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 翌朝。


「駄目に決まっているだろう!」


 僕が『パンドラの契約者』の作画を降りると告げたら、常盤さんは大声でそう否定した。

 あまりの大声で、僕は耳がキーンとなったし、自分の部屋にいた花梨が心配して僕たちを見に来た。

 そんな花梨に常盤さんは問いかけた。


「花梨ちゃん! 君のお父さんが、突然、訳のわからないことを言い出したんだけど、一体どうしたんだ⁉︎ もしかして、酔っ払っているのか? そんなに酒が好きなのか⁉︎」

「……いえ。お父さん、お酒飲まないですし……」

「じゃあ、アレか! 危ない薬に手を出したのか⁉︎ 瀬戸さん! あんた、こんなに可愛い娘がいるのに、何てことを⁉︎」

「違います。いたって正気です」


 人を勝手に麻薬中毒者にしないで欲しい。

 

「じゃあ、一体、何があったら、作画を降りるなんて話になるんだ!」


 むしろ、常盤さんの方が、麻薬中毒者の様な取り乱し様だ。

 正直、嬉しいと思う。常盤さんは、まだ僕を見限ってはいないのだ。

 同時に、後ろめたさもある。僕が絵が描けないことを、今になるまで、伝えていないからだ。

 だから僕は、今から伝えなければならない。


「それは、僕には才能がないからです」


 僕は静かに切り出した。

 今、現在、スランプに陥っていること。仮に回復したところで、常盤さんの要求するクォリティーを満たすのに何年かかるか見当もつかないこと。完成するまで、うちの家計が到底持たないこと。だから、潔く漫画家を止めて、新たに職を探すこと。

 昨日、花梨に伝えたことを、そのまま常盤さんに伝えた。

 常盤さんは最初は興奮していたが、今は静かに聞いてくれている。


「という訳で、これ以上『パンドラの契約者』の作画を続けることが出来ません。……折角、声をかけて頂いたのに、すいません」

 

 僕が謝罪で締めくくると、場に沈黙が落ちた。

 それから30秒、誰も何も言わなかった。

 僕は語り終えたし、花梨は口を出す場面じゃない。

 そして、常盤さんは沈黙したままだ。何を考えているのかはわからない。


(どんな罵倒だって、受け入れよう)


 僕はそう覚悟を決めた。

 そして…………常盤さんが口を開いた。


「瀬戸さんの事情は理解した」

「はい」

「なら、私が原稿が完成するまで瀬戸さんを援助すれば、何の問題もないな」

「はい?」


 変な声がでたよ。常盤さんの言っていることが理解できなかったんだ。

 まるで、結婚式でーー御愁傷です。なんて言われてぐらいには、話が通じてない。

 だというのに、常盤さんは全てが解決したかの様なホッとした笑顔を浮かべていた。


「全く、びっくりさせないでくれよ。思わず寿命が縮まったじゃないか。……それで昨日の話なんだが、黒矢たちの街に行くのは何時にする?」

「ちょ、ちょっと待って下さい!」


 僕は常盤さんの話を遮った。いやだって、まだ、なんにも解決していないのだ。なんで、僕の話をサラッと流そうとしているんだ、この人は?


「なんだい?」

「僕の話を聞いていなかったんですか⁉︎ 僕は今、絵が描けないんです! 仮に描けるようになったとしても、完成するまで何年かかるかわからない! いや、才能がない僕には、永遠に完成させられないかもしれないんです!」

「聞いていたとも? だから完成するまで、私が援助するという話だろう?」


 なんてことだ! 僕も常盤さんも日本語を話しているのに、本当に噛み合わない!


「自分が何を言っているか分かっているんですか? 僕たちの生活費だけじゃない。花梨の学費だって必要なんですよ」

「当たり前だろう? もちろん、支払うとも…………ああ、ちょっと待ってくれ。赤の他人の私が花梨ちゃんの進路に口を出す気はないんだが、流石に私立の大学は厳しいかな……私の遊び金でまかなえなくなる。だから、進学するなら公立にしてくれると助かる」

「…………」


 本気かよ? そう思った。

 正気かよ? そう言い換えてもいいかもしれない。

 僕は高校の学費のことを言ったんだけど、常盤さんは進学の事まで考えている。つまり、そこまでの生活も面倒見る気なのだろう。

 常盤さんが冗談を言っている様には聞こえない。

 でも、この申し出を楽観的に受け入れる気には到底なれない。


「無理ですよ。さっき常盤さんが口にした通り、僕たちは赤の他人ですよ? そんなに軽々しく受けられる援助じゃありませんよ、それは」

「それはそうだが……援助しなければ、遠からず貯蓄が尽きて絵に集中出来なくなるのだろう? なら仕方がないじゃないか?」


 理屈はそうだか、そうじゃない。

 僕は叫ぶ様に言った。


「どれだけ援助されても、才能がない僕は、完成させられないかもしれないんです!」


 対する常盤さんは静かにーーでもはっきりと返してきた。

「待つよ」と。


「いくらでも待つ。瀬戸さんが再び絵を描ける日を。いつか最高の一話を見せるくれる日を、私は何年だって待って見せる」

「…………」


 僕はその言葉の強さに絶句した。

 僕が言葉を失っている間にも、常盤さんの話は続いた。


「今回のスランプにしても、私はさほど悪いことではないと思っているんだ。絵が描けなくなるほど思い悩むぐらいに、真剣に取り組んでいるということだからね。陳腐な言い草かもしれないが、今日の苦しみが、明日の成功の肥料になるかもしれない」


 常盤さんはどこまでも前向きだった。でも、僕には理解できない。


「なんで、そこまで僕にこだるんですか? そんなことするぐらいなら、他の人に頼んだ方が、よっぽど簡単じゃないですか⁉︎」

「他の人? ……え? 他の人?」

「そうですよ! 僕より才能がある人に頼めばいいじゃないですか⁉︎ そっちの方がよっぽど良い作品が早く完成するじゃないですか⁉︎」


 最後の言葉を僕は叫ぶ様に言った。

 そんな僕の言葉に対して常盤さんは、


「他の人……他の人ね……」


 と、他の人、という言葉を何度も繰り返した。

 そして、


「瀬戸さん。貴方には、私の考えをもっと早く伝えておくべきだった」


 そう呟きながら椅子から立ち上がると、拳を握り締めながら、強く言った。


「瀬戸さん……私は、『パンドラの契約者』という物語を愛している」


 一ミリの冗談も感じさせない真剣な表情だった。

 更に、


「黒矢の生き様も、葵ちゃんの強さも、パンドラちゃんの気紛れも、紫歌ちゃんの微笑も、その全てが好きで好きで仕方ない。……実はね、『パンドラの契約者』を漫画にしようと思い付く前に、別の方法を検討していたんだ。ーーそれは、轟先生にお金を支払って続きを書いてもらう、という方法だ。百万か二百万か……一体、幾らぐらいのお金が、必要なのかはわからないが、でも、わざわざ漫画を描いて、人気が出たら続きをお願いする。なんて方法より、よっぽど手っ取り早く続きが見れるだろう? ーーでも、私はその考えをすぐに捨てた。そんな方法は嫌だった。何故だかわかるかい?」

「……いえ」


 僕は首を横に振った。常盤さんの考えなんて見当もつかない。

 答えはすぐに語られた。


「その方法だと、続きを見ることが出来る人間が私だけだからだ。そんなことは嫌だった。絶対に嫌なんだ。ーーなあ瀬戸さん。私は『パンドラの契約者』が打ち切られたことが納得出来ない……いや本当に、心底納得出来ないんだ! この話は、もっと大勢の人に! 一人でも多くの人に見られるべき作品なんだ! だから、漫画なんだ! 漫画にして、もっと大勢の人に見てもらって、評価されて、それでいつかアニメになって、映画にすらなって、この『パンドラの契約者』という物語を日本中の人に知ってもらいたい! ーーそう思う私の気持ちは、きっと愛だ! 紛れもない、愛なんだ!」


 愛という言葉で締めくくった常盤さんの表情は、どこまでも真剣だった。

 少なくとも僕はこれ以上、人が必死になって訴える姿を知らない。

 そんな常盤さんを見て、僕はなんでなんだろう? そう思った。

 なんでなんだろう?

 なんでこの人はいい歳して、こうも平然と夢を語れるのだろうか? 漫画を愛しているなんて、平気で言えるのか? 性格がアレだから? それとも成功者だから? 才能があるから?

 そして、僕はなんでこんなにも、羨ましいなんて気持ちになるんだろうか?


(こんな変な人のことを羨ましい? 羨ましいだって?)


 僕はとっさに羨ましいという気持ちを否定しようとしたが、その事がむしろ僕の内心をハッキリさせた。

 ああ、そうだ。僕は羨ましいんだ。歳も考えずに夢を追いかけることも。漫画にそこまで思いを注ぎ込めることも。諦めない、前向きな性根も。そして、その才能も。僕が持ち得ない物を持っている常盤さんが羨ましくてしょうがない。

 潔く漫画家を諦めたなんて嘘だ。仕方なく、本当は未練たらたらなのに、潔いフリをしていただけだ。

 でも、絵の描けない僕が、今更そんなことを自覚した所で、何の得があるというのか? 常盤さんは、援助すると言ったが、僕みたいな才能がないやつが足掻いたってなんにも……。

 と、僕が自分で自分を否定しているのに、常盤さんは


「そして、その作画は、瀬戸さん! あなただ!」


 と、一切の迷いなく、僕にそう告げた。

 それに僕の身体はビクッと震えた。


「他の誰かじゃなく、あなたなんだ! 何年も前から! あなたの描いた絵を初めて見た日からずっとそう思っていたんだ! 他の誰か、なんて興味すらないよ、私は!」

「…………」


 熱く語る常盤さんに僕は動揺した。僕の中で終わった筈の思いが、強く揺さぶられている。


(でも、無理だって)


 慌てて、静めようとする僕だったが、常盤さんは僕の内心など知らぬ存ぜぬで引きずり戻そうとする。

 

「なあ、瀬戸さん! あなたは漫画家だろう⁉︎ これまで、ずっと漫画家だったんだろう? それは漫画が好きで、夢があったからじゃないのか⁉︎ ……前にも言ったけどね、私は好きでサラリーマンやっていた訳じゃない。食うために仕方なく会社に勤めていたんだ。別に他の会社と比べて特別、悪い会社でもなかったが……でも、まあ、私の本音はこんなもんだ。だけど、あなたは違うだろう⁉︎ 漫画家は! 漫画家は! 自ら望んだ奴だけが進む仕事なんだから! 」


(やめろ……やめてくれ!)


 僕は気付けば叫んでいた。叫ばずにはいられなかった。


「でも仕方がないじゃないですか⁉︎ 漫画の世界は実力が全てで、好きなだけじゃ、夢だけじゃ食っていけないんですよ! 僕みたいな、才能がない奴の居場所なんてないんですよ!」


 そんな僕のみっともない泣き言は、更に倍の勢いで言い返された。


「また、それか⁉︎ 才能がない才能がないって、何、寝ぼけた事を言っているのだ⁉︎ 貴方に才能がない訳がないだろう! いいかい? 才能がないってのは、クソみたいな絵しか描けない私の様な人間の事を指すのだ! ーー瀬戸さん。貴方が最初に描いた黒矢たちのキャラデザは、ダイヤモンドより輝いていただろうが!」

「え?」


 あんまりにも意外な事を言われて、それまでの自己否定も不満も憤りも忘れて僕はポカンとした。

 僕の絵が輝いている? 何を言っているのだろう、この人は?

 僕は麻痺した頭で、問いかけた。


「僕の絵は偽物ではなかったんですか?」

「一話はそうだな。まだ足りない。でも、最初に見た瀬戸さんの絵は輝きまくっていたよ。ああいうのが欲しいんだよ、私は!」


 その、あっさりと返されたセリフは、今まで生きてきた中で一番、理不尽に思えた。

 だって、違いがさっぱり分からないから。どっちも真面目に描いたのに、前者と後者は違うらしい。いったい何が違うのか? と、作者は言いたい。

 そもそも、一枚のイラストと、ストーリーのある漫画は、全然、別物だ。いいイラストを描いたからって、それがいい漫画を描ける事とイコールじゃないんだ。

 ーーなのに、嬉しい。そう思う自分がいる。

 絵が輝いていると言われて、認められていて、嬉しい。そう思う自分がいる。

 もうちょっと頑張れば、もしかしたら、何とかなるかもしれない、そう思う自分が生まれてしまった。

 本当に理不尽だ。常盤一という男は理不尽の塊だ。

 その理不尽な男は、更に理不尽な事を言った。


「なあ、あんな絵を描く人間が、漫画を描かずしてどうするというのだ。言っておくが瀬戸さん、私はどんな手を使ってでも、貴方が漫画家を止めることを止めるぞ。もし仮に、貴方がこれから就職が決まったとしても、私はその就職先に、いかに貴方が漫画は描くべき人間であるかを伝えて就職を取り消してもらうようお願いする」

「そんな無茶な⁉︎」

「無茶なものか! 例えばサッカーの日本代表が、突如、お笑いに目覚め、サッカーを止めてお笑い芸人になると言いだしたら、周囲の人間はぶん殴ってでも、そいつを止めるだろう! それと同じだ! 貴方が漫画家を止めるというなら、ぶん殴ってでも、半殺しにしてでも止めるのが私の役目だ! という訳だから瀬戸さん。 私を犯罪者にしないでくれ」


 勝手な事言わないでくれ! そう言おうとして、言えなかった。

 理不尽で、身勝手で、それでも、必要とされてるから。


「なあ、瀬戸さん。もう一度考え直して欲しい。貴方は漫画を描く人だし、きっと貴方の夢も漫画の中にあるはずだから」


 言いたい事を言いたい放題に言いきった常盤さんは、椅子に座った。

 そして、僕の返事を待っている。

 それに対して、


「僕は」


 何かを言おうとして、何も言えなかった。

 進むべきなのか、それとも諦めるべきなのか? いろんなことが渦巻いて答えを出せない。


「僕は」


 進みたいとは思う。もう一度、挑戦したいと強く思う。

 でも、怖いんだ。また、駄目だと否定されることが、がっかりされることが、たまらなく怖い。


「僕は…………」


 そんな風に、僕がどうしても進めないでいると、隣に座っていた花梨が口を開いた。


「常盤さんは、漫画を愛しているとか、夢がどうとか、そんな事言って恥ずかしくないんですか?」


(ちょ、花梨⁉︎)

(確かに僕もそう思ったけど、ええ? えええっ⁉︎)


 と、いきなりの爆弾質問に僕はびっくりした。

 そして、そんな花梨の質問に常盤さんは、


「恥ずかしいに決まっているだろう」


 と、正直、意外に思える答えを返した。常盤さんはそんなこと気にもとめない人間だと思っていた。

 そして、それは花梨も同様だったみたいで驚きの表情で問い返した。


「え? 恥ずかしいんですか⁉︎」

「当たり前だろう。こういう考えは自分の胸の中に閉まっておけばいいんだ。それを、外に出したら、ただの痛いおっさんだろう、私は」

「ですよね……じゃあ、なんで外に出したんですか?」

「決まっているだろう。愛していると心の中で思っているだけじゃ何も変わらないからだ。言葉にして、行動しなければ、何も変わらないからだ。私は『パンドラの契約者』を愛している。君のお父さんが描いた漫画を見たくて仕方がない。だから、私は恥ずかしかろうとも、やる!」

「そうですね……その通りですね……」


 このおかしな39歳独身の言葉がどう作用したのか?

 何やら、納得したように頷いた花梨は、すくっと椅子から立ち上がった。

 そして唐突に、宣誓するかのように大きな声で話し始めた。


「私は、お父さんのことが大好きです!」


(か、花梨? 一体なにを?)


 いきなりの告白に、僕どころか常盤さんまで目を白黒させている。そんな、おっさん二人の戸惑いを置き去りにして花梨の告白は続いた。


「いつだって優しい、お父さんのことが大好きです! 男手一つで私を育ててくれた、頑張り屋なお父さんのことが大好きです! ちょっぴり頼りない所や、情けない所も、まとめて全部大好きです!」

「だから私は、お父さんに漫画を描いて欲しい! 漫画を描いて! コミックが出て! アニメにもなって! それで映画になんかもなっちゃったりして! それでそれで、みんなにお父さんのことを話たいです! 私のお父さんは漫画家なんだよって! 私のお父さんは凄いお話を作る人なんだよって、そう自慢したい! だって私は、お父さんのことが大好きだから!」


 そして、花梨は僕の方に顔を向けた。


「ねえ、お父さん……今のままだと、私、友達にお父さんのこと話せないよ……私のお父さん、エッチな漫画描いてますとか言えないもん。……だからさ、私のワガママかもしれないけど、やっぱりお父さんには、『パンドラの契約者』を描いて欲しい」


 そう僕にはにかんだ花梨は、とびきり可愛い笑顔だったけど、でも耳まで真っ赤だった。

 心底、恥ずかしいと感じている事が一目で分かった。

 そりゃそうだ。年頃の女の子が、こんな事言って恥ずかしくないわけがない。

 そんな花梨の告白を聞いて常盤さんが爆笑した。花梨を嘲笑うような笑い方ではなく、愉快で愉快で仕方がないかのような笑い方だ。


「あはははは! 瀬戸さん! あなたの娘は頭がいいな! 今、必要な事が分かってる!」


 その言葉は、すとんと僕の胸の内に入ってきた。

 うん。その通りだ。花梨は、僕なんかより、よっぽど頭がいいんだ。

 そして僕なんかより、よっぽど勇気がある。

 ーーなんでなんだろう?

 なんで、こんな僕のことを必死に引き止める人間が二人もいるのか、本当に不思議でならない。

 でも思う。この期待に応えたいと、心の底からそう思う。その為にだったら命を賭けてもいいとすら思ってしまった。

 常盤さんが、からかうような表情を浮かべていた。


「それで? どうするのかな、売れない漫画家は? まだ、才能がないとか言うのかな?」

「……言えないですよね、そんなこと」


 そう返しながら、僕もまた椅子から立ち上がった。

 そして、


「うわああああああああああああああああああああっ!」


 僕は叫んだ。腹の底から声をあげた。今まで覚えがないぐらいの、出せる限りの大声をあげた。

 叫んだ理由は自分でもよく説明できない。でも叫ばずにはいられなかった。叫ぶことで、何かを変えたかった。僕の中にあるわだかまりを、全て出し切りたかったんだ。

 肺の中の酸素を全て吐き出すように叫んだ僕は、呼吸を整えると、常盤さんと向き合った。


「僕には、父親として、漫画家として、叶えたい夢が二つあるんです」


 そう前置きして、自分の本心を晒す覚悟を決めた。


「一つは、花梨に自由な進路を用意してやりたい。漫画家として成功して、お金を稼いで、花梨が好きな道を歩けるようにしてやりたい」

「お父さん……」


 隣の花梨の呟きに、居た堪れない気持ちになった。当の本人のいる前でこんなことを言うのは、なんて恥ずかしいことだろう。常盤さんや花梨もこんな気持ちだったのだろうか?


「そして、漫画家としても夢があるんです」


 と、そこで僕は少し躊躇した。今から告げる言葉が、自分にはあまりにも不釣り合いだと思っていたから。僕ごときが何考えてんだってずっと思っていたから。


(でも、変わりたいんだろう?)


 自分で自分を叱咤して、続きを続けた。


「僕は織田先生の海賊物語が大好きなんです。ーーあの漫画に感動して、僕も漫画家になろうと決意したんです。ーーだから、織田先生と肩を並べるような、あの人を超えるような漫画家に僕はなりたいんです」


 言いながら、ポロポロと泣けてきた。

 恥ずかしい。

 本当に、泣く程、恥ずかしい。

 織田先生。日本一の漫画家といえば誰だ? という質問に確実に候補として挙げられる作者。彼の描いた大作、海賊物語は何十年と親しまれて、今なお続いている。

 そんな織田先生に、僕が、ーーうち切りばかりの、ど底辺漫画家の僕なんかが肩を並べたいだなんて、身の程知らずにも程がある。そう思って、ずっと胸の内にしまっていた本音だ。

 たぶん、これを聞いたらみんなが僕を笑うだろう。でも、僕は、仮に世界中から笑われるのだとしても今、夢を語らない訳にはいかなかった。

 そして、そんな身の程知らずの僕の夢を聞いた常盤さんは、ちょっと考え込んだ後、ニヤリと笑った。

 そして、


「いいね、織田先生。『パンドラの契約者』の作画をやるなら、それくらいの漫画家になってくれないと、私が困る」


 そんなセリフを堂々と僕に投げかけてきた。

 僕は、つい笑ってしまった。

 そういえば、あまりにも『パンドラの契約者』とジャンルが違うからか、常盤さんが海賊物語を見本に持って来たことはなかった。

 でも、この漫画大好き常盤さんが海賊物語を知らない筈もなかった。


「常盤さんも好きなんですか? 海賊物語?」

「いや、好きを通り越して、むしろ困ってる。ーー私はあの話が、もういっそ永遠に続けばいいと思うんだ。一方で、早く終わりが見たいという気持ちもあって、自分の中でしょっちゅう喧嘩するんだよ。困ったものだろう?」

「はは。……それは困りますね」

「だろう? ……でも、『パンドラの契約者』もそんなふうに、読書を困らせる様な作品になって欲しい」

「出来ますかね、僕に?」

「貴方なら、出来るさ」


 全く根拠のない言葉を口にして、再び常盤さん立ち上がった。

 そして、決起会をやろうと言い出した。


「いや、どっかで聞いたんだけどね。ちゃんと結婚式を挙げた方が、挙げない方より離婚率が低いらしいよ。私自身、内に秘めるより外に出した方がいいと思ってる。だから、ちゃんと口にしておこう。何、セリフは私が言うから、おー! と追従してくれればいい」


 ちゃんと結婚式を挙げたのに妻に逃げられた僕には、信ぴょう性ゼロの話だったのだが、それでも否定する気にはなれなかった。いや、可能性があるならなんだってやりたかった。

 花梨が、「私もやります」なんて言うからなおさらだ。


「じゃあ、行くよ。…………素晴らしい漫画を作ろうか!」


 もの凄い勢いだった。それに負けない様な声をあげた。


「「おおーーーっ!!!」」


「日本中の誰もが知ってる様な! 日本中の誰もが魅了される様な漫画を作ろうか!」


「「おおーーーっ!!!」」


 常盤さんの声に負けたら駄目だ。常盤さんはああは言ったけど、僕は僕のことやっぱり才能ないと思ってる。なら、そんな僕がやる気まで負けたら何にもならない。

 僕は、力一杯声をあげた。


「私はどれだけでも待つし、支えて見せる! だから貴方は諦めないでくれ!」


「「おおーーーっ!!!」」


 口だけじゃない。もう絶対に諦めないと心に誓う。


「3巻打ち切りなんて糞みたいな結末を! 売れない漫画家なんて糞みたいな肩書きをひっくりかえそうじゃないかあああ!」


「「おおーーー!!!」」


 ああ、その通りだ。本当にその通りだ。


「行こう! 雲の上まで! 大気圏より更に上! 宇宙の果てまで駆けあがろうかあああっ!」


「「おーっ! おおおおおーーっ!!!」」


 本当に、宇宙の果てまで届けるように叫び声をあげた。

 ……。

 ……。

 決起会を終えた直後、あんまりに大声を出しすぎて、呼吸がマラソン後のように乱れた。僕だけじゃなく常盤さんと花梨もだ。

 しばらくしたら、最初に花梨の呼吸が整ったのは若さだろう。

 おっさん二人は、まだ駄目だった。ゆっくりと呼吸を整えていく。

 それで、とりあえず落ち着いた頃、常盤さんが口を開いた。


「いやー、私もたいがい恥ずかしい人生を送ってきたが、今回は極めつきだな……これが、一生ものの黒歴史になるのか、それとも、大作『パンドラの契約者』の創作秘話になるのかは、瀬戸さん、貴方次第だな」


 そう僕に言って、あっけらかんと笑った。



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