3 新人の理想
午後七時、一時間以上のサービス残業は、ステーション奥の休憩室から覗く窓の外を既に暗くしていた。
レポートは適当に仕上げた。
仮に読まれ、後日罵られようとも、最低限、形にしなければ話にならない。
「終わった……」
休憩室に続くドアノブを回しつつ、今度こそ完全に呆け、死にかけの魚の口からぼそりとこぼれ、気配に目線を上げる。
コーヒー片手にブレークタイム中の中村先輩。
ちょっとしたお菓子やインスタント飲料などで雑然としたテーブルには、束になったプリント。
(受け持ち患者の数が少ないのに、先輩のが早く仕事終わってるんだよな……)
「お疲れ様、鈴木くん」
「お、お疲れ様です中村先輩! すいません仕事遅くて! ……失敗も諸々」
「そんなもんだよ新人なんて」
バッサリ。
当然、戦力と見なされていない。足枷になることを見込んで仕事をしているということだ。
監督責任があり、仕事を残している新人を置いて帰ることができないのが先輩。
「いきなり受け持ち増やしたりしないけど、独り立ちしたら少なくとも十人以上を看ることになるんだから、覚悟しときな」
「いやー、ですよねー……」
「ま、私は研究があるし、家に持って帰りたくないしだし、ちょうどいい」
(何でこの人こんな無駄にカッコいいんだろう……あ、そうか)
毎度歯切れよく軽快に受け答えしてくる中村先輩を尊敬せずにはいられず。
テーブルのプリントの束が研究の一端であることに気づく。どんな研究なのか――問おうと口を開けたところで先手を打たれた。
「明日――」
「?」
「入職してから一番しんどい思いをするだろう」
「……えっと」
「君が明日受け持つのはたった一人、タケザワアキト――脳疾患の患者さんだ」
「え、ひとりだけ?」
「詳しいことは、ステーションで記録を読んで帰るといい。私はこれで帰らせてもらうよ、じゃあね」
俺に伝えたいことは全て伝えたのだろう。
中村先輩はコーヒーを飲み切ると、あまり女性らしさの感じられない黒一色のビジネスバッグにプリントを突っ込み、おもむろに立ち上がった。
脊髄反射で半歩下がり、足を揃え会釈した俺の横を抜けた彼女は。
「鈴木くんは、どんな看護師になりたい?」
ドアノブに手をかけ、振り向かずにそう問いかけた。
不意討ちのクエスチョンに、俺の呼吸は、確かに一瞬止まった。そして答えられず――
数秒後、ふっと小さな背中が笑った。
と、思う。
「今は分からなくてもいいよ。どうせいつか、近いうちに、嫌でも『そこ』を目指すことになる」
「…………」
「長々と悪かったね。お疲れ様、また明日」
「――あ、お、お疲れ様でした!」
バタン――
訪れた空白が、襲ってくる。
この時間帯はまだ、夜勤者がせわしなく業務に勤しんでいるはずなのに。
(俺は、どんな、看護師に……)
うつむいた顔を上げることもできないまま――
「ん?」
視界の隅に点滅する光。
先ほど中村先輩がプリントを置いていたちょうど下あたりで、スマホではない水色の携帯が光っている。ご丁寧に「中村」と書かれたシールが貼られて。
「ちょっ、先輩! 中村先輩!」
叫ぶが早いか、携帯を握り走り出すが早いか。
とにかく全力で追いかけて手渡したのち、息を切らしながらステーションに戻る。
(中村先輩は、仕事離れると魂抜けてるよなぁ……)
「何だこのギャップ萌え」
これからまたサービス残業をするのに、楽しむ要素を見つけようと引っ張り出してみたが、もうとっくに疲れ果てている。同期も帰宅済み。
ふと時計を見やると、気づけば患者さんの食事下膳も終わり、そろそろスタッフの食事休憩の時間だ。
「タケザワ、タケザワアキトさん……んー……ん!? 何だこの名前めっちゃカッコいいな!」
見つけた背表紙の名前に、小声で興奮する。無理矢理にでも気分を高めないとキツイ。
暁に飛ぶと書いて武沢暁飛――平凡な自分の名前とは大違いだった。
「いいなぁ、俺なんかなぁ……羨まし――」
ステーションの隅の椅子に腰かけつつ表紙をめくり、目に入った病名に、ため息をつきかけた自分の全てが凍る。
有名な難病だ。
発症後、三年から五年で亡くなる人が多いと聞いたことがある。
入職してから一番しんどい思いをするだろう――
ひとりだけ、ではない。
もちろん中村先輩のヘルプはあるだろうが、役立たずの新人に任せるのは、あまりにリスクが高すぎる。
だからといって、他の経験を積めばいいという話でもないが。
一ページ一ページ、慎重にめくる指が冷えていく。呼吸は浅く、心音だけがやけに体内で響く。
「…………」
数十分かけ看護記録を読み、帰路に着いた。