ちっとも凄くない寺生まれのKさん 『正月・宴会』後編
赤ら顔のご老人方はお炊き上げを見に来た家族に連れられて帰り、クラスメイト達も三々五々帰っていった。
駄々を捏ねる丹科さんをバイクに乗せて出るのに合わせて、志穂も透耶を連れて帰る。
無事丹科さんを送り届けて戻れば、寺にいるのは俺と依歌、怜だけとなった。
ようやく落ち着ける。一応明日も山参りといって、うちが管理する墓地のある裏山を見て回って、『他界』でもある山を鎮め安定と豊穣を祈願するものがあるのだが、今の所は置いておく。
昔はすべてが終わった夜に行っていたらしいのだが、夜の山は危険ということで一日ずらした一月二日にやるようになったらしい。
時代の流れはこんなところにもくるものだ。
「ただいま」
「お帰りなさいませ」
玄関を跨げば、両手に酒瓶を抱えた怜が出迎えてくれた。
家の中は数時間前の喧騒が嘘のように静かで、耳鳴りがしそうになる。
「依歌は大丈夫?」
「一応は。酒気に当てられて辛そうだったので、私の部屋で休んでもらっています」
「そっか、ありがとう」
いいえ、と小さく首を振り、会釈して身を翻す。
その怜の後姿に声をかけた。
「俺も手伝おう。客間はまだ?」
「はい、先に食べ物だけ悪くなる前に片付けましたから」
「分かった。じゃあ、怜は台所を頼む。向こうは俺がやろう」
「お願いします」
上着を居間に脱ぎ捨てて、雑巾とバケツを持って客間に向かう。
障子が開け放たれているにも関わらず、近づくと未だに軽く酒気がした。
よくもまぁ、元気に飲み食いするものだ。これなら百歳以上生きられるかもしれない。
酒瓶を片付け、空の皿を運んで、テーブルを拭いてついでに床も拭く。
部屋の中を空っぽにし、襖も元に戻した頃にようやく酒気が抜けていった。
雑巾とバケツを戻し、居間から台所を見やると、エプロン姿の怜の背中が見えた。
邪魔にならないようにだろう、一まとめにした黒髪が背中に流れる。
ふと、見た事もない母の姿が重なった気がした。奇妙な郷愁。依歌に感じる心地良さとは違う、どちらかといえば侘しさを含んだもの。
今、洗い物をしているのも俺の為なのだろうか。
何故か、心が痛んだ。
「怜、こっちは終わったよ」
「有り難う御座います。こちらももう少しで終わりますから、どうぞ仁様は寛いでいて下さい」
「あぁ、分かった」
そう言って居間から出て、親父の部屋に向かう。
普段なら散らかっているその部屋は、大掃除の後ですっかり片付いている。主が不在、というのも大きい。一日二日ですぐ散らかすのが親父の得意技だ。
うちで一台しかないPCとプリンターを横目に、押入れを開ける。
札の代金が入った金庫を無視して、奥まった所にある鞄を引き寄せて中を開く。
ごちゃごちゃに入ったものをかきわけ、目当てのポケットを見つけ出した。
中に入っているのは、二つのお年玉袋。出て行く前に親父が言い置いていたのだ。といっても、昔から親父がそこに入れているのは知っていたが。
親父は忘れているだろうが、何度か酔っ払ったままお年玉を渡そうとして俺の目の前で開けて見せたことがある。脇の甘さに定評がある親父ならではだ。
入っていたお年玉袋は二つ。書かれた名前を見れば、一つは依歌で、
もう一つは何も書かれていなかった。
これはどういうことだろうか。親父の事だ、どうせろくでもないことだろう。
例えば、これを自分のものにするか怜に渡すか選べ、みたいな。
一体何の意味があるのだろうか。
多分、自分で決めろ、と言いたいのだろう。
こんな些細な事でも、自分で決めたという意識を持て、とでも言うつもりだろうか。
親父の考えそうな事だ。そんなことでどうにかなるなら、苦労はないのだ。
それでも、少しだけ揺れる自分がいた。
別に金なんてどうでもいい。
元から、俺の分は怜にやるつもりでいた。
ただ、どちらのものでもないとは思っていなかった。
これを怜に渡す、というのは、俺が自分の意思で行う事になる。俺のものを譲り渡すんじゃなく、怜の分だと俺が決めるのだ。
ちっぽけな決定。
どうでもいいはずの些細な事。
それなのに、どうしてか少しだけ鼓動が早くなる。
なんてことはない、渡すだけだ。親父が用意していた怜の分のお年玉だと。
誰も特にそれを疑わないだろう。そうでないと知っているのは、俺だけ。
それで十分なのだと、親父が笑った気がした。
落ち着いて深呼吸をする。煙草、煙草を吸おう。
パッケージを掴んで、その手をゆっくりと離した。
駄目だ。それは、親父の思いを無にすることと何も変わらない。
吸うにしても、渡した後だ。そうじゃなければ意味がない。
お年玉袋をポケットに入れ、両手で顔を覆って深く息を吸って吐く。
大丈夫、なんてことはない。
当たり前の事を、当たり前にやるだけだ。
親父の部屋から出て、冷たい廊下を過ぎて居間に入る。
丁度、怜が台所の片づけをすませてタオルで手を拭いているところだった。
足音に気づいて振り向いた怜が、薄く微笑む。
「仁様、今お風呂を沸かしますね。依歌さんはどうされますか?」
「あぁ。依歌は後で様子を見て、大丈夫そうなら帰すよ。無理そうなら泊める」
「はい。あ、お風呂は日課の後に致しましょうか」
「いや、いい。先に入っていてくれ。明日もやることあるし、余り遅いと何だ」
「明日は何を?」
小首を傾げた仕草は実に愛らしく、改めて人形みたいに綺麗だと思う。
心臓の鼓動は早まるばかりで、落ち着きを取り戻さない。何てことない、ただお年玉袋を渡すだけのはずなのに。
明日の山参りの説明を、冷静に出来る自信はなかった。
「あー……うん、あとで説明する」
「分かりました」
頷いて風呂を沸かしに行く怜を呼び止める。
髪は、もうまとめてはいなかった。
「あの、ちょっといいか?」
「はい、何でしょう?」
大人しく振り返る怜の瞳を、真っ直ぐ見る事ができない。
ポケットの中でお年玉袋に触れながら、どう切り出したものか考える。
なんでもないことのはずなのに。
我が事ながら呆れ返るばかりだ。
息を吐いて、覚悟を決めた。
「これ、親父からのお年玉」
言葉にすれば、たったそれだけの事。
一際強く跳ねる心臓を抑え付け、ポケットから取り出した名前の書いていないお年玉袋を怜に手渡す。
怜はといえば、まさに目の前にあったから手に取った、と言わんばかり仕草でお年玉袋を受け取り、まじまじと見つめていた。
まるで新種の生物を見るような不思議そうな瞳。
徐々に収まる鼓動を感じつつ、もしかして、と思いながら尋ねてみた。
「お年玉貰ったのって、初めて?」
「……はい……いえ、話には聞いていたのですが……」
未知のものを調べるように、怜はお年玉袋をためつすがめつ眺める。
思わぬ反応に、返って落ち着きを取り戻す。
「何か入用があれば使うといい。それは怜のお金だから、好きに使って構わない」
「……好きに使えるお金、ですか……」
呆然としたままの怜に何か言わねばと思って、
「あぁ。その……あー、これで、ケーキも好きな時に買える」
どう言えばピンとくるかと思って、どうしようもないことを口にした。
七年も前の、しかも忘れていた思い出。
今更それに縋るしかないとは、我ながら語彙力の欠片もない。
けれど、それ以外にどう言えばいいのかも分からなかった。
怜は少し驚いたような顔をして、
「はいっ。ありがとうございます、仁様」
その笑顔は、いつもの密やかなものとは違っていた。
心臓が口から出るかと思った。
礼を言うなら親父に、なんてもごもご言う俺は本当にどうしようもない。
ちくちくと胸が痛む。違うんだ。俺はそんな笑顔を向けられていい人間じゃない。
君とした大事な約束も、守れるか分からないしょうもない人間なんだ。
君の言葉に、真正面から答えられもしないんだ。
煙草が吸いたい。
今もこうして、煙草に逃げるようとしている。
「じゃ、俺は依歌の様子を見て、日課してくる」
「はい。ではお風呂、お先に失礼します」
「あぁ、宜しく」
早足で俺と怜の部屋がある廊下まで出て、怜の部屋に入らず先に自室に入って煙草に火をつけた。
慣れるしかない。
ちゃんと怜の事をどうこう想えるまで、こういう事は続く。
部屋の中に紫煙を撒き散らして、ポケットの中のもう一つのお年玉袋に触れる。
依歌が酒に弱くてよかった。
今の自分の姿を、依歌には見せたくない。
そんなことをしたら、何かが決定的に変わってしまう気がする。
冷静に、いつもどおりに。
何も出来ない今のまま、何かが変わる事ほど恐ろしいことはない。
依歌は普段通りを望んでいる。望んでくれている。
だから、そうでなければならない。
ずっと世話になっている恩返しとして、そのくらいしなければ。
煙草が、どうしようもなく不味い。
言い訳を繰り返している事に、気づいていないわけではなかった。
※ ※ ※
湯船に浸かりながら、今日の事を思い返す。
本当に忙しい一日だった。いや、今までを思えば実はそれほど忙しくない部類に入るが、やはり慣れない場所は勝手が違う。
仁様のお役に立てただろうか。足を引っ張ってはいなかっただろうか。頭の中をそんな言葉がぐるぐる回って、落ち込んでしまう。
最低限何とかなったとは思うが、やはり満足行くものではない。足を引っ張りはしなかったと思うが、依歌さんにも気を使われたのは分かる。
あれやこれやと頑張ってきたのに、年季の差はどうにもならない。クラスメイトの皆様とも上手く話せないし、依歌さんに一歩も二歩も先に行かれている。
羨ましい、と思う気持ちを止められない。
依歌さんと仁様のお話はいつも言葉少なで、お互い何を言いたいのか分かっている。
同じようにできれば、と思うけれど、それは無理な話だ。
付き合ってきた年月ばかりはどうにもならない。時間だけは覆らない。
それでも、来年こそは、と思う。
今年でコツは掴んだし、要領も分かった。来年はしっかり仁様のお役に立ってみせる。
それに、最後は少しは何とかなったと思う。お炊き上げの火を見上げる仁様はどこかお辛そうで、あぁ、こういう時に煙草を喫まれるのだろうな、と思った。
その予想は見事的中し、喜んで頂く事が出来たと思う。
差し出がましいながらも念仏を唱えてみたら、それも喜んで頂いた。今日一番、自分を褒めてあげたい事だ。
肩の力を溶かすように息を吐いて、天井を見つめる。
流石に疲れた。先にお風呂に入るよう言われたのは、私の疲れを見越してのことだろうか。
大晦日から今日まで、一気に色んな事があったし、色んな人と会った。
坂上志穂さんは優しい方だったし、瀬良透耶さんも乱暴な口調ながら皆さんを大切に思っている事が伝わってきた。
クラスメイトの皆様も良い人ばかりだし、あとは私の努力次第だと思う。
ただ、仁様の親友だという山下達也さんという方にお会いできなかったのは残念だった。
そういう人だと志穂さんも瀬良さんも仰っていたけれど、始業式までお会いできないのはなんだか寂しい。
そういうつもりではないのは分かっているけれど、どこか隠し事をされているようで。
そういうことを考えるから、依歌さんに追いつけないのだ。
湯を掬って、顔にぶつけた。
良い事を考えよう。そう、さっき仁様に頂いたお年玉だ。
秀徳様から、ということだったが、直接渡して頂いたのは仁様だ。だから、これは仁様からということにしておく。秀徳様も多分、そちらのほうを望まれる。
秀徳様。本来、近づく事も許されないはずの、本家のご当主。
これも仁様にはお話していないが、今年――いやもう去年か。去年の十二月二十四日、クリスマスイブの昼にお会いしているのだ。
こちらに来る前、顔合わせとして総本山のいつもの会合につかう寺にて初めてお目見えした。
おおからで笑顔が力強く、繊細に仁様の事を思いやっていらっしゃった。
軽くお話した後の一言が、今も忘れられない。
「仁のことを、宜しく頼む」
そう仰って、深く頭を下げられた。
私などにそんな態度をとるとは誰も思っておらず、僧正様含め皆様が慌てて顔を上げられるようにと言われても、秀徳様は私が頷くまで頭を上げられなかった。
その言葉の意味は、おそらく簡単に許婚として、なんてものじゃなく。
仁様の今後の人生おいて、重要な事なのだと思った。
本当は、流されて婚姻を結ぶのも悪くないと思う私もいたのだ。
仁様はああいうお方だから、きっと大事にして下さる。不平不満の特にない結婚生活が待っているだろうとは思う。
けれど、それでは仁様の為にならない。
秀徳様のお言葉を無下にすることに他ならない。
何より、私がそれでは満足できないのだ。
出来る事なら、仁様のご意思ではっきりと私を選んでほしい。もしも依歌さんや他のどなたかを選ぶにしても、仁様のご意思ならば従える。
流されて選ばれるよりも、ずっと満足できる。
もしもそうなったら、と考えるだけで苦しいけれど。悪魔が囁く時もあるのだけれど。
きっと、婚姻を結んだ後もあの悲しい横顔を見たら、そのほうが辛いから。
二年前までずっと隠れて覗いていた仁様は、笑顔なのにお辛そうだった。
ふとした時の横顔が、どうしようもなく悲しそうで、どうにかしてあげたいとずっと思っていた。
寂しさを押し殺して歓談する仁様を陰から見守るしかないのが、何より苦しかった。
あの空っぽの横顔を、私を選ばれた後もされるくらいなら、選ばれなくてもいい。
仁様が幸せそうに笑って下さるなら、それが一番いい。
私は今まで一度も、曇りのない仁様の笑顔を見た事がない。
きっと、それは依歌さんも同じなのだと思う。
だから、私達は互いを意識せざるを得ないのだ。
同じものを求めていると、分かってしまうから。
湯船の中で、小さく伸びをする。
逆上せる前にあがって、仁様から明日の説明を聞かなくてはいけない。
そうして少しずつ、仁様の当たり前の中に私も入っていくのだ。
それが、多分、望みを得る為の一番の近道だと思うから。
何もないことは分かっていても、毎日体はしっかり洗ってしまうのだった。
続くかもしれません