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第4節(下)

 月曜日。

 いつもは遅刻ギリギリで登校する私だったが、その日は、一番乗りに教室に着いていた。

 独り、机に肘をついてそわそわと、落ち着きなく指を組み替えながら、誰かが来るのを待つ。早く、誰か来ないだろうか。

 誰でも良いから、親しい人の顔を見たかった。

「あれ、横川さん。今日は随分と早い……、顔が真っ青じゃないか」

 するとそこに、日直の大御名が現れたのだった。

 彼は、心底驚いた様子で私に駆け寄る。

「大御名くん……」

 ホッと息を吐く。


「体調が悪いの? 保健室で休んだ方が良いんじゃないか。送って行くよ」

「いや、いいの」

 男子でも、流石に私の異様な姿――真っ青な顔と目の下にくっきりと浮き出た隈は、目に付くらしい。

 それも仕方のないこと。何せ、丸二日、一睡もしていないのだから。

 寝ると、あの夢を見るのだ。

 真っ暗な中、後ろから呼びかけられる夢を。

 何度も、何度も何度も、あの夢ばかり。

 悪夢を見ない方法をインターネットで調べて、色々実行してみた。どれも眉唾ものばかりで、結果は目に見えていたが、やらずにはいられなかった。結局、その結果は、この通りだけれど。

 うたた寝すら許されない。カクリと一瞬でも寝ようものなら、夢に引き込まれてしまう。

 お蔭で体調は最悪だ。歩けば力が入らずふらふらするし、頭は正常に働かない。家からここに来るまでに、一体何度、信号無視をしたことか。車に轢かれずにここまでたどり着けたことに、感謝する。


 不思議なことがもう一つある。

 体調が崩れるにつれて、夢への渇望が増すのだ。

 あそこへ行ったら、全ての辛さから逃れられる……そんな確証のない確信がある。あの公園でうたた寝をして、あの場所に行ったならば、全てから解放されるのだ、と。

 だが、もしそれをしたら、私はどうなるのだろう。もう、二度と目を覚ますことができなくなるのではないか。

 馬鹿げている。だが、その馬鹿げた妄想に、現に私は苦しめられている。

 頭が、おかしくなったのだろうか。

「眠れてる?」

「……ううん。あんまり」

「授業が始まるまで、少し寝たら?」

「……いいの」

 夢が怖いから、だなんて言えるはずもない。

「大丈夫だから」

「……そう」

 大御名は諦めたように小さく息を零すと、日直の仕事を始めた。

 それをぼんやりと目で追いながら、私は付きまとう眠気に抗うのだった。


 どうにか授業を全て受けきって、放課後を迎える。もし体育があれば、ばったりと倒れていたことだろう、体育のない日だったのが大いに助かった。かといって、全て座学だったので楽だった、というわけでもない。ひたすら睡魔と戦わなければならなかったからだ。黒板の内容を写すのも一苦労で、冷静になってノートを見返してみれば、何やら支離滅裂な文章が書かれている。やはり、睡眠というのは大切なものらしい。

 生憎と今日は掃除当番だったので、すぐには帰り支度を始められなかった。

 班員とともにモップを持って教室を掃除する。ありがたいことに、私の体調が悪いことを察した彼らが、私をチリトリ係(いつも人気の役割だ)にしてくれた。集められるゴミを機械的にチリトリで掬い上げて、ゴミ箱に捨てるだけの、簡単な作業。最後の仕上げであるゴミ捨ても、班員の男子がやってくれたので、大いに助かった。

 あまり班員に興味がなかったので、彼らの人となりを知らなかったが、案外、優しい人たちだったらしい。そんなことをぼんやり考えながら、彼らの親切に甘えた。


 教室の掃除が終わると、班員たちはこれから部活があるらしく、鞄やら部活道具やらをまとめ始めた。

 掃除で力尽き、ピカピカの机に座り込んだ私に、何人かが「大丈夫か」と声を掛けてくれた。

 だが私は、そのすべてに「大丈夫だ」と返し、彼らの親切を拒んだ。

 なので彼らがそれ以上の世話をしてくることはなかった。残念そうに「そうか」と言って、後ろ髪引かれたように去っていく。

 こういう時、素直になれない自分が恨めしい。そうして、勇気をもって親切心を出してくれた彼らに、申し訳なさを抱く。

 親切心というのは、案外厄介で、出すのにも勇気がいるし、受け取る方にも勇気がいる。拒まれた時には無力感が募るし、拒んだ方も罪悪感を抱くものなのだ。

 悪いことをしてしまった、と、普段よりも強い自責の念が、私を押し潰した。

 罪悪感と戦いながら、座席にぼうっと腰かけていると、カラリと、教室の扉が引かれた。


「おや、横川さん?」

 そちらを見なくても、それが誰かは分かった。

「今日は図書館に来ないの?」

「気が乗らなかったのよ。なに、私が来るのを待ってたの?」

「ちょっとはね」

「あは、可愛いなぁ」

「できればかっこいい、の方が嬉しいけど。案外可愛いって言われるのも嬉しいもんだ」

 大御名は自分の机からプリントの束を取り出す。どうやら、係の仕事をするために、教室に戻って来たらしい。

 私を探しに来たわけでは、なかったようだ。


「また、仕事を押し付けられてるの?」

「みんな、忙しいから」

「大御名くん、部活は?」

「帰宅部だよ。運動は苦手だ」

「運動部の他にもあったでしょう。華道とか、吹奏楽とか」

「足並みそろえるのも苦手なんだ。それぞれ好き勝手に演奏させてくれるなら、とっくに入部していたよ」

 集団行動が苦手だとは、意外だ。いつも周囲に八方美人をしている姿を見ているだけに、彼の言葉が信じがたかった。

 大御名は能動的ではない。完璧なほど、受動的な性格だ。私といる時だって、自分のことは話さず、もっぱら聞き手に回っている。

 彼は、自分というものを出さない。

 得意の八方美人も、自分という存在の形を、他者の外形にはまりこむように、ぐにゃりと変えているだけのように見える。ようは他人に合わせているのだ、上手に。言ってしまえば、彼は自分の形を持たない、ということにもなる。


「もしかして私と話すのも、迷惑だった?」

 わざわざ私の形に合うように、姿を変えてくれている彼を心配して、おずおずと声を掛ける。すると彼は、あっさりと首を横に振ったのだった。

「人と話すのは、嫌いじゃないよ。特に横川さんとは、話していても楽しいし。だけど、そうだな、別れた後の余韻は嫌いだな」

「余韻?」

「人と別れた後に、会話の内容を反芻してさ、その中でしでかした自分の失言に、落ち込んでしまうんだ。誰かと話した後は、独り、反省会さ」

「私との会話で、大御名が失言なんてしたことなかったけど?」

「君はそう思っていても、僕は失言したと思ってるんだ。勝手に思って、勝手に落ち込んでいるだけだよ」

「案外、気が小さいんだね」

「手厳しい」

 だからこうやって仕事を押し付けられているんだ、と大御名はプリントの一枚を摘み上げる、まるで汚いものにでも触れるかのように。

 いや、彼は睥睨しているのだ、八方美人でなあなあにしてしまう、事なかれ主義の自分自身を。

 なんだか、彼が今までよりもずっと、身近に感じられた。


「大御名くん、意外と性格悪いね?」

「聖人君子じゃないからね。がっかりした?」

 ニ、と大御名が自嘲気味に笑う。

 ああ、その方がよっぽど格好いいではないか。

「いや、むしろ逆。そっちの方面、もっと出していったら? その方が、みんなから正しく好かれると思う」

「それが出来たら、苦労しないよ。言っただろう、僕は小心者だって。君の言う通りにして、それでみんなから受け入れられなかった時、僕はどうしたら良い? それこそ立ち直れなくなる。良いんだよ、八方美人の僕も、紛れもない僕なんだから」

 暗に、私の前だから自然体でいるのだ、と彼は言う。

 私は、それだけ彼に信頼されているのか。一体私の何が、彼の信頼を勝ち取ったのか。果たして私は、それに値するだけの人物だろうか?


「何で、私には自分を出そうと思ったの?」

 思わず聞いてみると、彼は、少し考え込む仕草をした。

「……君が最初に、君の秘密を教えてくれたからかな。それに報いようと思った。あとは、やっぱり、君の性格じゃない? 僕のこういう本性を見ても『そっちの方が良い』って言ってくれたじゃないか。君ならそう言ってくれるだろうって、それを感じ取ったんだと思うよ、僕は」

「秘密……」

 そうか、私たちは今ようやく、互いの秘密を、互いで共有し合ったのだ。

 秘密の共有は、時に、何より強い信頼になる。


「はあ、面倒くさい。何より面倒くさい、最上級に面倒くさい。こんなに面倒なら、さっさと断ってしまえば良かった……」

 バサリ、とプリントを雑に机に置いて、彼は、私の隣の席に座り込む。

 いつもより繊細さを欠いた粗野な所作に、彼が男であったことを思い出す。

 いつもより身近な彼に、嬉しくなった。

 聖人君子などではなかった。ただの小心者で、自己嫌悪と虚栄心の塊だったのだ。

 私ですら、彼を特別な人だと思っていた。だから、最後の膜――彼に対する余所余所しさを破ることができなかった。けれど、ただの同年代の男の子だと分かれば、それも必要ない。

 親とぶつかり合うことのできない、小心者の自分。助けを求めることのできない、虚栄心の塊の私。なんだ、同じじゃないか。


「ねえ、変なことを話しても良い?」

 自然と、口を滑らせていた。

「大御名くんは、妖精と遇ったことある?」

「ようせい? ようせいって、何の? フェアリー?」

 彼は不思議そうに、顔をきょとんとさせている。

「そう。私はあるよ、ついこの間のことだけど」

「妖精に?」

「そう」

 どうかしてしまったのだ、きっと、寝不足で。こんな馬鹿げた話をしてしまうなんて。

 いくら、彼に親近感を抱いてしまったからと言っても。こんなこと話せば、彼を困惑させてしまうだけなのに。


「いつもその妖精は、夢に出てくるの。最初に遇ったのは、公園でうたた寝をした時のこと。何もない草原で、声を掛けられた。とっても綺麗な、男の人だった」

 大きな洋館。

 優雅な騎士や綺麗な使用人たち。

 出されたケーキはキノコや虫で作られていたこと。

 妖精の青年と話すのが楽しくなって、その公園に足繁く通うようになったこと。

「不思議なことに、その公園でうたた寝した時にだけ、夢を見た。けれどそのうち、足が遠のいていって、私はそこに行かなくなった。だけど、先週の金曜日にね、祖母の家で夢を見たの。あの公園に行った訳じゃないのに。その日見た夢は、それまでのものとは明らかに違っていた」

 大御名は顔を顰める。呆れではない、飽きたわけでもない。

 その表情が、何を表しているのかはよく分からない。もしかしたら、頭がおかしくなったのか、と心配されているのかもしれない。


 やっぱり彼を困らせてしまった。

 けれど彼が話を聞く姿勢をやめなかったので、それに甘えて、私は話を続けることにした。まるで何かにせっつかれるように。

「草原じゃなくて、真っ黒な場所だった。足元は、ごつごつとしていたような気がする。真っ暗な中、どうしようかと困っていると、背後から声が聞こえてくるの。私を呼ぶ声が。それが、なんと言って良いのか、ものすごく怖くて。私は一目散に逃げだすのよ。そういう夢を、見てしまうから、どうにも眠れなくて。ここ二日、一睡もできてない」

「……」

 大御名は何かを考え込むように、顎に手を当てる。

「どうかしたの?」

「ううん、何でもない」

「私、おかしくなっちゃったのかな?」

「違うよ。ちょっと疲れてるだけだ」

「眠れたら少しは違うのにね」

 腹の底から、大きくため息を吐く。

 切実な問題だった。眠れないことには、どんどん体力も気力も奪われていく。その度に、あの公園に行ってしまいたくなる。そうしたら全てが終わる。終わらせたくないものまで、終わってしまう――少なくとも私はそう確信していた。


「もう、疲れちゃった」

 しわがれた声は、本当に自分のものかと錯覚するほど。まるで老人のようだった。

「私、次にあの夢を見たら、もう逃げられない気がするのよ。今度こそ、振り返ってしまう気がする。あの夢を見なくたって、私、もう限界だわ。だって私、今にも半狂乱になって、あの公園に逃げ込んでしまいそうなんだもの」

「駄目だよ」

 彼から、存外強い言葉が発せられたので、少し驚く。

「大御名くん?」

「あ……ごめん。そうだ何か、飲み物を買ってこようか? 気を紛らすのに」

「……眠くならない飲み物が良い」

「難しい注文だ。じゃあ炭酸は?」

「大好物。オレンジが良い」

 オーケーとにこりと返して、大御名は小さな財布とスマートフォンを片手に、教室を出ていった。

 私はというと、彼が帰ってくるまで、どうにか眠らないようにと、必死に目を開けていた。自然に閉じそうになる瞼を、上下に無理やり引っ張った。


 ふと、窓から差し込む夕陽に目を留める。

 蜂蜜色の夕陽が、山の向こうへ沈もうとしている。オレンジ色のちぎれた雲が、紫の影を色濃く抱えている。

 じっと夕陽を見つめていると、不思議と、切ない気持ちになる。

 厭世的で、悲観的で、虚無的な、諦念にも似た感情が。

 そのままぼうっと見つめていると、ついつい、夕陽の中に吸い込まれるような錯覚に陥るのだ。

 今なら、全てを投げ出せる気がする。

 ざわりと、胸の奥が蠢いた。





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