い、と言うほどに。
ギァンカナッハは女性の精気を奪うと思っていたが、彼の言葉からして、どうやら相手が男でも精気を回収できるようだ。これは、大発見なのではないだろうか? 妖精の研究に大いに貢献できる発見なのでは。
――なるほど、そういう手もあるか。
彼の提案は、僕にとって魅力的なものに思えた。
僕が一時的にでも身代わりになれば、その間、横川さんは解放される。
ギァンカナッハとの繋がりを僕に移したら、彼女を連れてここから強行突破する。
地上に戻っても、繋がりを通じて、僕はギァンカナッハから干渉されるだろう。それこそ、横川さんのように一睡もできない日々が訪れるはずだ。むしろ彼女よりもひどい目に遭うことが予想される。
しかし、今必要なのは、どうにかして横川さんとギァンカナッハの繋がりを断つこと。
彼女の精神はもう限界だ。教室で話をしていた時も、顔を真っ青にさせ憔悴しきっていた。このままではたちまちのうちに憑り殺されてしまう。それほどまでに、彼女の魂は疲れ切っている。
その点、僕なら彼女よりいくらか耐えられる。
それに僕は、縁を視ることができるし、視えれば何かしら対処ができる。今のところはどう対処したものかさっぱりだが、三人寄れば文殊の知恵、同じく縁の視える父や弟たちに手伝ってもらえば、きっとどうにかなる……はずだ。
確証はないが。
「じゃあ、そのように――」
「なに勝手に話を進めているんだ」
クロの手が僕の口を鷲掴みしたので、強制的に閉口せざるを得なかった。口と一緒に、鼻も押さえられてしまったので、息ができない。苦しくてムゴモゴと藻掻くと、ようやく、僕が窒息していることに気づいたらしいクロが、「おっと」と手を離した。
唾のついた手のひらを、僕の服で拭くのだから、本当にひどい奴だと思う。
抗議の声を上げようとすると、ちらり――いや、ぎろりと、クロが僕を睨んだ。が、その目つきはまったく怖くない。怯えるには、その目は、あまりに優しすぎた。
心配してくれているのだ、この冷酷な男は。粗野な態度が目立つが、身内への愛情が深いあたり、好ましく思う。むしろそれ以外に、良いところを上げ連ねることが出来ないけれど。
「さてギァンカナッハ。お前は果たして、交渉ができる立場にあるのか?」
映画の悪役じみた脅し文句は、まるでマフィアか悪徳捜査官のような口ぶりだ。
「お前は、居場所のないこの国に、どうにか自分の居場所を作ろうとした。その結果が、この地下空間だ。加えてお前は、あろうことか、自らを妖精王と詐称した。――いや、むしろお前がこの国に渡って来たのは、端からそのためだったのかな?」
ギァンカナッハが口の端をきしりと噛む。
どれが正解なのか。それとも、どれも正解なのだろうか。この空間が彼のシェルターであること、この国に来たのは自分が妖精王になるためだということ。
「そもそも、ここは『元々』何だったのか? この国に妖精の世界などない。この国を支配するのは、八百万の神と、妖。この国には、高天原と葦原、根之堅州国、あとは妖の世界があるのだったか? そう、この国は完全に出来上がっている。二六〇〇年という年月の杭によって厳重に固定された世界だ。ただでさえ、この国で妖精は圧倒的マイノリティであるのに、この日本という土地が、わざわざその領域を分け与えるはずがない。そんなもの、この風土にとっては無駄でしかない」
僕も疑問を持っていた。妖精の国が日本に在ることへ。結局、いくら考えても分からなかったその謎の答えを、クロはもう分かっているようだった。
クロは言った。「ここは元々なんだったのか」と。その口ぶりでは、この世界――この妖精の国には、元になる世界があったことになる。ならそれは、一体、何だ。
妖精の誘拐を、日本風に言うなら「神隠し」。この事件をそう定義するなら、ここは、迷い家や隠世といった類になる。
「じゃあ、ここは穂端国?」
「いいや。妖怪世界にしては、俺の肌に合いすぎる」
「クロに? だってクロは」
ぶるり。途端に外気の温度が下がった気がした。肌寒さに身震いし、鳥肌のたった腕を擦る。
「ある可能性」を思い浮かべそうになった途端、押し寄せるように、根源的な恐怖が腹の底から湧いてきた。
「黄昏時、林檎の接ぎ木、その下で眠る女を誘う、妖精の王。オルフェオ王の物語を知っていれば、誰もがそのオマージュだと分かるだろう。だが、あまりに似すぎている。そもそも、何故オマージュする必要があった? お前がオルフェオ王の物語のファンであればその限りだが、そうではないのだろう? なら答えはおのずと導き出される、それは、オルフェオ王という有名な物語が、基盤として必要不可欠だったから。ここは、物語を土台とした、積み木の世界だ」
土台となる物語がなければ成り立たない、ということ? いつ崩れるかも分からない、危うい均衡の上に立つ世界。それが、今僕たちが立っているこの世界の正体?
――ではその世界は一体、どこに作られた?
ここが不安定な世界であることは分かった。しかし僕が引っ掛かっているのは、その土台を一体どこに建てたのか、ということ。
僕は思い返す、ここに来るまでの出来事を。
木の洞に吸い込まれる感覚を、確かに覚えている。どこまでも、底のない穴を落ちていく感覚を、しっかりと覚えている。
――ここは、どこだ?
思考を固めていく度に、ぞわぞわと、漠然とした嫌な予感が、たしかな輪郭を持っていく。
僕は木の洞に吸い込まれ、その中を落っこちて、この世界に辿り着いた。
木の洞を落ちていったら、一体、どこに辿り着くだろう。
そこは木の根、土の下。
木の、根っこの世界。
「……冥界?」
恐る恐る、確かめるように呟くと、クロがニッと不気味に笑った。
「オルフェオ王のたどり着いた先は、本当に妖精の世界だったのかな。本当は、死者の世界だったのではないのか」
オルフェオ王は、オルフェウスをモデルにしている。
そう、それは僕が彼女に教えたことではないか。なら答えは簡単、そうだここは――。
「元々、妖精の正体は死者の魂だなんていう話もあるから、妖精の国と冥界は切っても切り離せない関係だ。物語を基盤とした世界を作るには、妖精の国、ひいては冥界が必要だった。幸いこの国には、土着の冥界がある。そう、ここだよ」
急に、周囲を取り巻く空気がいっそう冷たくなった気がした。さっと顔を青くさせる僕を見て、クロはさも小気味良い様子だ。
「ニアイコールの関係にある妖精と死者、その繋がりを使って、お前はこの冥界の一角に、小さな世界を造り上げた。それが、俺たちの今いるこの場所の正体だ。どうだ、当たっているだろ?」
ギァンカナッハは否定も肯定もしない。ただ、居心地悪そうに歯噛みしている。
「だが、その土地にはその土地のルールがある。お前のしたことはもちろんルール違反、不法占拠でしかないからな。もしもこの国の冥界を取り仕切る女王に知られてしまえば、ただでは済むまい。だからお前は、知られないようにする必要があった。少しでもカモフラージュするためにここを死で満たし、怪異を喰らってでも力を保ち続けなければならなかった。全ては、この場所を隠すために」
クロの言葉を受け、僕は周囲を見渡す。
ぶら下がる肉と骨の装飾、腐臭と死臭に満ちた死の空間。死で満たさざるを得なかった、必死の痕跡を。
死に囲まれながら、ギァンカナッハは何を考えていたのだろう。冥界の主におびえながら、何を思って日々を過ごしていたのだろうか。
偏執的に飾られた空間に、僕は、彼の抱いた恐怖の一端を垣間見た気がした。
「だからと言って、そりゃあ、喰いすぎだ。お前はもう妖精ではなくなっている。それではただの――悪魔だ」
クロがそう言うとほぼ同時に、ブチリ、と何かが破れる音がした。
音の出どころは、目の前の妖精。
ギァンカナッハの顔が、突然、崩れた。
「え?」
瞬きの間に、ギァンカナッハの姿が変わった、まるで手品のように。
美しかった金髪は、泥のような黒へ。
黒目がちだった瞳は、朽ち果てた空洞に。
白かった肌は、黒ずみひび割れ、割れた皮膚の隙間では、蛇と蛆が蠢いている。
「これは……」
「これが本当の姿だよ。魔法で隠していたんだろうがね。妖精は真実に弱い」
クロの言葉によって暴かれたその姿こそが、彼の本当の姿。まるで冥界の住人を連想させるような、恐ろしい、姿。
正体を暴かれたギァンカナッハは、恐ろしい雄叫びを上げる。怒りとも、悲哀ともつかない、叫びを。
「どうして、こんな」
「優男がいい気味だ、と言いたいところだが、これには流石の俺も困惑だ。鼻につく男だったから、自慢の顔をどうにかしてやろうと思っていたが、さしもの俺も何もここまで……と思わなくもない」
宙づりになっていてよかった。姿が上下反対に見えるので、変わり果てた妖精を前にしても、ある程度の冷静さを保つことができた。もし宙づりでなかったら、悲鳴の一つは上げていただろう。
「クロ……」
「とりあえず今言えるのは、正体を暴かれた妖精っていうのは怒り狂う、ってことだけだ。さあ累、お前は一体どうしたい?」
「どうって……」
どうして、こうなってしまったのだろう。
ギァンカナッハ。この国に来て、居場所を見つけることができなかったのなら、故郷へ戻れば良かったのだ。こんな姿になり果てる前に。何故それをしなかったのか。
――戻れなかったのだろうか。
明治の頃。鎖国を解き、貿易が盛んになった頃にやってきた彼は、どんな心持ちでこの国の土を踏んだのか。新天地を開拓するような晴れやかな気持ちか、それとも、冒険心か。
しかしこの国の性質と、ギァンカナッハという妖精の特性は、残念ながら合わなかった。
それが分かった時、きっと彼は、故郷へ戻ろうとしたはず――だが、何らかの理由があって、帰ることができなかった。帰り方が分からなかったのか。帰れない理由があったのか。
彼をまだよく知らない僕には、それが分からない。もっと言葉を尽くせば、それを分かってやれるのだろうか。
朽ち果てた妖精の、顔に奔ったひび割れが、涙の筋のように見えた。
まだ彼のことは分からないけれど、もしかしたら、故郷に彼を帰してやることが、救いに繋がるかもしれない。ここにいるよりは、こんな死臭に満ちた場所よりは、ずっと良いはずだ。
「ギァンカナッハ」
呼びかけると、彼は、こちらを見た。大丈夫だ、姿は変わろうとも、つい先ほどまで言葉を交わしていたのだから。
「イギリスに帰ろう」
僕の言葉に、クロが目を丸くさせる。彼の肩越しに見えたギァンカナッハが、明らかに動揺して見せた。
腐り落ちた眼窩の奥から、視線を感じる。その視線は僕を疑っていた。
しかし疑りの中に、仄かな期待がある。まるで、縋るように。
「……帰りたい」
ぽつり、と妖精が言う。
喉から転がり落ちた素朴な言葉は、彼の本心なのだろう。表情のない顔が、より痛々しく感じられた。
「じゃあ帰ろう。その姿だってきっとどうにかなる、確証はないけど。生きていれば何とかなる。そうだ、君の故郷はイギリスのどこ――」
そう語りかけた途端、しかし、彼はその形相を激しい憤怒に歪めたのだった。
「帰りたい! 帰れない! 帰れない! 帰りたい! 帰れない!」
自分の髪の毛を掴み、狂ったように、グシャグシャと搔き乱す。ずるり、とべたついた毛髪が溶けた頭皮から抜け落ちるのすら、厭う様子はない。
ダンッ、ダンッ、と子供が駄々をこねるように足踏みをし、時おり聞き取れる「帰れない」「帰りたい」の他に、何か意味の分からない言葉を喚き散らした。
つい先ほどまで理知的な反応を示していた彼の、突然発狂した姿に、僕は驚きとともに、言い得ぬ恐怖を抱いた。
――いつから、狂っていたのだろう。
きっと彼は、既に狂っていたのだ。正気であれば、こんな恐ろしい場所に何十年もいられるはずがない。彼はずっと狂い続けていたのだ、先ほど僕と言葉を交わしていた時も、ずっと。
しかし、さっきまでは理性的に話すことができていた。その彼は、どこに行ったのだろう。彼の窪んだ眼窩に正気を探すも、そこには狂い果てた本能しか見当たらなかった。
『妖精は真実に弱い』
そう先ほどクロが言っていたではないか。
か細い均衡を保っていた、正気の殻の最後のひとかけ。それは、狂気の正体を暴かれたために、完全に砕け散ってしまったのだ。最後のそれは紛れもなく、僕自身が打ち砕いたのだった。
僕は、彼の「希望の正体」――「帰郷の願い」を暴いてしまった。それが、最後の引き金。
「……僕が?」
自責に竦み上がる僕へ、クロがそっと呼びかけた。
「累、あいつはもうとっくに帰れなかったよ。帰るには、自分を失いすぎた。たとえ故郷の土を踏んだとしても、あいつはもう懐かしいとすら思えない」
「だけどクロ、どうにかして取り戻せないだろうか。ついさっきまで、そこにいたんだよ。彼はただ帰りたいんだ。あんな姿に変わり果てても、帰りたいって泣いてる。ここまでなりふり構わず生き長らえてきたのは、帰るためなんだ。クロ」
「帰る場所も分からない奴が、どこに帰れるんだ。本当の故郷に戻っても、もう分からないんだぞ。永遠に、どこにあるかも知れない故郷を、もう分からないそれを、絶対に見つからないそれを、探させるのか」
「もしかしたら、時間が彼を癒してくれるかもしれない」
「ああ、なんだ。累は悔いているのか、軽率な発言をしたことを」
沈黙を返すよりない。
押し黙る僕を見て、クロは大きなおおきなため息をついたのだった。
「いずれはこうなる運命だった。他の道もあったのに、あいつは、このような結末を孕んだ道をわざわざ選んだ。分かっていたはずだ。あいつは、あいつ自身で、時間をかけて自分を殺した。お前はただ、すでに破滅したことに気づいていない男へ、引導を渡してやっただけだ」
「本当に、戻せない?」
「ギァンカナッハという妖精はもうとっくに死んでいる。死んだ者は、生き返らないだろう?」
「じゃあクロなら、彼を救える?」
恐々とした僕の問いかけに、彼は、自信満々に答えたのだった。
「ああ。今ならオプションも付けてやる」
「どんな?」
「お前のガールフレンドも無事に救ってやる」
「が、ガールフレンドじゃない! こんなチビと勘違いされたら、横川さんに失礼だ……」
「そうなのか、ようやく恋人が出来たと喜んだのに。今晩は赤飯にしようかと、さっきまで頭で献立を考えていたんだぞ。ぬか喜びさせられた、非常に残念だ」
クロは喉を鳴らして意地悪く笑った。
こんな時でさえ僕を揶揄おうとする彼に、一言物申してやろうと、勇んだ時のこと。
パチリ、とクロの目が瞬いた。
前髪から覗く紅い目が、ぼんやりと、怪しく光る。
「さあ命じてくれ、累。壊れた妖精に引導を渡せと。全てはお前の決断に掛かっているんだ。お前の命令によって、俺は、お前の優秀な猟犬として、あの妖精を救ってやろう」
「あくまで僕が主犯ってことかい」
「当たり前だ。刃物で誰かを殺したとして、果たして刃物に罪はあるか? 違うだろう? だから累、どうか上手に使いこなしてくれよ」
紅い目がにたりと歪む。なんて邪悪な笑い方をするんだろう、この男は。
紅い瞳の奥は、爛々と、獰猛にぎらついている。
待っている、狩りの合図を。
血の気の多い犬を持つと苦労する。唯一の救いは、こちらの言うことを概ね聞いてくれる、躾の行き届いた部分だけだ。
「クロ、二人を助けて」
そっと、猟犬の首輪を解いてやった。
これは僕が行う殺害だ。
また一つ、背負う命が増えてしまった。
僕は胸元に仕舞ったペンダントをひと撫でする。
「ああ、累の言う通りに」
直後、風もないのに、すべての灯りが掻き消えた。
完全な暗闇に包まれた広間に、地鳴りのような風音だけが、どこか遠くで不気味に響いている。
紅い光が、二つ、ぼうっと浮かんでいた。
「累」
「何」
「耳を塞げ。それから、なにか歌ってくれ」
「……リクエストは?」
「特に思いつかないな。お前に任せるよ」
コツコツ、と靴音が遠ざかっていく――そうかと思えば、それはやがてカチカチと、固い爪の掻く音に変わった。
「――ブラックドッグ?」
ギァンカナッハの、ひび割れた声が、ポツリとそう呟いたのが聞こえた。
直後、グルグルと、と恐ろしい獣の唸り声が、腹を揺する低い声で発せられる。
ああ、始まるのだ。
僕はクロの言っていた通り、両手で強く耳を塞いだ。暗闇で意味はないが、耐えるように、ぎゅっと目を瞑る。
何か、歌わなければ。
咄嗟に思い浮かんだ歌は、先ほど筝で弾こうとしていた曲だった。緊張と焦りのせいか、それ以外の歌が思いつかない。
思い浮かぶままに、歌を口ずさむ。
「……埴生の宿も、わが宿」
塞いだ指の隙間から、雄叫びのような絶叫が聞こえてきた。
悲鳴の背後で、硬いものが折れるような、柔らかいものが噛み潰されるような、そんな音が聞こえてくる。
瞼の向こうでどのような光景が繰り広げられているか、一瞬でも想像してしまった僕が馬鹿だった。
恐怖で目尻に涙を浮かべながら、きつくきつく耳を押さえつける。
「玉のよそひ、うらやまじ」
声を張り上げ、決して歌を絶やさないよう、歌い続ける。それでも、生き物の壊れる音が、手をすり抜けて聞こえてくる。
絶叫の合間の、悲痛な嘆願。その背後、声の主の食い破られる音。
それらが、吐き気を伴って耳を侵してくる。
早く、はやく終わってくれ、はやく終わらせてくれ。そう願いながら、呼吸も荒く、音の外れた歌を続ける。
真っ暗闇の中、聞こえる断末魔。
僕はそれを知っていた。
今なお思い出す、母や祖母、見知った親族たちのそれ。
むしろ普段から、思い出さないよう押さえつけていなければ、容易に意識の表層へ蘇ってくる、悍ましく恐ろしい記憶。
手をすり抜けて聞こえてくるグロテスクな音たち。それによって想起され、無理やり引き上げられたトラウマによって、口の端から、噛み殺した息が漏れる。
「ああ、我が宿よ、たのしともや、たの――」
耳を塞いでいた両手に、不意に、冷たいものが触れる。
気付けば、怖い音は、すでに遠くなっていた。
僕の眼前に、紅い光が二つ浮かんでいる。
ほっと表情を緩めて、僕はようやく耳の縛めを解く。
すると、聞き知った声が、同じメロディを口ずさんだ。
「I gaze on the moon as I tread the drear wild……確か、作曲者はイングランド出身だったな」
クロは僕を担ぎ上げると、足の縄をようやく解いて、地面に下してくれた。
「さあ帰るぞ。ここは生きている奴がいるべき場所じゃない」
「……横川さんは?」
「いま回収してくるよ。ほら、これ。学校から借りてきたんだろ」
そう言って、大きな袋を手渡してくる。ズシリと掛かってくる重みには覚えがある。どうやら、学校から拝借した筝のようだ。
「楽器は無事だが、カバーに汚れがついてしまった。帰ったら、しっかり洗えよ」
「うん。そうだ鞄は?」
「俺が持ってる。じゃあ、レディを回収してくる」
「それとね、もう一個お願いがある。あの二人も連れて帰りたい」
「二人って? ……ああ、あの子たちか。だが全部は無理だぞ」
「骨の一片で良い。弔うためのものが必要なんだ、僕たちには」
何も言わず、クロが離れていく。
しばらくして、戻って来た彼は、背に横川さんを乗せていた。
彼の背から、スウスウと微かな寝息が聞こえてくる。
「寝てるね」
「丸二日も寝てなかったんだろう、そりゃあな」
言いながらクロは、ハンカチの包みを僕の手に乗せた。包みの中で、カシャンと二本の軽いそれらのぶつかり合う音が聞こえてきた。
「お前が責任をもって運べよ」
「うん。ようやく帰れるね」
クロが歩き始め、僕もそれに続く。
「それにしても真っ暗だ。灯りはないのかな。そうだ、スマホの灯りを点けようか」
「やめた方が良い。もうギァンカナッハの魔法は完全に解けた。ここは本来あるべき姿に戻っている。灯りをつければ、住人に気づかれるぞ。黄泉の坂を、全力疾走したくはないだろう?」
確かにそれは嫌だ。竹の櫛も、葡萄の髪紐も手元にない。黄泉の追手から逃れられるとは思えない。
暗闇の中、クロが持つ鞄を掴み、転ばないよう慎重に着いていく。もし自分が転べば、背負った楽器も無事では済まない。なので絶対に転べないのだ。
さっきまで建物の中にいたはずだが、足元の感覚からして、どうやらごつごつとした岩肌を歩いているようだ。草原すらどこにもない。さわさわと吹いていた風もなく、どんよりと淀んだ空気が胸を詰まらせる。
「草原も教会も、全部魔法だったんだね」
「これが本来の姿だ。……累、何が聞こえても振り返るなよ」
「分かってる」
出口に向かって歩き始める。
死者の国にいるのだという気持ちからか、二人、自然と無言になる。
カチャカチャと、岩を踏みしめる音だけが聞こえていた。
しばらくして、いくらか坂を上がった時のこと。
おおーい
最初それは、背後で風が鳴っているのかと思った。
おおーい、おおーい
しかしそれは、風の音ではない。遠く背後から、誰かが僕らを呼ぶ声だった。
「累」
「振り返らないよ」
どうやらクロにも聞こえているらしい。良かった、自分だけに聞こえているわけではなかったようだ。不安の共有が出来ただけで、随分と心が軽くなる。
おおーい、おおーい
注意深く聞いてみれば、それは、聞いたことのある声のように思われた。
そうだ、筝を弾くとき、横合いから飛んできた、あの厳しい声とそっくりではないか。
おおい、と僕を呼ぶ声は、不気味なほどに平坦だ。孫との再会に喜んでいるようではない、かと言って、無視する僕に怒っているようでもない。
ただただ、録音した音声を、何度も掛けているかのような、不自然さがある。
「この声、おばあ様だね」
「そうか?」
「うん、きっとそうだよ」
筝を教える時は厳しかったけれど、それ以外では、とても優しい人だった。
子供のころ。夏に川で親戚の女の子と遊んでいると、よくジュースやお菓子を持って、僕たちを呼んでくれた。日傘を片手に、優しそうな声で。「おおい、おおい、そろそろ上がっておいで」と。
――僕を呼んでくれるのか。怒っていないのかな。貴方を殺したのは、僕なのに。
そう思った途端、呼び声に怒気が含まれているような錯覚を覚えた。掛け声は相変わらず平坦で、まるで変っていないのに。
「俺には、男の声に聞こえるけどな」
「そう。変なの。不気味だね」
「そういう場所だからな」
背後から聞こえてくる声を振り払うように、ふるりと頭を振る。それでも陰鬱とした気分は全く晴れなかった。
歩きづらい、岩だらけの長い坂を、クロに従いながら歩いていく。
おおーい、おおーい
黙って歩いていると、どうしても、背後の声が気になってしまう。
冥界下りによくある、振り返ってはいけないという伝説。そんなの簡単だと思っていたが、こうして真っ暗な道を無言で歩いていると、それがどうにも簡単ではなくなってしまう。絶えず、「振り返って確認したい」という欲望と不安に襲われるのだ。
変な気を起こす前に、気を紛らわせようと、隣の友人に声をかけることにした。
「ねえ追いつかれたりしない?」
「追いつかれたって、どうってことはない」
「どうして?」
「生きている人間は、生きているというそれだけで、死者よりもずっと強い。――死者に心を砕かない限りはな」
「そっか」
「死んだら負けだ、死者が生者に干渉するなんて基本的にできっこない。だから、もし危害を加えておきたい相手がいるのだったら、生きてる間にしておけという話だ」
「あはは、何それ」
一瞬の間が空く。
もう少し会話を続けたくて、話題を探していた時のこと。
「どうして、俺が着くまで待たなかった」
クロに先手をとられ、僕は、とっさの反応に遅れてしまう。
「もう少しで、お前は死ぬところだったんだぞ」
低い声音。彼は怒っているらしい。
「……横川さんが危ないと思ったんだ。昔話でよくあるでしょう、自分の体験を語ったら次の日には死体で発見される、っていうオチ。横川さん、かなり死に傾いていたし、早急に救出すべきだと判断した」
「結局お前ひとりでは何もできなかった」
「彼女が憑り殺されるまでの時間を稼ぐことはできた」
「お前が死にそうだった」
「それでもきっと、横川さんだけは助けられた」
「この子を助けられても、お前が死んだら本末転倒だ」
「僕の人生はもう余生だ、だから良いんだよ」
数拍の空白の後、コツン、とクロがこっちを見ないまま、僕の頭を軽く突いた。
痛くはないが、条件反射で思わず「いて」と声を上げる。
「お前は良くても、績やツヅキ達が、悲しむ」
「クロは入っていないんだね」
「お前が死ねば、俺は晴れてお役御免だ」
「よく言う。死なせてくれないくせに」
「なんだ、死にたいのか?」
「さてね」
僕がひょんなことで死んでも、彼はきっと、大御名の家を離れないだろう。弟たちが成人し、自立して、父さんが死ぬまで、彼らを側で見守るはずだ。
それが分かっているから、つい意地悪を言ってしまった。
あまり調子に乗ると、後で陰湿な仕返しをされる。具体的に言うと、掛け布団やクッションのカバーを裏返しにされたり、シャツを裏返しにしたままアイロンがけされるので、ここいらで手を打つこととする。僕はどちらも経験済みなのだ。
「こんなでも若頭だからね。次代として、お父さんと弟たちは、僕が守らないと。そうだ、はるが良い人と結ばれるまでは、どうあっても死ねないな。綺麗な子だから、花嫁衣裳なんてとても映えるはずだ。考えると、今から楽しみになってきたよ」
「物言いがいちいち年寄り臭いな。それでは兄ではなく父親だ」
「はは。あの二人を成人させ、大人として自立させる……っていう目標は、確かに兄としてのそれより、父親っぽいね」
「こんなそそっかしいのが父親じゃあ、あいつらも大変だ」
「それもそうだ。そもそも、兄という立場だって、僕が強引に決めたことだ。彼らは、最初から納得してないさ」
ツヅキとはる。元は遠い親戚の子供たちだが、両親が急逝したため、うちで引き取って僕の兄妹となった――それは外面的な話。
彼らの父と母を殺したのは他でもない、僕だ。
その僕が、遺された二人を引き取り、自らの兄妹として住まわせ、家族ごっこをさせている。
二人とも、僕が示した家族ごっこに従順に従ってくれているが、僕のことを恨んでいないわけがない。
僕らは互いに、余所余所しさを抱いている。ぎこちない家族ごっこの中で、互いを探り合って、互いに傷がつかない距離を保っている。
僕にだって、彼らに後ろめたい気持ちが無いわけではない。何せ、幼い彼らの眼前で、血の繋がった父母を、惨たらしく殺害せしめたのだから。
だからこそ僕は、彼らの自立を自らに定めた。
本来、彼らの父母が行うはずだったそれを、父母を奪った僕が、肩代わりしようというのだ。
なんと傲慢な発想だろう、我ながら邪悪だと思う。
これはただの罪滅ぼしだ。
犯した罪が消えることはないので、とどのつまりは、僕の独り善がりだ。僕が、僕の勝手な罪悪感で、僕の中に勝手に空けた穴を、勝手に何かで埋め合わせしようとしているだけの、自己満足に過ぎない。
本当に罪が消えるとしたら、それは、彼ら兄妹が僕に殺意を向けた時だ。僕の首を落としてくれた時にこそ、僕はようやく、自らの罪を完全に雪ぐことが出来る。彼らに、自らの罪を、擦り付けることができるのだ。
ただ、それをされると、彼らに殺人という前科を科させてしまう。彼らを無事に自立させたい僕にとって、それは望むところではないので、出来ればそうはしてはもらいたくないところである。
彼らには、出来るだけまっとうに、自らの人生を生きていってほしい――と勝手に願っている。
胸を張れる人生を送ってほしい。
人を殺せば、胸を張れなくなる。自らに課した罪悪感とか、いつか誰かに犯行を知られてしまうのではないかという恐怖で、縮こまって、下を向きながら生きてしまう。
経験者が言うのだから、間違いない。
僕の場合、社会に裁いてもらうことができないので、なお拗れている。
だって、言えるはずがない。
一族郎党、四二人、一日にして、全て僕が殺しました――だなんて。
ちょこちょこと時おり話を交わしながら、長いながい坂を上がっていく。今度は、呼び声に後ろ髪を引かれることはなかった。
延々と歩き続ける。一体、どれだけ歩けば良いのか。このまま永遠に歩き続けるのではないか。
脚がくたくたになって、膝が笑い始めた頃のこと。坂の向こうに、きらりと砂粒のような光が見えてきた。
「出口だ」と思った、その時――
「あれ」
突然、視界が白く爆ぜ、気付けば僕たちは、あの公園に立っていた。
まるで、夢でも見ていた心地だ。
だが、辛さを訴える膝が、あの長い坂上りの事実であったことを教えてくれた。
公園は、くっきりとした夕焼けに染まっていた。
西に傾いた黄昏が、やけに眩しく感じられる。
「かなり時間が経ったと、思っていたんだけどな」
携帯で時間を確認すると、この公園に来てから、まだ十分も経っていないことになっている。
こちらとあちらでは、時間の流れが違うらしい。
むしろ、感謝するべきかもしれない。浦島太郎のように、こちらに戻ってきたら数十年経っていた、なんて洒落にならないのだから。
「なんだか、疲れたなぁ」
クロに背負われた横川さんを見上げる。彼女は、気持ちよさそうな顔で熟睡していた。
口の端から唾が伝って、クロの服を汚しているのは、見なかったことにしよう。彼女のためにも、クロのためにも。
友人が、助かって良かった。
稜線の向こうに、夕陽が沈もうとしている。目が痛いほどの光に、懐かしさすら感じる。
ああ、生きている。
ただ生きているという実感が、僅かな寂寞と安堵とを織り交ぜて、そこにあった。
絡新婦の少年「妖精の誘う木」第7節