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第4節(上)



   四



 それから、何事もなくまた一週間が過ぎた。何事も、というのは正しいのか分からない。私の中で、ある心情の変化があったからだ。

 日が経つにつれて、私の中で、あの夢への渇望が増していった。どうにかして、もう一度あの夢を見れないか、と躍起になったのだ。

 毎夜「あの夢を見たい」と強く願いながら就寝したが、結局それでは夢を見ることはできなかった。

 辛くなったら来い、と言っておきながら、行けないではないか。そんな怒りが湧いてきた頃、また、客引きのバイトの日が来た。

 仮眠を取ってから行かなければ。そう思い、まずはお決まりの図書館に行ったが、運悪く図書委員会が開かれていたため、私は、またあの公園で仮眠をとることにした。

 すると、なんと夢を見ることができたのだった。

 どうやら公園で眠ることが、私と夢を紐づけるキーワードになっているようだ。

 夢に入ると、すぐにどこからあの男が現れた。

 彼は私を見ると、前と変わらぬ様子で「また来たね」と笑った。前に言った通り、彼は美味しそうな菓子を用意して待っていてくれた。せっかく用意してもらった菓子だが、なんだか変な臭いがしたので(彼曰く、大麦やどんぐり、きのこや虫で作られているらしい!)、手を付けることはなかったけれど。


 夢の見方が分かってからは、ほとんど毎日、あの公園に足を運ぶようになった。夢を見てそこで散々愚痴を言って、いつの間にやら夢から覚める。それが私の、日々のストレスの発散法となった。

 数日前の自分に何と言い訳をしたら良いだろう。「夢は自分を守ってくれない」と自ら夢を拒んでおいて、辛くなったらやはり空想に頼るのだ。

 守ってはくれないけれど、夢の中でなら好き放題に愚痴を言える。ただその一点においてのみ、私はこの夢を重宝していた。……付け加えるなら、綺麗な夢の住人が、私を待っていてくれるのも、私が夢に入り浸る理由の一つだが。

 この現状を情けなく思わないわけではない。結局のところ私は、私の現実に、気の置けない友人がいないのだ。その事実が浮き彫りになる。

 寂しい奴だと、つくづく痛感する。――が、彼女たちとは「家族の在り方」という、ある種の「宗教」の観点において、永久に分かり合えないので、仕方がない。こればっかりは、諦めるしかないのだ。私と貴方では、宗教が違うのだから。

 それを無理に相手へ分からせようとすれば、宗教戦争もとい家族観戦争に発展しかねない。そうなれば何が起こるか――宿題を見せてもらえなくなるのだ。それは私の望むところではない。勉強の苦手な私に、彼女たちの宿題は、必要不可欠なのだから。


 今日は珍しく、シフト調整の関係で、居酒屋のバイトがない。だが、遅い時間から客引きのバイトが入っている。

 私は六時間目の授業を終えてすぐに、帰り支度を始めた。もちろん、あの公園に立ち寄るためだ。

 机の中の荷物をまとめていると、ふらりと、一人の男子生徒が私の傍らにやって来た。

「横川さん」

 それは、私が散々関わらないようにしてきた生徒、大御名だった。

「なに?」

 コホンと咳払いをしながら、じろりと睨みつける。

 最近どうも、喉の調子が良くない。それもそのはず、公園なんかで仮眠を取っているからだ。いくらもうすぐ夏といえど、まだ春だ。時おり風が肌寒い。そんな中で、外で眠っていれば風邪の一つや二つ、ひくだろう。

「今日の放課後、図書室で朗読会があるんだ。もしよかったら、どうかな」

 てっきり、バイトのことで何か言われるのではないか、と身構えていたので、彼の言葉に拍子抜けする。それでも、まだ「もしかしたら」という疑いが抜けきれず、眉間を寄せた。

「何で私に?」

「他の人たちにも声をかけたんだけど、用事があるって言われて」

「だからって、どうして私にも声をかけるの。貴方のことわざわざ避けてるの、分かってるよね」

「分かってるけど、このままじゃ誰も来てくれないし。誰も来なかったら、流石に悲しいから……」

 そういえば、朝のホームルームで、大御名が朗読会の開催をアナウンスしていた。

 あれ? とそこで違和感に気づく。

 黒板の横の掲示板には、朗読会の開催を知らせるプリントが貼られており、そこには、朗読をする図書委員の名前が書かれていた。

 この前、暇が募って、何の気なしにそのプリントを眺めた時には、大御名の名前は書かれていなかったはずだ。「大御名の名前がないなんて珍しいなぁ」なんて思った記憶がある。


「大御名くん、朗読メンバーじゃなかったよね?」

「うん。僕は転校生だからね、流石に、委員会のイベントをいきなり転校生にはさせないよ。本当は他の人がやる予定だったんだけど、急に用事が入っちゃったみたいで。僕が代役を任されたんだ」

 ふうん、と相槌を打ちながら、本来朗読するはずだった図書委員を思い浮かべる。思い浮かべてから、ため息を吐いた。その図書委員は、あまり真面目な生徒ではない。きっと、面倒だからと押し付けられたのだ。

「押し付けられたんだ?」

 率直に言うと、大御名は眉を下げて、困ったように笑った。「そんなことはない」と言わないあたり、今回ばかりは彼も迷惑しているらしい。

「ようは桜として来いってことでしょう?」

「ごめん、やっぱり迷惑だよね」

「べつに。気が向いたら行くよ」

 客引きのバイトまで、かなり時間がある。それまですることと言ったら、公園に立ち寄るぐらいだ。朗読会なんてすぐ終わるだろうから、公園に行くのはその後でも良いだろう。

 仕事を押し付けられた彼が気の毒だし、行ってやるつもりだった。

 「気が向いたら」なんて気障なセリフを吐いたのは、別に意地悪をする算段だったわけではない。「行く」と即答するのは、格好悪い気がしたからだった。


 放課後、朗読会の開始数分前に、図書室に足を運んだ。

 図書室の中央には、ちょっとした広場が作られ、いくつかの長椅子が並べられている。

 大御名は、長椅子の向こうのパイプ椅子に、ちょこんと座っていた。

 彼の他に人影はなく、私が一番乗りらしい。

「ガラガラだね」

「本当に来てくれたんだ」

「借りがあるから」

「何のことだろ」

 そう言って、彼は小さく笑う。


 結局、予定されていた開始時間になっても、私以外に客が来ることはなかった。

 大御名は、閑古鳥の鳴く会場を、ぐるりと見渡す。私と目が合うと、彼は気恥ずかしさを誤魔化すように小さく笑った。つられて私も、可笑しくなって笑ってしまう。

 早く始めろ、と唇だけで促すと、彼は肩を竦めて、膝に乗せていた本を拾い上げた。

 ビニールで保護された表紙は、色褪せ、角が削れている。

「時間になりましたので、四月の朗読会を始めます」

 静かな図書館で、彼の声だけがそっと響く。

 西から射す橙色の陽光が、まばゆくも寂しい影を、室内に落としている。

 その影の中で少年は、そっと本に指をかけた。

 パコンと表紙を開き、挟んでいた栞を頼りに、ペラリと乾いた紙をめくる。

 スゥと深く息を吸うと、緊張した様子で、たどたどしく朗読を始めた。


「――『ある日のことでございます。お釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶらお歩きになってらっしゃいました』」

 おや、と思い、大御名の横に立てられている朗読会の看板に目をやる。看板には、各日の朗読会での題目が書かれていた。

 今日予定されていた題目は、野坂昭如の戦争童話だったはずだ。小学校の国語で教材にされていたし、内容が衝撃的だったので、よく覚えている。

 やはり看板には、確かにその小説の題名が書かれている。

 しかし、現在朗読されている作品は、明らかに様子がおかしい。

 これはたしか、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」だったはず。有名な話なので、私でも知っている。

 どうして、朗読する本を変更したのだろう。どうして、この本を選んだのだろう。

 疑問は尽きない。が、その間にも朗読は続いていく。

 考えてもどうしようもないので、聞こえてくる話に耳を澄ませることにした。


 数ページの短編は、すぐに終わってしまう。あっという間に、犍陀多は蜘蛛の糸から滑り落ちて、地獄へ舞い戻ってしまった。

 「おしまい」と言葉を結び、大御名は本を畳む。

 それまで聴こえていた声がぱたりと止み、やけに強調されて感じる沈黙に、居心地が悪くなる。それは大御名も同じようで、畳んだ本を、不自然に撫で始めた。


「短いね」

「あんまり長いと、ダレちゃうでしょう」

「タイトル、告知されてた話と違った」

「戦争小説、苦手なんだ。心に残るけど、傷にもなり得るから。読書であれば、辛くなったら途中でやめられるけど、朗読だと、やめられないでしょ」

「一理あるね。けど、地獄に落とされる話は傷にならないの?」

「元々地獄にいた男が、帰るべき場所に帰されただけだ。もしかして、傷になった?」

「ならなかった」

「それなら良かった」

「でも、短すぎるよ。他にも読んで」

「えぇ、横暴だなぁ。じゃあ……」

 そう言って、大御名は手近にあった本に手を伸ばす。

「ギリシア神話か。そうだな、アラクネの話なんてどうだろう」

 そうして、彼は本を読み上げる。だが、それもものの数分で終わってしまった。やはり物足りない。何度か強請っては、いくつかの短編の読み聞かせをしてもらった。


 朗読を終える頃には、図書室に差し込む光はいつの間にか弱くなっていて、陽は山の向こうに落ちようとしていた。朗読会が始まるあたりは意味をなしていなかった電灯も、今ではしっかりと、私たちを照らしている。

 黄昏時は、胸がざわつく。昼でもなく夜でもない、その曖昧な時間は、人の不安を駆り立てる。その不安定な時間は、「逢魔が時」なんて言うように、人でないものが跋扈するのだという。しかし、それが過ぎ去ってしまえば、穏やかな夜がやってくる。

「他には、もう読んでくれないの?」

「こんなに読んだのに! これ以上は、ネタ切れだよ」

 眉を下げて、情けなく笑う。その顔がいかにも「お人好し」である感じがして、「男のくせに」と呆れを抱くのと同時に、飾らない人となりに好ましさを抱くのだった。

 朗読会は終わった。だというのに、どうにも腰が上がらない。もう少し、このままでいたいと思った。


「さて、僕はちょっと仕事をしてからここを出ようかな。横川さんは――」

「私も手伝うよ。あそこに積んである、返却図書を仕舞うんでしょう?」

 カウンターの返却棚には、返却処理をしたきりの本が、所狭しと詰め込まれている。返却棚に収まりきらず、棚の上にも本が積まれている始末だ。

「全く……やる気がなさすぎるね、図書委員たちは」

「あはは……。皆、部活が忙しいからね。僕は部活に入っていないから、丁度いいんだよ。でも手伝ってくれるなら、甘えちゃおうかな」

「任せて」

 小さなワゴンに本を積み、ガラガラとそれを引きながら、手分けをして本棚を巡る。管理番号とにらめっこしながら、一冊いっさつ、本棚に本を戻していった。

 溜めこまれていた本を戻すのは骨で、無言で続けるには辛いものがあった。だから自然と、どちらともなく話を始め、いつしか、図書館の端と端で談笑していた。


「大御名くんは、兄弟とかいるの?」

「一応いるよ」

「なにそれ?」

「一つ下に弟が、五つ下に妹がいるんだ。けど僕たち、実の兄弟じゃないっていうか……。二人は実の兄妹なんだけど、僕だけ違うから、さ」

 それ以降は、曖昧な笑いで誤魔化されてしまった。どうやら、兄弟事情についてはあまり話したくないらしい。

 詳しいことまでは分からなかったが、彼の家庭がかなり複雑であることは、今の話だけで充分に察せられた。


「この前、塾のお迎えで男の人が来てたよね。あれは?」

「あれはうちの居候。居ついて長いから、家族みたいなものだよ」

「へえ。仲が良さそうだったから、お兄さんかと思った」

「あはは。僕のおしめを取っていたこともあったから、あながち間違いでもないかも。だけど兄という感じではないなぁ、親戚のおじさん、なんてのが良いところだろう」

 そう言いながら、大御名は愉快そうに、そっと首元を撫ぜた。


「……」

 彼になら、言っても良いかもしれない、私の事情を。兄弟との関係をぼかした彼なら、あるいは……。

 何度友人に打ち明けても、同情か、あるいは見当違いのアドバイスしか得られなかった。

 私はそんなものが欲しいわけではない。私が欲しいのは、そんなものではない。むしろ、私は何もいらないのだ。

 私が欲しいのは、決して私を否定せず、それでいて、肯定もしない――そんな態度。

 これは知らない人もいるかもしれないが、肯定が救いに繋がるとは限らない。肯定によって、逃げ道を塞がれることだってある。

 ただただ、否定も肯定もなく、受け入れてほしい。

 答えを出すのは、結局のところ自分自身だ。いずれ答えを出さなければならないのは分かっている。だからせめて、そこに至るまでの一時、止まり木になってほしい。そうしてくれたら、ちゃんと、自分で決着をつけるから。どうか一休みさせてほしいのだ。――勝手な要求だとは、百も承知だけど。


「うち、お母さんが、本当のお母さんじゃないの」

 手を止めず、あくまで何てことはない風を装って話を続ける。

「少し門限に遅れただけでもすっごく怒るし、すぐ怒鳴るし。すっごくヒステリック。すごく怖い人。それだけでも苦手だったのに、最近は妹も生まれたから、元々苦手だったのが、もっと苦手になった」

 うん、と小さな相槌が聞こえてきた。

「なんか、私の家じゃないみたい。だから、家に帰らないために色々してる。おばあちゃんの家に行ったり、友達の家に泊まりに行ったり、ネットカフェで過ごしたり。だから、いくらバイトしても足りないくらい」

「そうなんだね」

「……この前はごめんね。あの時は気が立っていたんだ。『心配』だなんて、大御名くんがあの人みたいなことを言うから、ついカッとなっちゃって」

「ううん、気にしてないよ」

 手を止めることなく、彼は答える。それでも決して遅れることのない相槌が、私の話をしっかり聞いてくれていることを伝えてくれた。


 作業が終わる頃には、日はどっぷり暮れていた。

 送ろうか、という大御名の申し出を断って、私たちは校門の前で別れた。

 これから公園に寄ろうなどとは思わなかったが、彼を、これから客引きのバイトのある街中まで送らせるわけにもいかなかった。

 それでも道中、いつものように憂鬱ではなかったのは、大御名との約束に胸を躍らせていたから。

 今度また本を読み聞かせてくれると、彼は言ってくれた。その代わり、いつか私も彼に読み聞かせをすると、約束したのだ。

 読み聞かせをするには、朗読するための物語を見つけなければ。それも、大御名が手伝ってくれた。私のために、いくつかの本を見繕ってくれたのだった。

 本を数冊詰め込んだ鞄は、いつもよりも重い。しかしその重みが、あの約束が現実であったことを教えてくれる。


 バイトを終え、ネットカフェに入った私は、さっそく、借りてきた本を広げた。

 大御名がおすすめしてくれたのは、ギリシア神話の漫画本だった。

 普段から本を読まない人間に、いきなり分厚い活字を読ませるのは悪手だと。まずは本に親しんでもらうため、漫画本を選んでくれたのだった。

 漫画本の絵柄はちょっと古いし、画風がリアルなので、あまり好きにはなれない。それでも、物語の面白さは充分に伝わってきた。

 漫画を読んで「これはどういうことだろう」と思ったら、もう一冊の本――神話の解説書を開いてみる。そうして一度解説書を開いてみると、ついついその先まで読み進めてしまって、なかなか漫画に戻れない。ある程度読み進めた所で、ふと我に返って、また漫画本に戻る。そんなことを繰り返しながら、少しずつページを進めていった。

 疲れを感じて、時計を見ると、時間は0時に差し掛かっていた。もう寝なければ。

「本って、結構面白いな」

 普段読まない活字を追うのは、疲れる。

 続きを読みたい気持ちもあったが、眠気に負けて、私は本に栞を挟み、そっと目を閉じた。


 それから、私はよく図書館に入り浸るようになった。

 図書館に行くと、たいてい大御名がいて、カウンターの奥で作業をしていたり、隅で本を読んでいたりする。

「今日は、バイトないの?」

「うん。シフトの関係でなくなったの」

「そう。本、面白かった?」

「あと少しで読み終わるよ。ギリシア神話って、面白いのね」

「神様だけど人間みたいだよね。人間よりも喜怒哀楽がはっきりしていて、嫉妬深いのだって、人間以上に人間臭い。もしかしたら、感情を隠さないあたり、純粋なのかも」

「純粋か。言葉は良いけど、つまり我慢できないってことよね」

「神様だもの」

 確かにそうだ。我慢する必要がない。神様同士ならいざ知れず、人間相手にどうして神様が我慢する必要があるだろうか。

「気に入った話はあった?」

「うん。冥界に行く話が面白かった」

「オルフェウスとエウリュディケの話かな。それともプシュケーが美をもらいに行く話?」

「たぶんオルフェウスの方」


 竪琴の名手オルフェウスが、死んだ妻エウリュディケを蘇らせるために、冥界に下る話だ。

 オルフェウスの演奏に心打たれた冥界の王が、「地上に戻るまでに妻を振り返ってはならない」という条件をつけて、オルフェウスの願いを聞き届けてくれる。

 しかし、猜疑心によりオルフェウスが振り返ってしまったので、彼はエウリュディケを二度も失うことになった。

 その後、亡きエウリュディケを想い続けた彼は、それを疎んだマイナー――ディオニュソスの信者たちによって、殺されてしまうのだ。


「冥界下りの話は、色々な国にあるんだ。日本の神話にも、夫が亡き妻を黄泉の国から連れ帰ろうとする話がある」

 それは知っている。何かの漫画で読んだことがある。

「あとはそうだな、オルフェウスから派生した話がね、イギリスにあるんだ。『オルフェオ王』と言ってね」

「へえ、名前がそっくり」

「オルフェウスが元ネタになっているからね。オルフェオ王の物語ではね、冥界ではなく妖精の国へ、妖精に連れ去られた妻を取り戻しに行くんだ」

 妖精、という言葉に、ドキリと心臓が跳ねる。

「……なんだかすごくメルヘンな雰囲気に改変されてるのね。冥界じゃなくて、妖精の国だなんて」

「イギリス風だからね。イギリスと言えば、ファンタジーの本場だ。世界で一番有名な魔法使いの物語を生んだ土壌だもの」

 本の話になると、途端に饒舌になる。本当に本が好きなのだろう。嬉しそうに話して聞かせる彼を見て、微笑ましく思った。

「へえ。オルフェオ王か、面白そう。今借りてる本を読み終わったら、そっちも読んでみたい。もしよかったら、今度はそれを朗読してよ」

「そのうちね」

 大御名の目が穏やかに細められる。

 それを見て、心がほっと緩まった。


 こうして大御名と話をするようになって気付いたことなのだが。彼には、独特の雰囲気がある。彼と話をしていると、不思議と心が落ち着いてくるのだ。

 彼の話し方なのか、はたまた纏っている雰囲気なのか。彼が持つ、一体、どの要素がそう感じさせるのかは分からないけれど。人に安心感を与える空気があるということだけは、確かだった。

 私がこうして足繁くここへ通うのも、そのためだ。

 彼の纏う空気を求めている。自分を取り巻く環境に、窒息しないように。優しい空気が、染み入るように、ささくれ立った心を癒してくれるのを期待している。

 そんな私を、彼は、何も言わずに受け入れてくれる。

 以前、彼のお人好しが、本物か偽善かを考えたことがあった。

 今となっては、それはどうでも良いことだ。

 彼が慈善事業で私を受け入れてくれているのだとしても、彼の纏う空気だけは、本物なのだから。それに私が救われている、その事実だけは、本物だ。


 この図書館に通うようになってから、あの公園に行っていない。

 もう私には必要ない。虚しい夢に縋らなくても、こうして、気の置けない友人ができたからだ。もう、現実逃避のための夢想はいらないのだ。

「そういえば、咳、しなくなったね」

 大御名が言う。

 確かに、言われてみればここ数日、身体の調子が良い。

「まあ、野宿をやめたからね」

「野宿?」

 ついこの間まで、図書館に来づらくて、近くの公園で仮眠を取っていたことを、冗談めかして彼に聞かせた。もちろん、夢のことは恥ずかしいので、伏せて。

「その公園って、木が一本ある?」

「木? ああ、フェンスからはみ出した木が一本あったかな。日除けにちょうど良かった記憶がある」

 大御名は微妙な表情を浮かべる。

「その公園、不審者が出るって言われてるよ」

「えっ、そうなの?」

 それは知らなかった。なら、当分あの辺りには近づかない方が良いだろう。まあ、近づく理由など、よっぽどのことがない限り、もう無いだろうが。


「そうだ。週末、本足りそう? 追加で貸し出ししようか?」

「ううん。私、読むの遅いから」

 あんまり借りすぎては、本に追い立てられるようで、落ち着かない。正直にそう言うと、大御名はうんうんと頷いた。

「本は自分のペースで読むものだから。それが本の一番の長所だよ。読書には、遅いも早いもないのさ。ゆっくり、横川さんのペースで読んでね」

 カウンターから少し離れた机に腰かけ、借りていた本を開く。たまに、ちらりと大御名を見ては、黙々と本を読んでいる彼に倣って、再度本に意識を落とす。

 開館時間が終わる頃には、本のページは随分と進んでいた。それに小さな寂しさとともに、喜びを抱く。本を読み終わるのは寂しい。けれどこれを読み終われば、また新しい物語に手を掛けられるのだ、と。


 大御名と別れた後、私は祖母の家に向かった。

 温かいご飯を食べて、温かい風呂に入り、そうして温かい布団で眠りにつく。

 満ち足りた思いのまま、布団に体を沈め、しばらくして――

 夢を見た。

 気が付くと、私は、真っ暗闇の中に立っていた。

「ここは……」

 眠っていたはずの布団はない。祖母の家の、古めかしいカビの匂いもない。

 代わりに、どこかから葉の擦れる音がする、カシャカシャと。

 生ぬるい腐った風が、私の頬をねっとりと舐める。

 心臓が、ドクリドクリと、異様に脈打っていた。

 ああ、ここは怖い所だ。潜在的な恐怖が、私の内臓を支配する。


「レイ」

 聞き覚えのある声だった。

 脳髄に甘く染み入るような声だ。甘い水のような声に、ついつい、振り返ってしまいそうになる。

 だが、振り返らなかったのは、頭にけたたましい警鐘が響いていたから。


 振り返ってはいけない。

 振り返ってはいけない。振り返ってはいけない。


 理由なんてない。ただ、振り返ってはいけないのだ、と、強迫観念に似た妄想が、思考を支配していた。その妄想は、またの名を本能と言う。


「どうしたの、レイ。また君の世界の話が聞きたい。この前は君に怒られたから、今度は卵とバターでケーキを作ったんだ。また、一緒にお茶をしないかい」

 酒精のような声。ジンジンと脳に広がる酩酊を追い払うように、私はふるりと頭を振った。

「もういい、いらない。私には必要ない」

 その時、頭に思い浮かんだのは、オルフェウスの冥界下り。「振り返ってはいけない」という制約を破り、妻を喪った、悲恋の物語。

 どうして今、その話を思い出したのだろう?

 思い出すべく思い出したのか。

 とにかく、ここから、出なければ。ここは、寒くて、怖い場所だ。

 私は、自分の中で鳴り響く警鐘に従い、走り出した。


「レイ!」

 彼が悲痛な声で呼び止める。

 ごめんなさい。散々貴方に頼って、甘えていたのに、用済みだからと貴方を遠ざけるのは、ひどく不誠実だと思う。けれど私は貴方が怖いのだ。何をおいても怖い、恐ろしい。この突発的な恐怖の理由は分からないけれど。

 どんどんと追いすがる声が遠くなる。

 それでも私は走って、奔って、はしり続けて……。


 ピピピ

 スマートフォンのアラームの音で、目が覚めた。

 がばりと跳ね起きると、そこは、見慣れた部屋。祖父母の家の、私の部屋。

 汗で、じっとりと体がべたついている。

 カタカタと、体が震えていた。

 ただの夢だ。

 だが、質量を持った夢だった。重たく淀んだ空気も、鼻をつく黴ついた臭いも、しっかりと覚えている。私の体に、それらはまだ張り付いている。

「……シャワー」

 重い身体を引きずって、ベッドを抜け出す。未だにこびりついた恐怖が、呼吸を浅くさせる。それを拭うために、私は重い身体を引きずって、浴室へ向かったのだった。



    絡新婦の少年「妖精の誘う木」第4節1/2

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