10 護衛騎士は冷や汗をかく
ネイドは人々の視線を気にした様子もなく、すたすたと廊下を歩いていた。が、人の気配がなくなったのを見計らって、すっと通用通路に入り込んだ。裏方のための通路で、こちらの方が人目につかないからだ。
巫女姫はマントをかぶったまま、じっとしている。中で、ぐすぐす、ひっくひっくと泣いている声が聞こえているから、息はできているのだと判断して、彼はそのままにして先を急いだ。
巫女姫のための部屋に連れていくつもりはなかった。巫女姫が戻っていないとなれば、また大騒ぎになるだろうが、知ったことかと彼は考えていた。
特に、王の無神経さには怒り心頭だった。さんざん自分たちの都合で巫女姫を疲弊させた挙句に、巫女姫自らにあんなことを言わせた。
『私が巫女姫にふさわしくないから』
『申し訳ございません』
思い出して、ネイドは胸がキリキリと痛くなった。それほどに、追い詰められた痛みを含んだ声だった。
巫女姫に自信がないことはわかっていた。選定時には取り乱して泣いていたし、その後も、誰かに何かしてもらうたびに申し訳なさそうにして、いつもおどおどしていた。
側仕えの者たちは、なんとか彼女の気持ちを引き立てようとしていたが、そうすればそうするほど、居心地悪そうに縮こまってしまう。
かくいうネイドも、どうやら一番苦手にされているようで、傍に寄るとうつむいてしまうし、口もろくにきいてもらえないしで、手を出しあぐねていた。
だというのに、国王は、普段の様子も知らないくせに、巫女姫の一大事と聞いて出しゃばってきて、ようやく吐いた巫女姫の本音を、ぐしゃりと踏み潰してしまったのだ。
しかも、物馴れた様子でなれなれしく巫女姫の手を握り、貴女のためだなどと親身そうな態度を装って囁いた。
巫女姫のためでなどあるものか、とネイドは据わった目で怒りをつのらせた。あんなのは、自分の体面を守るために大騒ぎをしているにすぎない。
「汚い手で触りやがって」
思わず口汚く罵って、はっとして口を閉じた。
神殿騎士団は巫女姫、ひいては女神に仕えるものであり、外面については厳しく躾けられる。だが、内実は戦闘を生業とする者たちの集まりであって、上品とはほど遠い。大貴族出身のネイドも、幼い頃から朱に交わり続けているうちに、今ではすっかり騎士団仕様が本性で、実家用の二枚舌を外面用に装備している状態となっていた。
しかし、始終びくびくおどおどしている巫女姫に、本性を出したらよけいに怖がられているのは目に見えている。彼は、巫女姫の前では、理想の神殿騎士を演じるよう心がけていた。なのに、怒りのあまり、その巨大な猫がずりおちてしまったのだ。
今のは聞こえてしまっただろうかと巫女姫をうかがってみたが、マントが邪魔でよくわからない。
まあ、口に出してしまったものは、元に戻せない。聞こえていたとしても、それは気のせいです、で押し通そうと瞬時に決めて、目的の場所へと出た。
裏庭である。曲がりくねった小道を通り、ほどなく小さな小屋へ着いた。巫女姫を片腕で支え、片手をあけてノックする。
返事はなかった。住み込みの老庭師の家で、この時間は仕事中だ。いないのを承知で、ネイドは勝手に開けて中に入った。
小屋は一部屋だけの簡素な造りだった。暖炉とベッドと衣裳箱と様々な物の置かれた棚。
彼は巫女姫を暖炉の前に降ろして、少し後ろにマントを引っ張って、前が見えるようにしてやった。
それから、火かき棒で埋火を熾して薪を足した。しばらくそうして火の様子を見ていたが、しっかり燃え上がると、今度は立っていって、勝手に棚からカップを探しだした。そしてこれもまた勝手に、ワインを注ぐ。水代わりの安物のそれをちょっと口にして、味見と毒見をした。
もう少し棚を見て回り、躊躇った後に干しイチジクも二つ取って、カップの中に落とした。それを持って巫女姫の許に戻り、胸元に縮められている手にカップを押し付けた。
「どうぞ。気分が落ち着きます」
巫女姫はおとなしく受け取った。マントの陰でよくわからないが、じっとカップの中を覗きこんでいるようだ。
ネイドは、人一人分の間をあけて巫女姫の隣に座り、暖炉へと顔を向けて、時々横目で巫女姫を窺いながら、俺は何をやっているんだろうと、不安になっていた。
国王の所業にカッときて、ほとんど衝動的に、巫女姫を掻っ攫って出てきた。
痛々しい姿を見ていられなかった。涙を止めてやりたかった。
そうするにふさわしい場所はと考えた時に、あの豪華な、巫女姫がいつも身を竦ませている部屋では駄目だろうと思った。
自然と浮かんできたのは、老庭師の小屋だった。
まだ神殿に来て間もない頃、先輩見習い騎士にコテンパンにやられて、ふてくされて庭の隅でしゃがんでいた時に、仕事中の庭師に見つかって、招き入れられた部屋。
薄いワインと、硬い干し果物をもらって、浸してくちゃくちゃ食べた。そのうち、ぽつぽつと何があったのか話していた。老庭師は、そんなこともありましょうなあ、と頷いただけだった。
それだけだったが、それから時々、ふらりとここへ来るようになった。彼にとっては、心が一番落ち着く場所だった。
けれど、巫女姫の立場になって考えてみたら、国王に泣かされていたら、いきなり常々怖いと思っている護衛騎士に頭からマントを被されて、つまり目隠しされて、そのままの状態で知らない場所に連れて来られた。しかも得体の知れない飲み物を飲めと押し付けられた。……となるのではないかと思い至ったのだった。
もしかしたら、自分の方が、国王より酷いことをしていないか。
ネイドは半ば硬直して、冷や汗をかいていた。ただでさえ友好的な関係を築けてないのに、これで破綻したら、……良くて自分の首が飛び、悪ければ国が亡ぶ。
じっとしていた巫女姫が動いた。カップを持った手が上へと上がり、口元へ持っていく。ネイドは緊張して見守った。こく、こく、と飲んで、彼女は涙のにじむ声で呟いた。
「おいしい」
そうして彼女は、ぽたりぽたりと、また涙を零しはじめた。
でもそれは、さっきの涙と違って、彼女の中の苦しさを溶かして流し出しているような安らぎがあって、彼はほっと胸を撫で下ろしたのだった。