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第1-2節




   一


 女郎蜘蛛、という蜘蛛がいる。

 ぼってりとした黒い腹に、黄色の縞を引いた、手のひらほどの大きさの蜘蛛だ。大きな巣をかけ、糸にかかった獲物を毒牙で弱らせ、貪り喰う。

 鮮やかな姿が印象的な蜘蛛ではあるが、実は、それは雌だけだ。

 雄はといえば、大きさは雌の半分以下で、色は全身こげ茶。雌に比べるとなんとも気迫に欠けた(なり)をしている。


 加えて雄は度々、雌に食われる。

 雄は、雌の巣の端っこに居を構え、雌が脱皮や食事をする――無防備な姿になる機会をうかがっている。「その時」が来ると、彼らは抜き足差し足、雌に近づき、さっと交尾をするのだ。もし交尾をしている途中で、雌が雄に気を留めれば、彼らはたちまちのうちに餌として捕食されてしまう。


 そして妖怪にも、絡新婦というものがいる。

 鳥山石燕の「画図百鬼夜行」にその姿がある。六本の腕をもち、それぞれの腕で子蜘蛛を操る、艶やかな髪をした女の化生だ。

 絡新婦の伝説は、日本各地に残されている。「太平百物語」や「宿直草」、仙台の賢淵伝説、伊豆の浄蓮の滝の伝説。伝説の中で絡新婦は、美しい女の姿であったり、男を水中に引き摺り込むほどの怪力の持ち主であったりする。――そのどれもが女、だ。絡新婦が男として描かれることは滅多にない。

 じょろうぐも、という名前からして、女を連想しやすいのもあるのだろう。――が、やはり「女郎蜘蛛」の雌が華やかで目を惹くから……という理由が真相である気がしてならない。雄では、あまりに気迫に欠ける。


 男の絡新婦が語られることはほとんどない。――が、もし仮に、男の絡新婦がいるとしたら。それは一体どのような妖怪なのだろう?

 まず、女の絡新婦に比べてひ弱であるに違いない。

 きっと雌の尻に敷かれていることだろう。もしかすると、雌に食われることもあるかもしれない。

 男の絡新婦が伝承に出てこないのは、彼らが、彼女たちに食われてしまったからなのかもしれない。だから彼らは、ひっそり、人目に付かないよう静かに暮らしているのではないだろうか?

 だとしたら、彼らが少し不憫に思われる。

 いつか道端で、雄の女郎蜘蛛に遇うことがあれば、労ってあげてやろう。――大変ですね、と。

 ならば僕たちはこう応えるだろう。――いえ、全くその通りで、と。







   二



 ブルブル、と机に置いていたスマートフォンが、無音のまま震える。

 ――電話だ。

 着信元が誰かは、伏せた画面を引っくり返さなくても分かっている。着信音を無音にしている相手は、一人しかいない。

 チカチカと点滅するライトを後目に、私は無視を決め込んだ。


 ブルブル、ブルブル


 いつまでも、バイブレーションが止まらない。一体いつになったら諦めてくれるのやら。

 振動を続けるスマートフォンを遠ざけるように、私はそれを、ポイ、とロッカーに放り込んだ。苛立ちのまま金網に放ったそれは、ガコン、と乱暴な音を立てる。

 普段なら、丁重に扱う相棒だが、今だけは苛立ちの発散対象でしかない。後のことを考えれば、実に短慮な行動でしかないが。それでも、現在の苛立ちをどうにかする必要があった。


 バタン、とロッカーを閉める。狭い四角柱の中では、未だ、鈍い振動が続いている。

 休憩時間はまだ五分ある。だが、どうにも休む気になれなくて、そろそろ仕事に戻ることにした。

 靴を履き、休憩室のドアノブに手を掛ける。

 ようやく、背後の振動が止んだ。

 私は、ざまぁみろ、と思いきり顔を顰め、べぇっとロッカーに舌を向け、そこから逃げるように休憩室を後にした。


「アレ、レイちゃん。もう休憩上がってきたの? まだ休んでて良いのに」

 バイトの先輩が、くるりと目を丸くさせる。

「休憩に飽きちゃって。もうホールに戻ります」


 私は先輩からふきんとお冷を取り上げると、酒飲み客の賑わうホールへ入っていった。

 厨房から出ると、そこは眩しい酒の席。あちこちから聞こえる楽しげな大声と、鼻をつく酒精、そして美味しそうな料理の匂い。

 それらに中てられるように、私は、気分を無理やり持ち上げた。

「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりでしょうか」

 元気よく、声を張り上げる。


 ここでのバイトは大変だが、私にとっては、救いであった。

 くるくると忙しく動き回っている間は、ロッカーに仕舞った――いずれ対面しなければならない、考えたくない現実を、考えずに済む。

 そしてなにより、自分のお金を自分で稼げるのが良い。

 「親と呼ぶべき人間」から、毎月のように「お小遣い」をもらっている。

 同級生に聞いても、私がもらっている額は、彼女たちと遜色ない。それに、服や文具のお金は、お小遣いとは別に出してもらっているから、金遣いが荒くなければ、そうそうお金に困ることはない。


 それなのに、私はこうして、バイトをしている。


 学校からも親からも禁止されているバイトで、足りないお金を賄っている。

 つい先日もらったばかりのお小遣いは、もうない。全部、使ってしまった。

 金遣いが荒くなければ、そうそうお金に困ることはない――そのはずなのに。

 ならば私の金遣いが荒いのか、と言われれば、半分正解で半分不正解と言う他にない。

 豪遊がしたいわけではないのだ。単に私は、「お小遣い」と呼ばれる不自由な金を、処分してしまいたかったのだ。

 お気に入りのお財布に、「あの人たち」から貰ったお金を入れておきたくない。そんなもの、さっさと世の経済に流してしまうに限る。


 「お小遣い」と言って与えられるお金は、私にとって、たいそう不自由なものだった。それを与えてきた者に、縛られているような気さえしてくる。

 それに比べて、自分で稼いだお金は、よっぽど自由だ。私は、私の自由のために、不自由な金を取っ払い、自分で稼いだお金を大事に使っている。


 私は、家族が大嫌いだった。


 実の父親も、血の繋がらない母親も、半分だけ血の繋がっている妹も。

 血の繋がらない母親は、特に、別格に、念入りに、大嫌いだった。

 家に帰りたくない私は、祖父母の家に入り浸っている。幸い、彼らの家は自宅からそう遠くないし、私が泊まると大層喜んでくれる。

 友達の都合がいい時は、彼女たちの家にお邪魔することもあった。

 しかし、祖父母の家に帰るのにも、友達の家にお邪魔するにも、どうにも都合の悪い日がある。例えばこんな日。バイトで遅くなってしまう日だ。


 そんな日は、バイト近くのネットカフェで夜を明かす。

 ネットカフェに寝泊まりしているなど、祖父母はともかく、親には口が裂けても言えない。

 そもそもバイトをしていることさえ、彼らの逆鱗に触れるだろう。そこでさらに、ネットカフェでホームレスのように過ごすなど、一体、どれだけの逆鱗を剥がすことになるか。想像もしたくない。


 今日も、祖父母には「友達の家に泊まってくる」と言っている。そうして父母には、「祖父母の家に泊まっている」と言っている。二重三重の嘘をつくことにも、もう、慣れてしまった。

 最初は、嘘をつくことが心苦しかった。

 特に祖父母は、純粋に私を可愛がってくれるし、友人の家に泊まるという私を心配してくれたから。だがそんな純真な苦しみも、やがて麻痺してしまうものなのだ。

 嘘に嘘を重ねる苦しみには、とうに慣れてしまった。一層、一層、丁寧に塗りたくり、分厚くなったそれは、まるでピエロのようだ。

 それでも、私は嘘をつき続けねばならない。自分の我儘と現実を両立させるに。

 自由なお金で、気兼ねなく、友達と遊びに繰り出したい。可愛い服だって着たいし、化粧だってしたい。それらは全部、自分のお金で為さなければならない。


 ブブブ


 ネットカフェへ向かう道すがら、客引きと目を合わせないために、わざとらしく手にしていたスマートフォンがチカチカと点滅した。今度は着信ではなくメールだ。差出人は……。


「しつこいなぁ」

 内容を見もせず、メールを削除する。

 中身はどうせいつもと同じだ。「今どこにいるの」とか「明日は帰ってくるの」とか「お父さんが心配している」とか。

「……私なんて、ただの厄介者だろ」

 恨みを込めて、吐き捨てる。


 本当の母親は、男を作って出ていった。最後に会ったのは、小学校に上がるか上がらないかの頃だ。離婚の際にひと悶着あって――詳しいことは知らないが私の親権を巡って大げんかしたらしい――それ以来実母と顔を合わせていない。今ではもう、記憶もおぼろだ。声はおろか、どんな人だったかも覚えていない。

 実母がいなくなってからは、父子でどうにかやってきた。それなりに上手くいっていた。


 ……それなのに、突然、見知らぬ女が現れた。

 その女は美人などでは、到底ない。化粧っけのない、地味な、女を捨てたような女だ。正直、父の感性を疑った。どうしてあんな女を家に迎え入れたのか、と。

 父も父だ。あの人は、私を騙していたのだ。私に秘密で、外で女をこさえていたのだ。私には父しかいなかったというのに、父には私以外のよりどころがあったのだ。

 これなら、実母に引き取られた方が、ずっと、ずっと良かったのではないか。そう、意味のない後悔が押し寄せる。


 ああ、腹立たしい。腹立たしい。腹立たしい。


 私の家に、我が物顔で居座る女に腹が立つ。そこは私の家なのに。

 私の親愛を、無残に裏切った父に悔しさを覚える。私にはあなただけだったのに。

 私を押し退けるように、自分が一番だと喚き散らす妹に憎らしさを抱く。あの家の娘は、私ただ一人だけだったのに。


 ふつふつと煮えたぎる怒りに、目の前が赤く燃えていく。

 腹立たしい。悔しい。憎らしい。

 私の家だったはずの、私の生家。帰るべき場所は、今や寄生虫に侵され、変質して、無くなってしまった。あの頃の、幸せだった私の家は、失われてしまったのだ。

 後妻となった女は、口うるさくて、私をいつもヒステリックに怒る。

 私はあの女が苦手だ。あの女のせいで、家に帰るのが、憂鬱で仕方がない。

 数か月前に、妹が生まれてからは、なおのこと。父さえも、妹につきっきりで、どこにも私の居場所がない。


 まるで私だけが、部外者みたいじゃないか。


 前は簡単にくぐれた玄関ドアが、今はひどく重苦しい。まるで拒まれているかのように。

 ドアを開いて、赤ちゃんの泣き声が聞こえてくると、他人の家に足を踏み入れたような心地になる。そうして、私の帰宅に気づいた義母が、玄関までに姿を見せた時、私はいつもこう思うのだ――「ここは私の家ではない」と。

 私はあの家の住人ではないのだ、もう。招かれなければ入ることの許されない、客でしかないのだ。私の本当の居場所は、どこにも、なくなってしまった。


 なんて、悲しい。

 ふらふらと、スマートフォンを見ながら、街を歩いていると――

 トンッ

「あっ」

 誰かとぶつかってしまった。

 衝突した相手は「わぁ」と情けない声を上げて、へたりと、地面に尻もちをつく。

 相手は黒い詰襟を着ており、どうやら、同じ年ごろの男子のようだった。

「すいません、大丈夫ですか」

 スマートフォンを尻のポケットに突っ込み、相手の側に屈みこむ。すると、少年が尻もちをついたまま、こちらを見上げる。

 その顔は、見覚えのあるものだった。


「大御名くん?」

「あ、れ。もしかして、横川さん?」

 眼鏡の位置を直した少年が、私に気づいて、ぽかんとした表情を浮かべる。

 私がぶつかって転倒させた相手は、クラスメイトだった。

 大御名累(おおみなかさね)。新学期が始まると同時に転校してきた男の子。

 転校生というものは、どうしても目立つものだ。まして三学年ともなると、他の顔ぶれにも飽きる頃。

 そんな時期の新顔、ということで、彼は、私たち三学年の間ではちょっとした有名人だった。彼が転校してきた日などは、他のクラスの生徒がわざわざその顔を見に来たほど。


 私は、少しの驚きを抱いた。まず一つは、彼が、私の名前を憶えていたことに。

 まだ転校してきて二週間しか経っていないのに。班も違うし、グループワークで一緒になったこともないというのに。私など、クラス全員の名前を憶えるのに、丸半年もかかったのだ。

 二つ目は、彼が、すぐに私だと気づいたこと。かなり厚く化粧をしていて、普段の顔とは随分と違うと思うのだが。


 私の困惑など露知らず、彼は尻についた土を払いながら「こんばんは」と呑気に挨拶をしてきた。

「ああ、こんばんは。化粧をしてるのに、よく分かったね」

「分かるよ。でも最初はびっくりしちゃった。高校生くらいに見えたもの」

「でもすぐに私だと分かったよね。もっと化粧を濃くするべきだったかなァ?」

「あはは、化粧は、顔を隠すものじゃないでしょう」


 何気ない彼の言葉に、ギクリ、と顔が強張る。

 そうだ。確かにそうだ。化粧は、元あるものを、それ以上に美しくするためのものだ。人によっては痣などのコンプレックスを隠すため、という場合もあるだろうが。それでも、あるものをある以上に美しくするため、という目的に違いはない。


 だけど、私の場合は、違う。

 これは、私が中学生であることを隠すためにしている化粧だ。バイト先で、あんまり若く見られたら、変な客に絡まれてしまうから。それに、もし顔見知りと遇っても、すぐに私だとは分からないようにするため。

「お、大御名くんはこんな時間に、どうして?」

 慌てて話題をすり替える。

 切り替えの不自然さには彼も気づいただろうに、それに対して彼が何か言ってくることはなかった。


「それは横川さんにも当てはまる質問だけど。僕は塾の帰り。迎えが遅くなるみたいだから、ちょっと辺りをぶらついていたんだ」

 眼鏡越しに、黒い眼が、じっと私を見返す。その目が、言葉もなく「お前はどうなのか」と問いかけてくる。

 何か答えなければ。居心地の悪さに耐えかねて、私は咄嗟に嘘をついた。

「私は、ちょっと通りかかっただけ」

「そう」


 下手な嘘は、沈黙より雄弁だ。むしろ「内緒だ」とでも言ってしまった方が良かった。

 厚く化粧をした中学生が、酒と煙草の臭いをまとい、夜の街を歩いている。しかも、その理由をはぐらかすなんて。少し勘の良い人なら、すぐに分かるだろうに。むしろ、もっと悪い想像をしていてもおかしくない。

 流石に、いかがわしい店で働いているなんて勘違いはされたくなかったので、私はとうとう観念することにした。

「嘘。本当は居酒屋でバイトしてる」

「そうなんだ」

 ごくりと、生唾を飲む。

「ねえ、先生には黙っててくれない?」

「言わないよ。――ただ」


 中途半端に言葉を切ったまま、彼は黙る。足元を見下ろして何やら思案している。

 一方の私は、途切れた言葉の先に、あらゆる思いを馳せ、ただただ恐々としていた。

 一体、彼は何と言ってくるつもりだろう。秘密でバイトをしていることを材料に、私を脅すつもりだろうか。


 まだ彼の人となりを知らない私は、出来うる限りの最悪の想定をして、沈黙の先を待った。その間も、ドクドクと、心臓がざわついている。それをどうにか宥めすかして、涼しい表情のまま堂々と言葉の先を待っている――ように見せかけた。

 人間が話し始める時、そこには独特の空気がある。ふとした沈黙というか、薄い呼吸の気配というか。いや、もしかしたら目なのかもしれない。これから話すよ、と、視覚や聴覚、気配で、言葉にならないメッセージを送ってくる。

 とうとう来た。そう思った直後、大御名が唇を開いた。

 身構える私に、彼は、情けなく眉尻を下げたのだった。


「心配だよ」


 一体、何を言われるかと思えば。

 拍子抜けしたと同時に、無性に腹が立った。

 どうして。

 会って数日の人間に。それも、ただ同じ教室で、ただ同じ授業を受けただけの人間に、どうして、そんな心配をされる謂れがあるというのか。


「関係ないでしょ」

 口をついた言葉は、自分で思う以上に刺々しかった。

「でも、こんな時間に女の子の一人歩きは危ないよ」

「何それ。あなただって、こうやって、一人でぶらついてるじゃない。塾のお迎えなら、塾の前で大人しく待っていれば良いのに」

「でも僕は男だし。こういうことあんまり言いたくないけど、女子の方が、男より危険が多いと思うんだ」

 大御名は、先日あった女子大生の性的暴行事件を挙げた。ネットニュースでも取り上げられていたので、私もよく知っている。事件が起きたのも近隣の県なので、学校でも注意喚起がされたくらいだ。


「女だから危ないって? 不公平だよそれ。何で女だからって理由で縮こまっていなきゃならないの」

「僕もそう思うよ。だけど、それが実際なんだ」

「は、私を脅してるの? もう半年もこうやってるんだから、大丈夫よ。それより、本当に誰にも言わないよね、バイトのこと」

「誰にも言わないよ。だけど――」

「それなら良いわ。私のことはもう放っておいて。じゃあ、もう行くから」

 少年の言葉をピシャリと遮る。

 踵を返す直前、見えた彼の表情は、しゅんと落ち込んでいた。チクリ、と小さな罪悪感を抱いたが、それもすぐに飲み込まれた。


 だって、自分は何も悪くない。他人事なのに、まるで当事者といわんばかりに首を突っ込もうとした彼の方に、非があるのだ。

 他人の事情に、何も知らない人間が口を挟んでくる。――それは何て無責任なことだろう。

 何か解決策でもあるというのか? 私の事情を、華麗に解決できるとでもいうのか?

 「心配だからやめろ」だの「それはいけないこと」だの、代替案もないくせに、誰もかれもが、ただやめさせようとしてくる。

 それで私を救ったつもりなのか? それなら、私は声を大にしてこう罵ってやろう。偽善者、と。


 私だって何も、最初からこうだったわけじゃない。

 何度か、義母との不仲を、親しい友人たちに相談したことがあった。みんなみんな、実の母や実の父から無償の愛を、浴びるように受けてきた少女たちだ。「親から愛されること」に疑いを持たない彼女たちは、揃ってこう言った。――「お義母さん、レイのことが心配なんだよ」と。だから母親を悪く言うな、と。

 なんて優秀な少女たちだろう。彼女たちには、見事、道徳が浸透しているらしい。素晴らしい、道徳教育の賜物だ。


 だが、知ると良い。

 他人の子は他人だし、他人の親は他人なのだと。戸籍上で親子になろうが、それぞれに、それまで他人として生きてきた記憶が積み重なっている。それがある限り私たちは、どう足掻いたところで他人なのだ。


 重ねて、知ると良い。

 貴方達の言葉は、つまるところ、私に、「我慢して今の環境に耐え忍べ」と強いているのだと。

 彼女らの理論は、私を抑圧するものなのだ。しかし厄介なことに、彼女らの大半はそれに気づいていない。自分が善行をなし、自分が金言を吐いたと思っている。自らが悦に浸っているだけだというのに。


 だからこそ、偽善だ。


 怒りのままに進ませた足は、荒く地面を踏みしめる。肩をいからせ進む私に、客引きさえも臆して声をかけてこない。

「あっ」

 後方から、大御名の間の抜けた声が聞こえた。

 気になって振り返ると、人混みの間に、大御名の姿が見える。しかしその傍らには、先ほどいなかった姿が――周囲から頭一つ分飛び出た、上背のある黒いスーツの男が見えた。

 もしや絡まれているのでは、と思いその場に立ち止まり見守っていると、二人は親しげに話を始めた。どうやら顔見知りのようだ。

 もしかして先ほど言っていた「迎え」とは、あの黒い男のことなのだろうか。

 こちらからでは、男の顔は、よく見えない。

 父親にしては随分と若そうだ。兄なのだろうか? 真っ黒なスーツは、会社勤めをしているというより、まるで葬儀屋のようだ。それか、就職活動でもしているのだろうか?

 二人の様子を、何とはなしに見つめていた。彼らがいくつか言葉を交わし、笑い合い、そうして歩き出す様子を、ただじっと。物珍しいような、羨ましいような、そんな気持ちで。


「――」

 不意に大御名が、ピタリと歩みを止めた。

 こちらを振り返りそうな気配を感じて、私は、慌ててその場を後にした。

 幸せそうな、家族の偶像から逃れるように、走り去る。


 先ほどまで感じていた憤りは、いつのまにか、消え去っていた。




 続


           絡新婦の少年 第1章「妖精の誘う木」第1-2節




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