第7話 悪い子たちの影法師
「レイヤああーっ! よかったあーっ!!」
病室に入るなり、リリヤが泣きながらベッドに飛びついた。
ベッドの上には身を起こしたレイヤ。彼女は実の姉を抱き返し、困ったような苦笑を浮かべる。
「大袈裟ですよ、姉さん……。ちょっと熱が出たくらいで」
「何が大袈裟なのよ! すごい高熱で、意識がなくて、苦しそうで、傍にいたのがデリックで……!」
「おい。最後のは何にも心配じゃねえだろうが」
リリヤに抱きつかれたまま、レイヤはくすくすとひそやかに笑った。
昨日、40度近い高熱を出して倒れたとは思えない血色だ。医者はちょっと疲れが出ただけだと言っていたが、どうやら本当にそうだったらしい。
大騒ぎするリリヤの声に紛れて、デリックもまたそっと安堵の息をつく。
「……でもまあ、オレも肝を潰したぜ。ゆうべ、お前がいきなり倒れたときには」
「すみません、義兄さん。ご迷惑をかけてしまって……」
「ご迷惑をかけたのはお前じゃなくて、オレがなんかしたんだと思ってエルフィアの暗殺部隊を呼ぼうとしたその勘違い女だ。本当に身体はもういいのか?」
「はい。一晩眠ったらすっきり……。なんで病院にいるのかわからないくらいです」
「ダメよ、油断しちゃ!」
ガバッとリリヤが顔をあげる。
「自覚症状がないだけかもしれないんだから! あと一日は大人しく入院しておくこと! 大丈夫よ、世界最高のエルフィア医学は一日もあればどんな病気も発見するわ!」
「何も発見されないことを祈りますけど……はい、大人しくしておきます」
「約束よ!?」
「約束です」
「本当に本当にやくそ――」
「しつこい。逆に病むわ、お前というストレスで」
リリヤの首根っこを掴んで、猫のように引っぺがした。
じたばたぎゃあぎゃあと喚くのもまさに猫のそれだったが、看護師の女性に注意されるにつけ、しゅんと大人しくなる。
リリヤはエルフィア人らしく薬学にも精通しているが、その人格はおよそ病院という場には合わない。
「こいつ、うるせえからもう行くわ。じゃあなレイヤ、お大事に」
「あ、義兄さん――」
「ん?」
振り返ると、レイヤは開きかけた口を数秒かけてゆっくりと閉じた。
「いえ……あの、すみません」
「何がだよ。……レイヤ、オレらにはいくらでも迷惑をかけていいんだぜ。家族なんだからさ」
「そうよ! 家族なんだから! 私はね!」
「てめえ、暗にオレを外すのやめろ」
リリヤはツーンとそっぽを向く。
レイヤは困り顔と笑顔が混ざり合った曖昧な顔を浮かべた。
「そうですね。……ありごとうございます、義兄さん」
ん、とうなずいて、リリヤともども病室を出る。
しばらく黙って廊下を歩いた。
何人もの看護師とすれ違いながら、天井近くを忙しなく行き来する看護精霊を見上げる。
6匹目のバンシーが背後に飛んでいった頃、リリヤがぽつりと言った。
「……レイヤ、あなたに何の用だったの?」
レイヤはゆうべ、デリックと二人きりでいるときに倒れた。
昨日は余裕がなくてリリヤも問題にしなかったが、落ち着いたら詰問されるだろうとは思っていた。
だからデリックも、答えを用意している。
「答えない」
「わからない、じゃなくて?」
「ああ。答えない」
――いつも、そうやって……気を持たせるだけ、持たせて
レイヤのあんな声を、今までに聞いたことがなかった。
心の暗がりから漏れ出したような、どこか恨みがましい声を。
……レイヤのことは、本当に小さな頃から知っている。
しかし、だからといって、その心のうちのすべてを知っているとは限らないし――知ることのできる権利を持っているわけでもない。
それは、実の姉のリリヤだって同じことだ。
「二人だけの秘密ってやつだよ。羨ましいだろ?」
口の前に人差し指を立てながらにやりと笑ってやると、リリヤはわかりやすく不機嫌そうな顔をした。
「……むかつくっ!」
「だからやってる」
「さらにむかつく!」
廊下を歩きながら、地味なローキックが何回もふくらはぎに当たった。
枕元で、鬱陶しい電子音が鳴り響いた。
「あー……あー?」
デリックは半分眠ったまま、無意識の動作で端末を手に取る。
画面に表示されていたのは、この世で一番いけすかない名前だった。
「……もしもーし。寝てまーす……」
『起きろっ!!』
耳元で爆発したキンキン声に意識を引っぱたかれた。
デリックはベッドの上で飛び起きる。頭の中でくわんくわんと声が反響していた。
「うっ、うるっせえな!! ただでさえ淑やかさの欠片もねえデカ声が叫ぶな!!」
『静かにしてる場合じゃないのよ! そこからでも見えるでしょう! 外を見なさい、外を!』
「あ?」
デリックは訝しげに眉をひそめる。外?
「なんだってんだよ。流星群見物にしちゃあムードが足りね――ん?」
ブラウニーを耳に当てたまま窓際に向かい、カーテンを引くと、すぐに異常に気がついた。
遠く。
学院の敷地のずっとずっと外――立ち並ぶビルの向こうが、淡く赤色に光っている。
揺らめく光の中から、黒ずんだ煙が立ち上っていた。
「火事……? ――いや、おい、ちょっと待て、あの場所……!」
その方向に、位置に、覚えがあった。
それも当然だ。今日の昼間に、そこに行ったばかりなのだから……!
『そうよ、モーテンソン・クリニック……! レイヤが入院してる病院が大火事なのよ!』
デリックとリリヤが駆けつけたときには、すでに野次馬でいっぱいだった。
人垣の中からは、テロンピロンパシャッとひっきりなしにカメラの音が聞こえてくる。
彼らが端末や精霊を向けた方向を見て、デリックは言葉を失った。
地上12階。エドセトアで一番の大病院が、赤々とした炎に包まれている。
消防隊が水龍まで動員して消火に当たっているが、火勢は弱まる気配がない。まさかこれほどの建物が全焼するとは思えないが、半分くらいはダメになるだろう。
「嘘だろ……? なんてこった……」
「それより、レイヤは!? レイヤは無事なの!?」
レイヤは患者の中では元気なほうだったはずだ。無事だと思いたいが、不安が過ぎるのを止めることはできなかった。
そんなとき、野次馬の会話が耳に入る。
「こりゃひどいなあ」
「中の人は大丈夫なのかな」
「うまく全員避難できたって」
避難できた?
デリックは辺りを見渡す。と、消防隊員に保護されていると思しき集団が目に入った。
「リリヤ! あっちだ!」
「えっ?」
リリヤの手を引っ張り、野次馬を掻き分ける。
ようやくの思いで人垣を抜ければ、患者衣やナース服が目に入った。病院から避難した人々だ。
「レイヤ! いるか!?」
「――あっ。義兄さん! 姉さん!」
すぐに答えがあった。
地面には、病状が悪化したのか煙でも吸い込んだのか、具合の悪そうな患者が何人も寝かされている。そのうちの一人の傍にしゃがみ込んでいた少女が、立ち上がって振り返った。
レイヤだ。患者衣のままだが、汚れひとつない。
「ああ……! レイヤ、レイヤ! よかった……!」
へなりと、リリヤがその場にへたれ込む。
はあああああ……と、デリックも腰に手を当てながら大きく溜め息をついた。
「勘弁してくれよ……。1日に2回もいらねえよ、こんなのは……」
「ご心配おかけしちゃいました……。でも今回はわたしに非はないので、許してくださいね?」
レイヤは冗談めかしてくすりと笑う。これ以上心配させまいと気遣ってくれているのだろう。本当に気遣うべきはこちらだというのに。
「擦り傷ひとつしてませんから、安心してください。今は、煙を吸ってしまった人の看病を手伝っていました。わたしも一応、エルフィア人の端くれとして多少は医学の心得がありますから……」
「もう! あなたは人のことばっかりなんだから……! いったい誰に似たのかしら」
「それはもう……」
「そりゃお前……」
デリックとレイヤは黙ってリリヤの顔を見た。
リリヤはぱちくりと目を瞬いて、口元を綻ばせる。
「え、え? なになに? 私がよく気のつく女性の理想みたいな存在だからレイヤもそれに似たってこと? ああなるほどね、知ってた!」
「……生まれたときからこんな反面教師がいりゃあ、いい子に育ちもするよなあ」
「ですね」
「えっ、馬鹿にされてるの!?」
くすくすくす、とレイヤが控えめに肩を揺らした。
それに釣られて口元を緩めながら、デリックはそっと彼女の白い頬に手を寄せる。
「……とにかく、無事でよかった、マジで……。お前がいなくなったりしたら、オレもこいつも、結構リアルに生きていけなくなるんだからな」
デリックも、リリヤも、前世では何もかもを失った。
何も得られなかった。
何も成せなかった。
ただただ無為と無駄ばかりで最期を迎えた。
そんな二人が、転生し、身体を変え、1000年もの時の果てにようやく手に入れた家族。……それがレイヤなのだ。
レイヤはドキリとするほど綺麗な微笑を湛えると、デリックの手に自分の両手を添える。
「わかってますよ、義兄さん。……姉さんが何かしでかして婚約破棄になったら、わたしが義兄さんのお嫁さんにならないといけませんからね?」
「楽しみだな。マジで」
「いい加減ぶん殴るわよあんたたち!」
――それから、消火活動は夜通し行われた。
死傷者は奇跡的にゼロ。
……しかし、出火原因はついぞ判明しなかった。
※※※
忘れ物をした。
それに気付いたときには、すでにとっぷりと日が暮れていた。
いやだなあ、と思ったけれど、気付かなかった振りをするわけにはいかない。少年は寮を抜け出し、自分の教室がある校舎に向かった。
人気のない校舎を、少年はひたひたと歩く……。
完全下校時刻はとっくに過ぎていて、どの教室も真っ黒な闇に満たされていた。
目的の教室に着く。
他の教室と同じく明かりはなく、完全に真っ暗。
なのに……どうしたことだろう。
びちゃびちゃ、というか。
ぐちゃぐちゃ、というか。
雨上がりに踏む泥のような、水気のある音が中から聞こえてくるのだ。
誰か……いるのだろうか?
こんな夜中に……? 明かりもつけず……?
少年はごくりと息を呑む。
深くは、考えなかった。いいや、考えられなかったというほうが正しい。
冷静に考えてしまえば……思考を進めてしまえば……望まない答えが待っていることは、わかりきっていたから。
思考という恐怖から逃げるため……少年は、ゆっくりと戸を開く。
――パチリ。
明かりをつけた。
そして……ほっ、と息をつく。
明るくなった教室には、誰もいなかった。
どうやらさっきの音は聞き間違いだったらしい。
早いところ忘れ物を取って帰ろう。
そう、机の中に入れっぱなしのノートを――
教室に足を踏み入れた瞬間、おや? と少年は思った。
何がおかしかったかって?
匂い。……そう、匂いだ。
おかしな匂いがする。
普段の教室からは漂うはずもない、鉄臭い匂いが。
「…………あ」
気付かなければよかった、と少年は後悔する。
その余裕があったのは、脳が一瞬、その光景を認識することを拒んだからだ。
黒板である。
横幅3メートルの黒板。……そのはずだった。
しかし少年には、咄嗟にそうであるとは感じられなかった。
脳裏に思い起こされたのは、経典の1シーンを描いた横長の絵画だった。
ただし、それは絵画ではなかった。
絵画にしては色彩が乏しすぎたし……飾りのように打ちつけられたそれは、絵画の装飾にしては生々しすぎる。
黒板の中心に、アイスピックで磔にされているのは、1羽の鶏。
その血液を使って、黒板に大書されていたのは、シンプルな一文。
今もって乾かず滴り、その血文字は語っていた。
――『次はキミだよ、マーディー』。
バタン! と一斉に戸が閉まる。
それを最後に、マーディーの意識も深い闇に閉ざされた……。
※※※
「――ってことがあって、朝まで教室で寝てたんですよぉ~」
「いや、お前生きてんのかよ」
デリックは電飾の配線を確認しながら、マーディーに突っ込みを入れた。
「死ぬか行方不明になるかするだろ、今の話の流れなら」
「そんなんなってたらこうして展示準備の手伝いなんかできてませんよぅ!」
「まあそりゃそうだが」
今日のエドセトア魔術学院は喧噪に包まれていた。
校舎と言わず校庭と言わず、あらゆる場所で生徒たちが何かを組み立てたり飾りつけたりがやがや騒いだりしている。
今年の創立記念祭が近付いているのだ。
いわゆる学園祭に当たる創立記念祭では、各研究室が自分たちの研究テーマを活かした展示物を発表するのが通例である。
デリックやマーディーが所属する第一機械魔術研究室では、デリックの研究テーマでもある雷動式人型ロボットの展示をすることになっていた。
全長5メートルもの鉄の巨人に手を振らせたりするのだ。ついでにイルミネーションで飾りつけて、後夜祭での注目を独占してやろうという狙いだった。
「他にも同じような目に遭ったって人がいるんですよーっ!」
手を止めないまま、マーディーは怪談じみた与太話を続行する。
「風もないのに積まれた木材が倒れたとか、靴の中に髪の毛が入ってたとか……」
「微妙なエピソードばっかだな。どれも悪戯レベルじゃん」
「でも、変ですよぉ……。朝、目を覚ましたときには、血文字も鶏の死体もなくなってたし……。お化けの仕業なんじゃって噂もあるし……」
「アホか」
デリックは嘆息して、配線を繋ぎ終えた。
「お化けなんざ人間から漏れ出した魔力が吹き溜まって、偶発的に霊子と交感しちまっただけの自然現象だろうが。要するに霊子事故の一種、野良の精霊だ。墓地なんかにはたまにいるし、まさにここみたいな魔術師が大量にいる場所にも発生しやすい。ビビるなよ、マーディー」
「び、ビビってないッスよ!」
マーディーは気丈に強がるものの、その瞳の揺れまでは隠しきれない。
こういう顔をするとますます女の子っぽく見えるな、とデリックは脳天気に思った。
「それよか、リリヤんところは何やるんだ?」
話題を変えながら、デリックは校庭の隣にある体育館を見やる。
あの中は丸ごと、リリヤの所属する第一精霊魔術研究室が使用する予定だ。
マーディーは少しだけむくれたようにしながら、
「去年と同じですよー。ダンスホール型の人工霊子空間です」
「ああ、あのクソ非効率なVRな。あの派手さは創立祭向きじゃああるが……。
――よし、プランはこうだ」
「へ?」
「あいつはどうせ、勿体ぶって終盤に登場するだろ? そこに満を持してこの雷動式人型ロボットで乱入」
「流れるように嫌がらせの計画を立てましたねー」
「バーカ。嫌がらせじゃねえって。その後、ロボットの上からタキシードを着たオレが華麗に舞い降りるんだよ。高級車で彼女を迎えに行くのと何が違う?」
「確かに! それならリリヤさんもメロメロですよっ!」
「だろー? まあ、まだこいつには自立歩行できるほどの動作性はないんだけどな――」
二人は会話に夢中になって、展示ロボットから目を離していた。
まるで、その隙を見計らっていたかのように。
――ズシン! と震動があった。
「おっ!?」
「わあっ!?」
二人はビクリと肩を跳ねさせて振り返る。
ロボットは、台座の上で直立させていたはずだ。
しかし、今、鉄の塊でできたその足は、台座の外に一歩だけ踏み出していた。
「は……はあ? う、動いた……?」
「ま、まだ電気通してないですよねぇ!? っていうか、立って歩けるほどの動作性はないってさっき……!」
「ま、ま、ま、待て、落ち着け。き、機魔研たる者、ここは落ち着いて科学的態度で――」
「……デリックさん、ビビってません?」
「び、ビビってねえし!」
反射的に反論した直後、ん? と違和感を覚えて、デリックはひとりでに動いたロボットを見上げる。
(……霊子に魔力の残滓が……?)
※※※
驚くデリックたちを見下ろして、くすくすと笑う影があった。
それはデートにでも行くような軽い足取りで、静かな教室から賑やかな廊下に出る。
製作途中の看板や演劇の衣装を着た生徒たちの間を抜けながら、心の奥の声を聞いた。
――さあ、次は何をする?
我慢しないで。気兼ねしないで。
自由気ままに遊びましょう――