000 日常の崩壊
「…………………………うげっ」
目が覚めて、真っ暗闇の中。
眼鏡をかけなおして、次に手を伸ばしたのは、自分の腰。つまりは、ポケットの中へとだった。
開いて、時刻を確認。
驚いたことに、時計の針で言うと左上に向けて針がクパァと開く21:00まであと少しと言う所か。
正直、こんな時間まで学校に残っていた経験は皆無だ。
「っていうか………」
周囲を見回す。
目に映るのは本、本、本。
辺り一帯本の海。…つまり、此処は図書室…の、隣に在る閲覧室だ。
「なんで起こさないんだよ、図書委員」
憂鬱に感じて、しかしそのまま立ち上がる。
確か、放課後に図書室でマッタリ読書をしていて、そのまま…寝てしまったのか。
四方を見回して。…うん、鞄はちゃんとある。
幸い俺は夜目が効く。手早く身の回りを整えて、そのまま図書室の扉を開いた。
廊下を抜けて、階段へ向かって走る。
…しかし、夜中の学校と言うのは実に恐ろしい。
空気と言うか、雰囲気と言うか。そういうのが昼間に比べると大分違って感じる。
例えるならば……そう、水風船。ひんやりとした水が、今にも弾けてしまいそうな、そんな冷たい緊張感。
「…………………」
恐くなって、少し歩みを速める。
…なんだろうか、嫌な気配を感じる。
怖気と言うか、寒気と言うか。さっきまでとは明らかに違う感覚。
マズイ、マズイと心が警鐘を鳴らす。
何が不味いのかも理解できず、けれどもその警鐘は恐怖へと直結して。
訳も解らぬまま走り出す。
「……………………っ!?」
そうして、はっきりと感じた。
何かが俺の背後をつけてきている。
背に在る気配。それは、少し遅れて俺の背後についてくる。
「……!!??」
既に恐怖は恐慌となっていた。
必死に振り向きたい気持ちを堪えて、前だけを見て廊下を駆け抜ける。
…今、後ろを振り向くのは確実に死亡フラグを立ててしまう。
「……いや、でも、逃げてる、時点で、死亡、フラグ………」
息も切れ切れに呟いて、その言葉の意味に思わずゾッとする。
背後から感じる気配は、刻一刻と明確になっていく。
さっきまでは只の気配だったのに、何時の間にか足音のようなものが聞こえていて。
トトトトトトトトト……
人ではありえない複足の奏でる足音。
…いや、何故? 俺は今何故この音を足音だと判断した? 何故複足だと………
……ああ、これは、夢か。俺の見ている悪夢か何かか。
そう思ってしまった瞬間、不意に足元から力が抜けた。
安心した途端、気が抜けてしまったのだろう。途端、俺の身体は慣性と重力にしたがって前のめりに倒れこんで。
ゴガッ!!
「……え?」
背後から聞こえたそんな音に、思わず声を上げてしまって。
ゆっくりと、背後を振り向く。
先ず初めに見えたのは、緑色の巨大な何か。
ギザギザとしたそれは、まるで鋼の如く、しかし何処か生物じみた丸みの在るフォルム。それが、しっかりと廊下の床にめり込んでいて。
次いで見えたのは…金色の複眼。丸い其れが二つ繋がって、その複眼は確かに俺を映していた。
「……………………」
声が出ない。
俺は其処に在るモノを知っている。
アレはカマキリだ。緑色の、鎌を持った昆虫。よく子供の頃はあれを見つけてはしゃいでいたものだ。
…けれども、カマキリってのは、何時から2メートル大にまで巨大化したんだ?
…っていうか、カマキリって廊下の床…コンクリを砕ける生物だっけ…??
ガチガチガチガチガチガチガチガチガチガチガチガチガチ…………
耳障りな音が響く。
一帯何事かと周囲を見回して、しかし音を立てるようなものは何処にもなくて。
…ははぁ、把握したぞ。こういう場合、音を立てるのは……。
自分の口に手を当てて、顎が思い切り揺れているのを確認して。
「キリキリキリキリキリキリキリキリキリキリ!!!!!!!!」
「う、うおあああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
半ば超音波のような、カマキリの威嚇をうけて、身体を転がしてカマキリから距離をとる。
途端廊下に突き立つ大鎌。少しでも挙動が遅れていたら、もしくは鞄を拾おう等と考えていたら、今頃アレの餌食だったろう。
「うおおおおおおおおっ!!!!」
その迫力が効いたのだろうか。
一気に覚悟を決めて、雄叫びで自身に活を入れる。
――動け、動け動け動け!! 此処で動かなければ待ち受けるのは確実な死。
巫山戯るな、馬鹿にして。
一体何だというのか。図書室で寝過ごしたらオバケカマキリに襲われて変死!? 冗談ではないっ!!
「ぬりいいいいやあああああああああああああ!!!!」
吼えて、一気に階段を駆け下りる。
背後から響くキリキリ咆哮。無視。ガン無視!!
廊下の上の障害物を蹴飛ばしてガタンガタンやってる怪獣は無視っ!!
幸い、障害物に身体を取られて、高速移動は滞っているようだ。このまま一気に引き離せば、あるいは。
心に決めて、一気に昇降口へ。
上履きでは不利だ。今此処ででは無くても、何処かで履き替える必要が在るだろう。
ロッカーの中から運動靴を取り出して、其れを両手に一気に校庭へと駆け出した。
その、途端。
「キリキリキリキリキリキリキリキリキリキリキリキリキリキリ!!!!!!!!!!!」
「ぬおおおおおっ、きやがったっ」
ドガンッ!! バゴンッ!! と轟音を立てて、ロッカーやらなにやらを蹴飛ばして、緑色の巨大なバケモノが此方へと近寄ってきている。
力を使おうにも、こんな集中力を欠いた状態ではさしたる威力も効果も期待できない。
巨大蟷螂へ背を向けてダッシュ。
この昇降口から正門までは約50メートル。ちょっとした短距離走だ。
が、今現在俺はカマキリと十分に猶予を持った距離を維持している。
このまま校外へ出て、そのまま何処か人気の在る場所へ逃げ込めば俺の勝利だ。
目標を見定めて、再びダッシュ。
50メートルくらいなら六秒台で走りきれる。多分。
…ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴ―――――――――
嫌な音が聞こえて。
一瞬の葛藤の後、背後を振り返る。此処で振り向かなかった場合は逆に死亡フラグかな、と思ったのだが。
「うわっ!?」
慌てて横へと飛びのく。
背後から高速で中を飛来してくるカマキリは、空中からその巨大な鎌を振り下ろしてきて。
間一髪避けた其れは、しかし地面に大きな切り傷を残していって。
…そういや、カマキリって飛べたっけ……。
なんてこった。最悪だ。
これなら、未だ校舎の中で追いかけっこしておいたほうが、俺の生き延びる確立は高かったんじゃないだろうか。
障害物の無い屋外は、カマキリが本来の性能を存分に発揮できる環境だ。
お、オーマイガッ!!
転がった拍子に脱げた上靴。手早く運動靴を足に履き、脱いだ上靴は両手に持って。
「キリキリキリキリキリキリキリキリキリキリキリキリキリキリ!!!!!!!!!」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!」
思い切り絶叫を上げて。
間近に迫った巨大な鎌をみて、思わず心が砕けかけて。
そのときだった。その轟音が夜空に響いたのは。