零、プロローグ
「世は移ろい、時は流れる。文化は変化し、時世と共に巡り廻る」
誰もいない静かな夜、とは言えなかった。暗闇の中でも騒がしい雑音が鳴り響いている。人の叫び声、怒鳴り声、笑い声、泣き声…そして、機械音。全てがそこら中に響き渡っている。その場所では特に珍しい事でもないのだが、その夜は特別、全てが大きくこだましていた。
「………………………」
そんな雑音の中、一つの人影が空を見上げていた。
辺りが暗いため、星は煌びやかに、月は儚げに、むしろ妖しく輝いている。
手を伸ばせばすぐにでも届きそうで、人影もまた小さく手を動かした。しかし、すぐにその手を引っ込めてしまい、人影は自分の手を見つめて項垂れた。
まるで自分がふがいないとでも言いたげで、情けないとでも思っているようだった。
その人影は高層ビルの屋上に座り込んでいる。
そこがその人影の落ち着く場所であり、何よりそのビルで一番静かな場所だった。その人影は、まるで全ての音が聞こえないかのように自分の手を見つめる。
指を開け、素早く握った。
尚も月を仰ぎ見て。
何十分と時が過ぎた。それでも人影はじっとその場から離れない。
そんな時、突然屋上の扉が開いた。
人影は特に驚いた様子もなくただ月を眺めている。
「おい、そろそろ収集がかかるぞ」
現れた人物は低い声で人影に呼びかけてみたが、人影はその場に寝転がっただけで何も言い返しては来なかった。
その様子を見た人物は、小さく舌打ちをしてなお続きを言おうとする。
「おい、」
しかし、その声は辺りの雑音でかき消されてしまった。
それほどまでに、今夜は煩い。
小さく嘆息をして、その人物は人影に歩み寄った。その人物もまた、月を見上げる。
「…ここの月も、しばらくは見納めだな」
「 」
人影が初めて男に口を開いた。
しかし、その声もまた、雑音によってかき消される。
丁度、金属がこすれあうような音がしたのだ。
それでも人影の隣にいる人物には聞こえたようで、小さく笑みをうかべていた。
「違いねえ」
「 」
人影が小さい呟きを漏らした直後、突然風が吹いた。
人影の短い白と黒の入り交じった髪がなびき、白髪の部分が月光に照らされ銀色にも見える。人影は乱れた髪を直そうともせず、やはり月を眺めていた。
「…そろそろ、行くか」
人物の言葉に人影は静かに体を起こして、立ち上がった。
握りしめた手で髪をくしゃりとなでつけ微かに口を動かしたが、それは声にならず、本当に動かしただけのようだった。
人影は自分に言い聞かしたかっただけなのだろう。だから、自分の隣にいる人物に聞かそうとは思わなかったのだ。
「行くとするか…」
今度は何にも邪魔されず、人影の声が空に響いた。
それを合図にしたかのように、二人は足を踏み出す。
最後に一度、月を仰いで。