014 ―――ignition
揺らぐ陽炎の向こう側から、一筋の糸が放たれていた。
糸は集い紙縒り槍となり、音速を持って夕子さんへと突き立っていた。
「夕子さんっ!! 夕子さんってばっ!!??」
夕子さんの体は吹き飛ばされ、屋上際の金網にめり込んでしまっていた。
慌てて駆け寄り、その身体を診察する。
打撲傷やかすり傷、糸の直撃でか所々切り傷はあるものの、霊的次元でのダメージは受けていないようだ。多分だが、咄嗟に防護陣でも構成して攻撃を防いだのではないだろうか。
「…流石、伊達にホラーハンターなんて名乗ってないね」
まぁ、それでも。気絶してしまっている辺り残念と言うか。
目に力を込めて精神面を診察する。
…致命傷こそ無いものの、肉体的なダメージがかなり溜まってしまっている。
これなら幸い、夕子さんは暫くは目を覚まさないだろう。
振り返って、蜘蛛を睨みつける。
理性も糞も感じられない怪物が、しかしその一瞬たじろいだように見えた。
「…覚悟は、出来てるんだろうな?」
魂が灼熱し、魔力が加速し、精神が刃の如く研ぎ澄まされていく。
怒り。言葉にするなら、その一言。
ボロボロの夕子さんを見て、俺の理性が弾けとんだ。
「………『―――ignition』」
加速する内界魔力が、その言葉を切欠に加速する。
点火の言葉は呪文などと言う上等なものではない。コレは、ただ自分に語りかける為の符号。自己暗示でしかない。
けれども、それを切欠として俺は完全に魔を扱う存在へとシフトチェンジする。
「ギシェアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!」
満身創痍の大蜘蛛が吼えた。
此方の変化を敏感に感じ取ったか、糸疣から幾重にも糸を飛ばしてきた。
「……」
白く染まる世界、加速する思考…魂。
世界の法則が見える。世界に満ちる情報を読める。世界に満ちた道理が見える。
糸にのせられた術式は“枯渇”。魔力…ひいては生命力を霧散させ、対象を衰弱しさせるという攻勢術式。
懐からペーパーナイフを取り出す。
ナイフに魔力を通し、巡回させる事でそれを己の腕の延長のように錯覚させる。
一閃。
糸を構成する術式の、その空白部分。そこにナイフを突き立て、強引に術を霧散させる。
「………!?」
術式解除。
只単純に呪文をつむぐより難しいといわれる、その技。
俺にしてみれば、下手に難解な式を編むより、それを解くほうが簡単に思えるのだが。
大蜘蛛から驚愕の気配を感じる。
それはそうだ。仮にも夕子さんですら抜く事が出来なかった糸を、俺は解呪したのだから。
「案ずるな。楽には逝かせてやるさ」
加速する。
俺に攻勢の魔術は扱えない。いや、魔術を扱う素地は鍛えられたのだが、肝心の魔術式に関して俺が持ちえる戦闘系のものは一つしかない。どちらかと言えば、魔を扱う術を持っているだけだ。
出来る事といえば、精々肉体と精神の処理速度を加速させる事ぐらいか。
だから、肉体で戦う。
そもそも、魔術での遠距離戦なんて性に合わない。
生の感触を伴わない威力など、結局は偽りにしかならない。
「ギシェアアアア!!!!!!!」
放たれる糸をペーパーナイフで解呪し、一直線に蜘蛛に近接する。
振り上げられる大足。しかしその動きは初見に比べてはるかに遅い。
振り上げられた足に回し蹴りを叩き込む。
その一撃は蜘蛛の足を叩き折り、千切れとんだ足は不浄の液体を垂れ流しながら屋上の端へと飛んでいった。
「――――――――!!!!」
悲鳴があがる。
ソレまでの威嚇とは違い、余りの高周波で音として聞き取る事はできなかったが。
音を防ぎつつ、蜘蛛の背中に回りこむ。
「…………」
さて、そろそろ使うか。
ペーパーナイフに意識をむける。否、ペーパーナイフにではなく、其処に至らせるものに意識を向けた。
ゾルッ…。
首筋からソレが、腕を伝ってその先へと下りてきた。
蛍光グリーンに輝く、ジグザグした、不透明な、非物質のそれ。
術式でありながら魔術そのものであり、俺の体の延長であり、俺の唯一の武器。
明確な名前は無い。
ただこの触手は俺の体の延長であり、魔術であり、魔術回路でもあり、武器であった。
ゾゾゾゾゾ…
触手がペーパーナイフを侵食する。
そうする事でペーパーナイフは“魔力を帯びた道具”から“術式を持った呪具”へと一時的に変貌していた。
魔力の防御と言うのはつまり、自分より質の低い魔力を通さないという、只それだけのことでしかない。
術式防御ともなれば話は別だが、しかしこの蜘蛛の防御を破るために必要なのは、只単純な高濃度の魔力ただそれだけだ。
そして、自慢ではないが俺の魔力は結構いい線をいっているらしい。
ズプッ…
「ゲアアアアアアアアアアアアア!!!!!!???????????」
背中にペーパーナイフを突き刺した途端、蜘蛛がガクガクと痙攣を始めた。
…俺の魔力に拒否反応でも起こしているのだろうか?
魔物と言うものに関する知識は少ない。そのあたりは今一わからないが。
触手を引き戻し、今度はソレを空間に張り巡らせた。
懐からライターを取り出し、シュポッと音を立てて点火させる。
「触媒はコレしか無いけど……」
ライターの炎が一気に燃え上がる。
それは常識的な炎の形に留まらず、四方八方に広げられた幾本もの触手に沿う様に宙を走って。
「レアが駄目ならウェルダンに仕上げてやるよ」
幾本もの、その炎の触手。念じた瞬間、それは槍となって大蜘蛛へ襲い掛かった。
「ギシェアア!!!!????」
危機を察知して蜘蛛が糸の結界を張り巡らせる。…が、遅い。
ボッ、ボッ、ボボッ!!!!
―――――――!!!!!!!
再びあがる蜘蛛の悲鳴。
同じ術式ならより質の高い物が、魔力でも、より上質な物こそが。
たかが蜘蛛如きに、俺が遅れを取るなんてありえない。
「さようなら、だ」
蜘蛛に突き刺さった炎の槍。しかし、それはやはり俺の魔術回路でもあるのだ。
首筋の刻印を通して、一気に魔力を叩き込む。
瀑布の如き魔力は、しかし鋭い刃の一撃の如く、触手を通して蜘蛛の内側から威力を爆発させた。
悲鳴すら上げる暇も無く。
蜘蛛の身体は爆散して、跡形も無く砕け散っていた。