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第3節



   三


 あの日以降、私は周囲の空気に敏感になった。

 特に学校では、大御名の姿を要警戒人物として眼で追うようになり、友人たちからは変な勘繰りをされたほどだ。

 だが何日経っても、大御名はおろか教師も、友人たちすら、私がバイトをしていることに言及してくる者はなかった。どうやら、彼は約束を守ってくれているらしい。

 大御名もわざわざあのことで話しかけてくることはない。だが、時おり何か言いたそうな顔をして私をチラチラと見ていることはある。

 そんな時は、さっさと立ち去るに限る。私を引き留めてひと悶着起こそうとするほど、彼は強引な性格ではなかったから。彼が何か言ってくる前に、さっさと退散してしまえば、それ以上彼が関わってくることはないのだ。それが私なりの、彼への対処法だった。


 あの日から一週間が経った今日もそう。帰りのホームルームが終わり、教室の掃除を終えて、さっさと学校を後にした。

 今日は、居酒屋のバイトの後に、客引きのバイトがある。

 こういう日は、仕事が終わるのが遅くなるので、図書室で仮眠をとってからバイトに向かうことにしている。


 今日もそうしようと、扉の取っ手に手をかけ――はた、と気づいた。貸し出しカウンターに、大御名の姿がある。そういえば彼は、図書委員だったか。こんな日にかぎって、彼が貸し出し係であるらしい。

 これでは、足を運ぶに運べない。彼と二人きりになるなんて気まずいし、なにより、何を言われるか分からない。

 図書館で仮眠をとるという選択肢は、カウンターの中に彼の姿を見た瞬間に、消え去った。

 踵を返し、校内をうろついていると、窓の景色が目に入った。

 生憎と、今日は天気が良い。外の気温も温かい。

 これなら、どこか公園のベンチで仮眠をとるのも良いかもしれない。


 そう思い立った私は、学校からいくらか離れた、寂れた公園に足を踏み入れた。

 辺りは静かな住宅街。その中に、ぽつんと、小さな空間がひらけている。

 入口の生垣には、ノバラ公園、と書かれた錆びた看板が立てられていた。その看板がなければ、ここが公園だとは分からないだろう。

 遊具という遊具はなく、砂場だけがちょこんと、申し訳程度に、公園の中央にはめられている。

 たった一つ置かれたベンチは、元は青いペンキが塗られていたのだろう、しかし今はほとんど剥げてしまっていて、ただの木のベンチになっている。

 こんな公園だ、子供の姿一つ見えない。だが仮眠をとりたい私には、好都合だった。


 ベンチの上には、公園の隣家からはみ出した林檎の木が、丁度よく影を作っていた。日よけに良さそうだ。

 腰を下ろし、丸めたカーディガンを枕に、ゆっくりと横になる。

 ぼんやりと公園を眺めていると、そよそよと、初夏の風が、ささやかな生垣を揺らす。昼と夕の狭間の日差しは、倦怠感をふくんで、辺りを照らしていた。

 穏やかな気持ちになる。

 凪いだ気持ちで、ふと思い出したのは、先日の大御名とのやりとりだった。


『心配だよ』

 どうして今、あの時のことを思い出したのか。

 「そういえば」などという突発的な思い付きは、当人にコントロールできるものではないのでまったく「何故?」と思うより他にない。もしや普段、私が認識していなかっただけで、あの言葉が気に掛かっていたのだろうか。

 そういえば、彼は「心配だ」と言っただけだった。バイトをやめろだとか、校則違反だとかは言及せず、ただ「夜道を一人で歩くのは危ない」と言ったのだ。

 ついつい、あの時は頭に血が上っていたのでそこまで考えが及ばなかったけれど、彼はただ、本当に、夜道を一人歩くクラスメイトを心配していたのだ。 


 ――どうして?

 理由が分からない。どうしてだろう。どうして、大御名は私を心配してくれたのだろう。

 彼が転校してきてようやく半月。彼にとっての新しい学校生活は、まだまだ分からないことだらけのはずだ。周囲に馴染むので精いっぱいのはずなのに。一体どうして、知り合って間もない私のことなど気にかけるのだろう。

 もしかしたら私に気があるのでは、と考えたが、馬鹿らしいとすぐに一蹴した。


 ここ一週間、彼を観察してきて分かったことだが、彼の人となりを評価するなら、一言、「大変なお人好し」に尽きる。

 グループワークの発表など人が嫌がる役割を進んでやったり、係の仕事などで困っているクラスメイトがいたら一緒になって悩んだり。

 その甲斐あってか、彼はいまクラスの中心になりつつある。転入してきて間もないのに、学級便りやレクリエーション係やらを任されたりしている。クラスメイトも教師も、誰も彼もが、新参者の彼を信頼している。


 一体、彼は、何のためにそんなことをしているのだろう。

 早く周囲に溶け込むための、彼なりの処世術なのだろうか。

 それか、厄介ごとを押し付けられてでも、他人に良く見られたいとでも言うのだろうか。

 それとも、本当にただのお人好しなのだろうか。

 いずれにしても、とんだ聖人君子だ。真心からのものであれ、作為的なものであれ、誰かのために働くことができる姿勢には、尊敬の念を抱く。

 もしかしたら私のことも、彼にとっては慈善事業の一環でしかないのだろうか。

 困っているクラスメイトにいつも当然のように「どうしたの」と寄り添うように、私への心配も、彼にとっては当たり前の、数ある善行の一つに過ぎないのだろうか。


 そうだとしたら少し、寂しい、と感じる。

 私は特別ではなく、ただ数多のうちの一つなのだと。

 ……でもそれが、きっと正解なのだ。

 考えても分からない他人の思いを考えて、結局、私は諦めることを選んだ。

 せめて本当のことを知った時に、自分がひどく傷つかないよう、赤っ恥をかかないように、一番辛い答えを進んで享受した。

 キシリ、と胸が軋む。

 人の善意を疑う卑しさと、素直に善意を受け取れない根性、そして、虚しさ。それらから逃げるように、私は、ゆっくりと瞼を落とし切った。



 そよそよ、そよそよ

 吹き通す風に、目を覚ます。

 気が付くと、私は草むらに寝ころんでいた。

 むくりと身体を起こすと、辺りはただ広い草原。青々と新緑の生い茂る、小高い丘。草を滑る風が、パラパラと髪を遊ばせる。

 どこだ、ここは。私は、公園で仮眠を取っていたはずだが。

 見渡しても、私の記憶を掠めるものはない。ベンチはおろか、砂場も、生垣も、あの寂れた公園を想起させるものは、何一つ見当たらない。……いや、一つだけ、あった。

 私は、自分に影を落とす、一本の木を見上げた。日よけ代わりにちょうど良いこの木は、もしかすると……。だが、木に詳しくない私には、あの木とこの木が同じものか、その区別がつかない。

 夢。

 不思議と理解した、これは現実ではないのだと、やけに冷静な頭で。現実の私は、今も、あの古びたベンチで気持ちよく眠っているのだ。


 夢。それは、脳の働きの一つ。睡眠中、覚醒時に雑多にファイリングされた記憶を、脳が整理しているのだという。夢は、整理中の記憶が大脳のスクリーンに投影された、いわばドキュメンタリーのようなもの。ただし、その記憶が実際に体験したこととは限らない。読んだ漫画の記憶、観た映画の記憶、聞いた話の記憶――自身の体験以外に見聞きしたものも「記憶」として処理されるので、時に夢は、とんちんかんなものになる。

 また、個人の抑圧された願望や、覚醒時に強く思っていた事柄が、象徴的な夢をもたらすこともある。だから、宿題に追われている時なんかは、夢でも何かに追いかけられたりするのだ。


 記憶にない、どこまでも続く草原。

 この夢は、私の抑圧された願望なのだろうか。

 何ものにも縛られることのない、自由な世界。ここでは何をしても良い。二度寝を決め込んでも良いし(夢の中で眠るとはいかがことか)、走り回っても、裸になっても、大声を上げても良い。丘を転がったって良い。

 それは、なんと良い提案だろう。一目を憚らず、子供のようにはしゃげるなんて。

 いざ、丘を転がってやろう。そう思って木陰を出た時のこと。


「君」

 後方から、涼やかな声が聞こえてきた。

 自分以外に誰もいないと思っていたので、ひどく驚いて、私は草食動物のようにガバリと振り返った。

 そこにいたのは、若い、外国の男性だった。

 まず目を惹いたのは、金色の髪。太陽を受けてキラキラと、風にうねり、輝いている。

 髪の隙間から覗く瞳は、黒目がち。目尻は垂れており、優しそうな印象を受ける。

「迷子?」

「あ……」

 かっと顔が熱くなる。

 彼の纏う、大人の男の雰囲気は、私には強すぎた。

 普段、周りにいる男といえば、クラスの男子や、バイト先の店長や店員、そして父親くらいのもの。そのいずれも、私に少女的な憧れを抱かせるような存在ではなかった。

「迷子なら、私の家に来るかい?」

 普段の私であれば断っただろう。だが、これが夢であるという事実と、不思議な高揚が、私を揺らがせた。逡巡の後、結局私は、彼の後を着いていったのだった。


 ここだ、と連れられた先は、大きな洋館だった。ともすれば、宮殿、と呼称しても差し支えない。

 先ほど丘を見回した時は、そのような建物はなかったはずだが。文字通り、突然目の前に現れたかのようだった。

 そうこれは、夢。ならば洋館が突然地面から生えてきたっておかしくない。

「中を案内するよ」


 洋館の中は、絢爛豪華な装いだった。天井にぶら下がるたくさんのシャンデリアが、きらきらと輝いている。純白の柱や壁は、意匠がこらした模様が描かれている。時おりすれ違う、鎧をまとった上品な騎士や、落ち着いた出で立ちの使用人たちが、私たち二人に恭しく頭を垂れた。

「貴方は、ここの主人なの?」

「そうだよ。この宮殿は私が建てたもの。私はこの国――この妖精の国の王なんだ」

「妖精?」

 あんまりメルヘンな話に、クスリと笑ってしまう。男が気を悪くしたように、むすりと眉をしかめたので、私は、慌てて咳ばらいで誤魔化した。

 そうこれは夢。ならば、妖精が出てきたっておかしくないじゃないか。

 だからといって、これではまるでおとぎ話。子供の見る夢だ。

 これが私の抑圧された願望だというのか?

 ただっ広い草原に、妖精の王さま。自由と、童心。

 ああそうだ、それらは私が何より求めていたもの、とうの昔に置き忘れていったものだ。


 一体いつから、私は夢を持たなくなったのだろう。

 昔は、ケーキ屋さんになりたい、なんて可愛い夢を持っていた時期があった。保育園でのことだ。しかし今は、私にそんな夢はない。ケーキ屋さんになるには、専門学校に行かなくてはならないし、経営だって勉強しなければならない、何より美味い菓子を作る才能がなければ食いっぱぐれてしまうのだから、事業が成功するかなんて博打のようなもの。

 ほら、すぐこうだ。「こんなの良いかも」なんて思いつきがあっても、現実主義者が心の中に巣食っていて、そいつが「やめておけ」と首を振る。

 それを繰り返すうちに、やがて、なりたいものが、なくなっていった。今はただ、なりたいものもなく、夢もなく、とにかく「現状から自由になりたい」という一心で日々を生きている。

 でもそれは、あまりに寂しくないだろうか。

 焦がれるほどの夢を持ちたい。どうしたら、夢を取り戻せるだろうか。もしあの頃に、偏屈ものが心に巣食う前の私に、戻ることができたら、また……。


「ねえ、君は何という名前なの?」

「……そういう貴方は」

「王は王だ。名前なんていらない」

「変なの」

「変ではない。だって、王は国に一人しかいないんだから。この国で『王』と呼べば、それは私のことだと明白だ。わざわざ名前を呼ぶ必要がない」

「あはは、屁理屈。でも、一理あるね」

 確かにそうだ。彼の言い振りは腹立たしいが、それが愉快に思えた。憎めない、と言えば良いのか。傍若無人な登場人物、まるで童話のようではないか。

「レイよ。横川レイ」

「レイか。ラケルが由来だね」

「ラケルって?」

「そんなことも知らないの? ラケルはヤコブの妻だ、レイチェルとも言う。レイチェルの愛称はレイだからね」

「へえ」

 指にラケルの綴りを、正確な綴りは分からなかったので、大まかに書いてみる。確かに、レイチェルになりそうだ。

 だが、私の「レイ」がレイチェルを由来としているとは思えない。私の父親はクリスチャンではないし、実母がクリスチャンだったと伝え聞いた記憶はなかったから。


「ねえレイ。私には、君が何かに悩んでいるように見える。私に話してみる気はないかい? 力になれるかもしれないよ」

 夢の登場人物――私の抑圧された願望――がそう言った。

 は、と笑いを吐き出す。夢ごときに、一体、何ができるのか。

 いや、「夢ごとき」だからこそかもしれない。

 これはどうせ夢。どうせ夢だからこそ、悩みを打ち明けたところで、現実に何の影響もしない。

 「人の口に戸は立てられない」とはよく言うが、夢の住人であれば、堅固な戸を立てられる。なにせ、覚醒とともに跡形もなく消え去ってしまうのだから。残るのは「誰かに打ち明けた」という達成感だけ。

 自分の心が軽くなるなら、それも良い気がした。

「実は……」


 私は、目の前の「喋る張りぼて」に、自分の身の上を全部話した。現状、自分の不満、その全てを。

 彼は話の最中、ずっと、ただ静かに相槌を打って聞いてくれた。

「……そうか、それは辛かったね、レイ」

 すっかり話し終えると、張りぼては、穏やかにそう言った。

 簡単な労いの言葉に、つんと鼻の奥が痛くなる。目頭が湿る前に、思いっきり鼻をすすり、じわりと出てきそうになる涙を引っ込めた。

「レイ、ここに居ると良いよ。君の義母は、君を厭わしく思っているようだが、私たちは君を歓迎する。ここなら君を悲しませるものは無い。私も君がいてくれたら嬉しい。彼らだってそうだ」

 青年が指さした先で、鎧姿の兵士や、レースのドレスを着たメイドが恭しくお辞儀をした。

「私たちが君の帰る場所になるよ。私たちが君を無条件に慈しむよ」

 彼の言葉を聞いているうちに、頭に霞がかかったようにぼんやりとしてくる。まるで酒気にあてられたように、酩酊に似た幸福感が満ちる。

 夢はいずれ終わるもの。だが今、彼の手を取ったら、私はもう少しこの夢の中にいられるのだろうか。

 彼の誘いに頷こうとした時のこと。まるで私を引き留めるように、突然、ある記憶が私の中でフラッシュバックされた。


『心配だよ』とそう言って、眉を下げた少年の姿が。

 頭にかかっていた靄が、すぅと晴れていく。夢に囚われて、一体どうするのかと。

 夢は、私を守ってはくれない。無責任な救いだ。幻想の王様にすがったところで、現実の私は、何も変わらないのだから。

「いえ、もう帰ります」

 きっぱりとそう言うと、彼は残念そうに微笑んだ。

「そう。でも君はまた、きっとここに来たいと思うよ。辛くなったらいつでもおいで。今度はとっておきのお茶を振る舞うから」



 ピピピ

 スマートフォンのアラームが鳴り、私ははっと目を覚ました。

 どきどきと、心臓が騒いでいる。夢の内容を、はっきりと覚えている。いつもは忘れてしまうのに。

 まだ余韻のように、あの声が頭に残っていた。待っている、という男の声が。

 未練があるのだろうか、夢の世界に。無条件に自分を受け入れてくれるという、あの人たちに。だって、ついつい思ってしまうのだ、もし夢に留まる選択をしたら、夢から覚めずに済んだのではないか、とそんな妄想を。そんなもの、未練と言わず何と呼ぶのだろう。

 サワサワ、と葉擦れの音がして頭上を見上げると、青々とした木が、のっぺりと私を見下ろしている。まるで上から私を覗き込んでいるように。

 この木は、さっきの夢に出てきた木と同じだろうか? そういえば、幹から枝にかけての分かれ方が、似ているような気がする。

 馬鹿馬鹿しい。ただのまぐれだ。寝る直前に見えた木がこれだったので、夢にも出来ただけだろう。

 時計を見て、私は身体を起こす。

 さあ、バイトに行かないと。

 さっと荷物を持って、その場を後にした。


 そんな私を、ポツリと立つ林檎の木が、じっと見送っていた。




 続


        絡新婦の少年「妖精の誘う木」第三節

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