1 いつものこと
午前八時。
朝からナースステーション内はバタバタと音が途切れることがない。
スタッフの声、医療機器の動作音、ナースコール音、記録を書くためにボールペンを走らせる音。
「あー、超めんどくさいよね、あの人」
「私ら家政婦じゃないっつーの」
「もう昨日はキレちゃって無視しちゃったわ」
「気難しいからね、あの人」
「ナースコール取りたくない、あの人のところ行ったら十分以上取られるの確実だもん」
「確かに。掛け布団ほんのちょっとでもズレてたらクレームだしね」
「…………」
学校にいたときからひしひしと感じていたけれど、女性社会は『異質』だ。そこに男がいるというだけで『異常』とも言える。たった一言、声をかけるだけでも一苦労だ。こんな会話が聞こえてくれば、なおさら。
じんわりと額に、手に汗をにじませ、その機会を窺う。下手をすれば手足も震えそうだ。
仕事をしています、ということをアピールし続けることを忘れず、話が途切れる瞬間を見定めて、俺はナースステーション内で問いかける。
「すいません宍戸さん、コレなんですけど……」
「あー早く帰りたい……――って、え、何?」
「あ、いえ、その、ですね……コレはこうするんですよね?」
そうして俺は、大抵失敗する。
あたふたと手を動かしつつ、改めて説明するが、下方のすがめた目を感じ取ってしまっては、見ていなくとも声がかすれる。
「はぁ……『コレ』、前にも聞いたよね? 何で覚えてないの?」
「すいません、すいません!」
「鈴木くん、勉強してないの? 患者もバカだし新人もバカだし、やってらんないわほんと」
「いえ……すいません」
先輩看護師にドスを利かせて言い放たれ、返す言葉もない。
一通り罵声を浴びせられたけれど、一応は教えてもらえたことをメモしながら胸を撫で下ろした。
「ありがとうございました!」
「はいはい」
「ありがとう、ございました……――はぁ……」
ひらひら手を振って、自分の仕事に戻りながら先輩同士の話に花を咲かせる彼女らの顔は見ず。
周りに悟られぬよう大きく息を、ため息にならないよう何度か呼吸をする。
(ダメだ……いや、大丈夫、仕事に集中)
俺も頭を上げて、しかしうつむいたまま業務を再開。
(あー……同期にチラ見されてる。大丈夫かよって顔されてる。自意識過剰かもしれないけど……俺なら「こんな新人と同期は嫌だ」とか思うだろうし)
今日の受け持ち患者の、点滴薬剤の名前や時間などを確認しながら、一人分ずつトレイに分けていくところで視界の端で同期が映り込んでそんな風に思う。
自己評価が低いというか、もはや卑屈なレベルかもしれないが。
「……えっと、伊藤さん、これ一緒に確認してくれない?」
「うちら新人同士だから、まだ確認はダメじゃない? 先輩にやってもらわないと」
「あ……そうですよね! はははは!」
薬剤名や患者名など、最初に自分で分けたときのように看護師二名で声に出してチェックできることに限らず、諸々の行動は独り立ちの栄誉を与えられた者だけに可能となる。
(まぁ、普通の会社もそんなもんだろうけど……)
乾いてかすれた笑みをこぼしながら、別に悪いことをするわけでもないのにプレッシャーを感じていたが、まごついていても仕方ない。
確実に時間通りに行わなければならない業務があるのだ。
「あ、あの!」
「ん?」
ヤケクソ気味に声をかけた後ろ姿が振り返る――運が良かった。思わず息をつく。
(正直、顔見なきゃ見分けがつかないんだよなぁ……大体みんな黒髪で似すぎなんだよ。いや俺に余裕がない、あるいは観察力が足りないだけかも……じゃない、えっと――)
黒髪ショートカットか、ロングをまとめるか――中には栗色が混ざっているが――ほぼ二者択一と言えるだろう。
穏やかな表情からあまり変化を見せないこの先輩は、前者だ。
「中村さん、点滴、一緒に見てもらえませんか?」
「ん、いいよー」
「お願いします!」
薬液のラベルを指差しながら確実に点呼したあと、中村先輩の許可の下に点滴薬剤の混合を開始する。
(地味だけど重要な仕事……ん? もしかして大体地味か?)
三十秒か一分か――どのくらい時間が経過したのか分からないけれど、不意にペシッと後頭部に軽い衝撃が走った。
「――ッ!?」
「鈴木くん、もう五回くらい呼んだんだけど」
「えっ……あ、すいません!」
思わず声が上ずってしまったが、とりあえず素早く振り向いてみる。立ち去ったと思いきや、まだ隣にいた中村先輩は嘆息した。
新人として業務に参加するようになって半月、既に反射的に謝る癖がついている。直せる気がしない。
(話しかけられたとき大体は悪い話だし……)
「ボーッとしてたらミスるよ。心ここにあらずなことが多い気がするけど、大丈夫? ちゃんと眠れてる? 鈴木くん」
「あ……す、いません。えっと、いつも帰って飯食ってる途中でウトウトしちゃうくらいには――」
眠れてます。
と最後まで答えかけて、口をつぐんだ。
今日、初めて中村先輩とぴたり――目が合ったからだ。
「やっとこっち見たね、視野が狭いよ。目の前しか見てないと、色んなものを取りこぼす」
「……はい、すいません、ありがとうございます」
「ん、ちゃんと観察してきなよ、患者さん」
肩をポンと叩かれ瞠目し、声にならない声で返事をする。その遠ざかる背中を眺めながら、息を呑んでいた。
(……頑張ろう、うん)
スタッフの中には、少数だが中村先輩のように優しくも厳しい人もいる。
多分、ここで一番仕事ができるのは中村先輩だろう。実際の動きを見学させてもらったことは数えるほどしかないが、際立っているのが新人の目にも明らかだった。
パッと見は小柄で力もなさそうなのに、動きに無駄がないし、患者対応もそつがない。
(無駄がないとそつがないは意味一緒だっけ? ――ってダメダメ、余計なことを考えてる暇はない。悪い癖だ)
深く息を吸って吐く。
メモ帳に目を通し、今日のスケジュールを確認する。最低限しなければならないことを。
「よし」
そっと閉じたメモ帳をポケットに突っ込んで、必要なものを持って、何かに追われるようにナースステーションを飛び出した。