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12 彼の恋

「おいしい」

 そう言ったきり、巫女姫は泣きに泣いた。はじめは声を我慢していたようだったが、途中からどうにもならなくなったようで、わあわあと声をあげた。

 ネイドは黙って横に座っていた。

 こういう時には、男だったら肩を抱いてやったり胸を貸してやったりするものかもしれないと思いながら、しかしそれは親しくない男にやられて、果たして心安らぐものなのかというと違うのではないか、という考えに辿り着いたのだった。

 何しろ、視線が合えば目をそらされるし、それどころか、ほぼ姿を目に入れてもらえずにうつむかれてしまう。

 ただ、嫌悪の感情は感じられず、どちらかというと怖がられているようだという印象があった。とにかく、話しかけると、びくっ、とされ、返事はおどおどとして、ほとんど会話が成り立たない。

 彼は地味に傷ついていた。自分の何が、それほど巫女姫を怖がらせるのか、と。

 やはりあの時だろうかと、彼は泣いている巫女姫の隣で虚ろな目をして、もう何度反芻したかわからない思い出を辿った。

 二年ほど前の初冬、騎士団宿舎の裏庭の小道で、大きな洗濯籠を抱えて、よろよろと歩いていた女性がいた。それが、今隣にいる巫女姫だった。

 あまりに重そうで、手伝ってやろうと駆け寄ったら、彼女は道をあけてくれようとして、転びそうになった。それを慌てて後ろから抱き留めた。

 腕に触った、ふに、とした感触に、どきりとした。どこもかしこもやわらかくて、どこを支えればいいのか戸惑った。とにかく腕いっぱいにそっと抱きしめて、体を起こしてやった。

 思えば、あの時も、申し訳ありません、と謝られ、うつむかれたのだった。

 だが、一緒に宿舎まで荷物を運んでやった後は、何度も丁寧に礼を言われたし、そんなに悪い雰囲気でもなかったと思う。……というのは、彼だけの思い過ごしだったのだろうと、どんよりとした気分になった。

 実を言えば、ネイドはあれから、幾度となくあの小道で彼女を探した。

 神秘的な夜の女王のような艶やかな黒髪。覗きこみたくなる魅惑的な瞳。思わず目を惹きつけられる熟れた唇。そこから紡がれる声は妙に耳の奥について、どうしても忘れられなかった。

 そして、抱き心地のいい体の感触も。華奢で可憐で、なのに疼きをもたらすあの体を、もう一度抱きしめてみたかった。

 ありていに言えば、ネイドは彼女と会って、浮かれていた。もっとよく彼女を知りたかった。名前は、歳は、結婚しているのか、交際している男はいるのか、好きな男はいるのか……。

 気になってしかたなくて、そのうち小道だけでなく神殿内をくまなく探して歩いた。しかし、彼女を見つけることはできなかった。まるで、夢か幻のようだった。

 だから、二十歳を過ぎても思う女性の一人もできず、親類縁者に会うたびに彼女はまだかと聞かれ、切羽詰まったあげくに、心の隙をつかれて、真昼間から伝説の悪戯妖精に化かされてしまったのかもしれないと、情けない思いで本気で信じかけていたのだった。そうでなければ、感触付きの白昼夢を見るほど頭がおかしくなっているかだ。

 それが突然、巫女姫として彼女が目の前に現れて、ネイドは本腰を入れて妖精に化かされている、と思った。俺はそれほどいいカモだったのか、と。

 しかも、護衛騎士の首輪、いや、首飾りが自分の前に降ってくる。

 きらきらと光り、ピンク色の光跡を引くそれを、化かされているのだとしてもいい、他の男に渡すくらいなら、と掴み取った。

 その結果、知れたのは、どうやら自分は怖がられているらしいということ。つまり、彼が探している間、彼女は避けて回っていたのかもしれないということだった……。

 いったい俺は彼女の怖がる何をやってしまったんだ、と考えに考えてみたが、わからなかった。

 それとも、そもそも男が怖くて神殿にあがったのか、とも考えてみたが、彼以外の男とは、けっこう平気で話している。

 彼の中では、要は自分は巫女姫の苦手なタイプなんだろう、というところに思考が落ち着きつつあった。

 そんなわけで、一時の怒りから覚めた今となっては、迂闊に巫女姫に触れることは躊躇われたのだった。

 いつしか泣き声がやみ、しだいにしゃくりあげるのも間遠になっていった。息を殺してそれに耳を澄ましていたら、そのうち静かになり、そろりと横を向くと、巫女姫はこっくりこっくりと船を漕いでいた。

 どうやってバランスをとっているのかと思うほど体が傾きだしたところで、老庭師のベッドから掛布団を拝借してきて巫女姫を包んで、肩を支え、そうっと横たえてみた。

 巫女姫は目を覚まさなかった。ネイドはちょっとだけ、と顔を覗きこんだ。ずいぶん泣いたせいで、目のまわりも鼻のまわりも真っ赤に腫れぼったくなって、えらいことになっている。でも、あどけない表情が可愛らしくて、思わず眺めいった。

 おいしそうな半開きの唇と、少しだけ見える首筋の白い肌に、いつのまにか目が吸い寄せられていた。そのもう少し下、大きなふくらみの間を、彼の首飾りから伸びる光の線が貫いていて。

 それに気付いたとたん、頭の中も体もカーッとくるような何かに襲われて、ネイドは慌てて立ち上がった。

 さすがに女神の選んだ巫女姫だった。泣きはらした顔ですら魅力的で、くらくらする。

 彼は自分が何かをしでかす前に小屋を出て、扉の前で警護任務につくことにした。


 外は雪がちらちらとしていた。空を見上げ、出会ったのもこんな日だったな、と思いだす。

 彼女を怖がらせるだけの存在にしかなれないのなら、いっそ知らなかった頃に戻りたかった。

 二年間も忘れられなかった。どんな女性を見ても、彼女と見比べていた。黒い髪、深い色の瞳、ふにふにの胸、指で辿ってみたい腰の曲線。彼女以上に惹かれる女性はいなかった。

 これからもきっとそうなのだろう。忘れられずに、彼女に似たものばかり探してしまうに違いない。

 彼女を想う時は、確かに甘く熱い。けれど、叶うことはないと知るほどに、苦しくて辛くなる。

 こんなのが一生続くんだろうか。

「それは嫌だな」

 こぼれた本音は白く吐きだされ、雪の合間に消えていった。

 ネイドは無意識にマントをかき寄せようとして、巫女姫を包んだままだったのを思い出した。寒かった。だが、小屋に戻って巫女姫からマントを引き剥がす勇気はなかった。

 それでも、ここから離れる気もない。胸元の石から伸びる光は、ネイドの胸の中心を通り抜け、背後の小屋の中へと向かっている。

 そこに彼女がいるかぎり、彼はどこへも行こうという気になれないのだった。この光のように繋ぎとめられて、離れられない。

 どれだけ、ぼうっと雪を眺めていたのか。しんしんと雪が音を吞みこむ中、耳が何かの音を拾い、ネイドはあたりを警戒した。

 コツ、コツ、コツ、コツ、と木を叩く音が小屋の中から聞こえた。彼は振り返って扉を見つめた。それは徐々に早くなって近づいてきて、そして、扉が開いた。

 中から暖気が漏れて、ネイドの頬を包みこんだ。マントを胸元に抱えた巫女姫が飛び出してきた。

「ネ、ネイド、様っ」

 びっくりしたように叫んで、彼女は立ち止まった。

「あ、あの、あの、その、……マント、」

 うつむいて、どもって、視線がうろうろして、思いついたようにマントを差し出し、そこで、はっとして、また胸元へ戻した。

「も、申し訳ありませんっ、汚してしまったので、洗ってお返ししますっ」

 そうして、どうしていいのかわからないというように、ぎゅっと彼のマントを抱きしめた。そのまま突っ立っている。

 ……そう。嫌われてはいない。

 ネイドは、じんわりと胸の奥が喜びに震えるのを感じた。

 巫女姫は、まるで大事なもののように、彼のマントを抱きしめている。……それに、もしかしたらだが、彼女はネイドを探しに来たのではないか。

 他に用があるなら、すぐにでもどこかへ行こうとするだろう。それを、ネイドの前で何をするでもなく立っている。

 だとしたら、だんだん早くなった足音も、彼のマントだけを抱えていたことも、ネイドのことだけを考えていてくれたようで、期待はしたくないのに、胸が騒ぐ。

「巫女姫」

 そんな気はなかったのに、いつのまにか呼びかけてしまって、ネイドは内心慌てた。心の声が漏れてしまったのだった。

「は、は、はい!」

 あいかわらず緊張しきりでどもる彼女の様子に、彼の緊張もあおられ、よく考えもせずに、浮かんだ言葉を口にする。

「護衛騎士の私を、敬称を付けて呼ぶ必要はありません」

「え、は、……え、え」

 巫女姫は頷こうとして、戸惑ったように彼を見上げた。

「巫女姫がいてこその護衛です。どうぞ、呼び捨てで」

「え、で、でも、あの、その、」

 じっと見つめると、彼女はおどおどとうつむいて、迷って迷って迷ったあげくに、という感じで、小さな声を発した。

「で、では、あの、騎士ネイド、と」

 騎士位は任命されるものであり、名の前に『騎士』と付けるのは尊称と同意である。巫女姫なりの譲歩なのだろう。

 彼女にも譲れないものがあるらしい。そう気付いて、ネイドは薄く笑んだ。その主張が嬉しかった。

「はい。聖下の御心のままに」

 彼は胸に手をあて、優雅に拝命の礼をした。

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