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作者: まさや

朝が来る。目を覚ますと、瞼を閉じたまま恭助は布団の中で胸に手を当てた。静けさの中に左胸の音と時計の秒針の音だけが流れる。恭助は自分が生きていることを感じた。瞼を開け枕元の時計を見ると、短針は6を指していた。若い男は体に掛かった布団をはぐり、ゆっくりと起き上がった。恭助は郵便受けの新聞を取って台所へ向かった。珈琲を淹れる音さえ五月蠅く聞こえる。静かな朝だ。珈琲と新聞を手に、恭助は居間の隅のロッキングチェアに深く腰掛けた。すぐ傍のカーテンから差し込む朝陽を、カップの中の黒い液体が反射する。自分以外誰もいない部屋に、揺れる椅子の軋んだ音だけが響く。静寂と無言が新聞の頁をめくる雑な音に溶け込む。美しい朝である。椅子の揺れが恭助を眠気へと誘う。彼は現実と夢の間でうとうととしていた。

そんな時であった。突然電話の鳴る音が恭助の鼓膜を突き刺す。こんな朝に何事であろうかと、彼は重たい腰を上げてその音の方へ歩いていった。受話器を取り、耳に当てる。

「もしもし…」

聞き覚えのある声だ。

「どちら様でしょうか」

正体のわからない声に恭助はそう答えた。

「永井洋平だ。君の兄だ。」

恭助ははっとした。それは鈍器で殴られたような衝撃であった。実は、恭助は2年前の冬に父と喧嘩をして以来、家を出たまま家族とは一切連絡を取っていなかったのだ。家族とは縁を切った。恭助は2年もの間自分の心にそう言い聞かせていた。

電話の向こうの男はこう続けた。

「父が危篤だ。今すぐ病院へ来て欲しい。」

なんでも、昨日の夜父が急に倒れたらしい。あと数日持つかどうかすらわからないそうだ。何も言わず、恭助は黙り込んだ。少し時間がたった後で、

「分かった。」

とだけ言って恭助は受話器を置いた。

だが恭助は迷っていた。混沌とした心情が、静かな朝を飲み込む。自分の心臓の音さえ、もう何も聞こえなかった。彼は再びロッキングチェアに腰を下し、カップの中に入った珈琲を眺めながら深刻な顔をし始めた。椅子は大きく揺れていた。

父は元来体の弱い人であった。心臓病を患い、入退院を繰り返していた。かさむ父の入院代や生活費のために、母は昼も夜も仕事に出ていた。だから恭助は両親というものをほとんど知らなかった。兄はいつも恭助に無関心であった。兄と話したことなどあまりなかった。幼い恭助はいつも孤独を感じていた。父がいなければどれだけ幸せであったかと何度考えただろうか。物心ついた時から、恭助は兎に角父のことが憎かった。

恭助が家を出た日、父は病院から退院して家に帰って来ていた。父は彼に何か用があるらしい。父は彼を部屋に呼び出した。2人の間に緊張感のある空気が流れる。沈みかけた空が窓の外に見えた。父が先に口を開く。

「毎日遊んでばかりで恥ずかしくないのか。仕事についてまともな生活を送りなさい。」

厳しい口調であった。

「そんなことは私の勝手です。口を出さないでください。

恭助は言い返した。

そうして2人の口論が始まった。頑固な2人の口喧嘩は止まらなかった。恭助にとって、父との喧嘩はこれが初めてであった。これまで溜めていた憎しみが、水道の蛇口を捻ったようにどっと溢れ出すのを彼は感じた。

「もうここにはいれない。」

恭助は鼻息を荒くして言い放った。涙を流しながら仲裁に入る母の手を振り切り、彼はついに荷物をまとめ始めた。荷物を抱えると、彼は一目散に玄関へ向かった。バッグに詰め込んだ荷物がやけに重く感じられた。ドアの取っ手に手をかけたとき、恭助は父に向って言い捨てるように言葉を吐き出した。

「お前なんか父親じゃない。一生その顔を見せるな。」

怒り狂う父と泣く母を残し、男は夜の闇に消えていった。家の中には、強く閉められたドアの余韻が聞こえていた。

家を出た後で、恭助はなけなしの金を持って独り都会へ出た。生活費に困った彼は、ついに仕事を始めた。毎日一生懸命に汗を流した。仕事をし、生活が安定すると、あの日の自分の言葉がしょうもなく思えてきた。それからというもの、恭助はずっと最後に父に言った言葉が心残りだった。その悔いの波が、今になって椅子に座った彼に押し寄せる。今ならまだ父に謝ることが出来る。だが今更家族のもとに顔を出すのも厭だった。家族のことを考えると、あの日泣いていた母の顔が鮮明に浮かんでくる。恭助は迷っていた。こうして兄とまともに話したのはいつぶりであっただろうか。彼は深淵の淵に立っていた。父のいる病院までは30分とかからない距離だ。だがその距離が永遠のように感じられた。憎いはずの父であるのに、目の前に死というものが現れると、何故か悲しみの情が込み上げてきた。また部屋の中が静寂に返る。こうして彼が悩んでいる間に、いつの間にか日は傾きだしていた

突然電話が鳴った。その音が再び部屋を騒がしくする。朝と同じ声だ。

「どうしたんだ。早く来い。」

低く単調な声がそう言った。

「ああ。」

恭助ははっきりとしない口調で答えた。その声の中には、はっきりと彼の迷いが見えた。兄弟の会話が、静まり返った部屋中に反響する。

「もう時間がない。」

「そうか。でも…」

「父の最期を見届けてやってくれないか。君がここへ来たくないのもわかっているが。」

「少し考えさせてくれ。」

「時間がないんだ。」

洋平がそう言い切る前に、恭助は電話を切った。まだ恭助は混沌から抜け出せないでいた。揺れ動く天秤の中間で、彼は頭を抱えていた。カーテンの向こうの光が、斜めから彼を突き刺す。だが恭助は、徐々に天秤が片方に傾いていくのを感じていた。ふとテーブルに目をやると、朝の飲みかけの珈琲があった。冷たくなった珈琲を飲み干すと、突然恭助は街の喧騒の中へと駆け出した。

 玄関を開け、彼は走った。雑多な街を抜け、その足は病院に向かっていた。もう何も聞こえない。風を切る音も、街ゆく人の声も、何ひとつ聞こえなかった。父の死に間に合うことだけを考えていた。赤くなり始めた空が彼の顔を照らす。頬を伝う涙が赤く染っていた。彼は長年の後悔を踏みしめるように、硬いアスファルトの上を駆けていった。しばらく走ると遠くに病院が見えた。前に進む度に、その建物の姿が少しずつ大きくなっていく。もうすでに恭助の心中に迷いはなかった。今日こそ父に謝ろう。そう思っていた。

 彼は息を切らしながら病棟に入った。その呼吸が病棟中に響く。薄暗い廊下を進んだ。その廊下がとても長く感じた。少し進むと、洋平と母の顔が見えた。彼らと会うのは2年ぶりである。恭助はそちらの方へと駆け出す。向こうもその足音に気が付いたようだ。光の弱い蛍光灯が3人の姿を映す。兄は

「来たのか。」

と言った。電話の向こうの男と同じ声だ。その声が閑散とした病棟の壁にこだまする。その隣では母が泣いていた。いつか見た事のあるような顔だった。だが恭助には彼らの声さえ聞こえなかった。彼の目には、ただただ兄と母の姿が見えるだけだった。彼らと言葉を交わすことも無く、恭助は急いで父のいる病室の中へと入った。彼は父にあの日のことを懺悔しようと決心していた。

部屋には沈黙が広がっていた。静けさの中に、心臓の脈打つ音と時計が正確に時を刻む音が聞こえる。恭助はやっと父に思いが伝えられるのだと思い、霧が晴れたような心持ちがした。

「父さん…」

そう言って彼は久しぶりに会った父の胸に手を当てた。

しかしもう心臓は動いていなかった。

病室の小さな窓から見えた空から、欠けた月がこちらを覗き込んでいた。

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