5 重い空気と薄っぺらな心
比較的、重症患者が利用する三名制限の病室に、彼はひとりベッドで横になっていた。
(なんか……重い……)
カーテンまで閉め切った部屋でシューシューと人工呼吸器から流れる音と、ノートパソコンの操作音らしき規則的な電子音だけがやけに耳につく。
失礼しまーす、と軽い声で足を踏み入れていく中村先輩に続いて、俺もぎこちなく微笑を浮かべお辞儀しながら挨拶した。患者の状態を理解していれば、自分の動きなど全く見えていないことは明白だったけれど、染み込んだ癖は思い出すよりも早く、それに気づいて歯噛みする。
(薄っぺらい……何だこの心にもない言動――)
もはやパターン化された、心すらない壊れた機械のようだった。
壊れた機械そのもの、かもしれない。
そんな虚ろな俺には恐らく気づかないまま、中村先輩は彼の右側で足を止め、改めて一礼する。
「おはようございます武沢さん。また、今日からお願いしていいですか? ――ほら」
「あ、はい! おはようございます、えっと、鈴木です。今日、受け持たせてもらっていいですか?」
「また新人なんですけど、いいですか?」
促されて深く頭を下げていたが、沈黙が怖くなり、頭を上げる。
五分刈りの白髪、気管切開した首のつけ根あたりには呼吸器がつながり、接触部に巻かれたガーゼは唾液で湿っている。そして、ノートパソコンからつながる、頬から数ミリに固定された光センサー。
「!」
彼と視線が重なって、心臓が跳ねた。
一瞬、目を細めたように見えたけれど――悪感情であろうことは想像に難くなかった。
誰だってそうだ。
新人になんて見られたくない上に、彼は身体を動かせない。細かな意思表示は困難で。当然、ベテランを望む。
入室時から鳴り止むことのない電子音がこびりついて、一刻も早く立ち去りたい気持ちに襲われる。
(しかも男だし……断られても仕方ないな俺)
パソコンのディスプレイに視線が移り、合わせて俺も顔をディスプレイに向けた。画面に表示された五十音順のひらがなが、一文字ずつ順に色を変えていく。痙攣させるように頬を上下させるのが見え、センサーがそれに反応し、規則的な音に加えて少し高い音が混じる。どうやら色の変わったところでセンサーを作動させると、自分の求める言葉が確定されるようだ。
数十秒かけて二文字を確定させたところで、定型文が表示される。
『よろしくお願いします』
「!」
電子音声がスピーカーから流れ、ビクリ。ディスプレイの光が映る彼の目を見、慌てて頭を下げる。
「あ、ありがとうございます! こちらこそよろしくお願いします!」
「武沢さん、もちろん最初は私がやってみせます。その後フォローしていく形にするので、至らないところがあれば武沢さんもビシっとお願いしますね」
彼の瞳が中村先輩の笑顔を見つめ、ふっと緩んだ。
(……あぁ、信頼されてるんだ)
まだ最初の一度しか武沢さんと目が合っていないことに、中村先輩の笑顔を横目で視認しながら漠然と思う。
「私もビシバシいきますから――ねぇ鈴木くん、勉強してきたよね?」
「え」
「…………」
笑顔をまっすぐ向けられ、思わず目を逸らしてしまった。
いや勉強してないことはないですけどご期待に沿えるかはまた別問題でその……
脳内の言い訳が声になることはなく、口を半開きにし手を半分挙げかけたこちらを窺う目が、極めて冷ややかなものへと変貌する。
「自信なさそうなので、お互い厳しさを三段階くらい上げていきましょうね武沢さん」
「え、ちょっ、あの……」
唯一かろうじて動く彼の目尻が下がり、冗談だと思いたい、と切実に願う。
かくして、今まで以上に波乱の日々が幕を開けた。