奪取
私の人生は、まあ波乱の連続だったんだと思う。
生まれた家は他に比べかなり裕福だったけど、父の愛人が発覚して、それまで幸せだった家庭が嘘のように上を下への大騒ぎ。
挙句に私の生母は愚かな人で、衝動的に私を連れて家出と称し実家へ里帰りして、でも幾日か経ち頭も冷めてきた頃、いざ父のところに戻れば自分のもといた場所には既に愛人が居座っていた。
居場所を取られた母は泣き叫んで父に縋ったが、無情にも突き付けられたのは離婚届けの用紙一枚。
当時よわい5つにも満たない私が言うのもなんだけど、その時の母の姿ほど滑稽なものはない。
慰謝料と養育費も申し分ない程度に払う、そう金で解決しようとする父に、裏切られた憎しみも相まって母は感情的に拒否した。
お金の問題じゃないわ、私は貴方を愛してるのよ!と。
いやいやいや。
そんなドラマで使い古されたような安っぽい台詞に心動かされる父なら、始めから浮気なんてしないって。
ここはお金を搾るだけ搾り取って、潔く身を引いた方が賢明だ。
母を見る父の目は、それほどに冷めていた。
かつて永遠の愛を誓った相手だというのに、蔑むような色が混じったものだった。
ドロ沼に嵌った父と母を少し離れた場所から眺めていた私は、その場にいた誰よりも冷静だった自覚がある。
二人の口論が白熱すればする程に、茶番劇でも見てるような感覚に陥っていた。
結局、母は離婚届に印を押したが、最後のプライドからかお金は一切受け取らなかった。
なんていらぬ意地を張るんだろう。
差し出された蜜は残らず吸ってしまえばいいものを。
私のことは、話し合うこともなく母が引き取った。
愛人ができた時点で父にとって私は不要な存在……むしろ邪魔だったのだろう。
だって父は、始めから「養育費も払う」と言っていたのだ。
それは私が母に引き取られることを前提にした言葉だ。
父は別れ際、一切私の方を見ようとはしなかった。
まるで無いものと扱うように。
今一度父に会えたなら聞きたい。
「貴方にとって、私はなんだった?」と。
答えなんてまるで分かりきっているが、それでも愛人をこさえる前、私たちがまだそれなりに家族でいれたあの頃はどうだっただろうかと、不毛だろうと何だろうと問いてみたかった。
やがて実家暮らしを始めた母と私であったが、それは決して幸せと呼べるものではなかった。
母はとうに定年を迎えた祖父母に迷惑を掛けまいと、生活費や私の教育費を稼ぐため一心不乱に働き続けた結果、徐々に精神を壊し始めた。
日に日にやつれ、目つきが悪くなり、まるで彼岸に片足を突っ込んだような不気味さを醸し出すようになる。
立ち回りの上手かった私は、なるたけ母に関わらぬようにして、いつも祖母の背中に隠れていた。
しかしある日私が学校から帰ると、待っていたのは見慣れた祖母の笑顔ではなく、血の繋がった母親の、それはそれはおぞましい笑みだった。
どうしよう。
容赦なく髪を掴まれた時に思ったことはそれだけ。
続いて降り注ぐ母からの暴力に、私はなんの抵抗もしなかった。
「お前なんて、お前なんて!」
「どうしてあの人を繋ぎ止めておいてくれなかったの!腹を痛めてまで産んでやったというのに、恩の一つも返せやしないのかい!」
「なんて役立たずなんだよぉっ、お前は!!」
母にとって私は、父との関係を保つために産んだ柵に過ぎなかった。
まんまと父に逃げられてしまえば無価値と化す、単なるお荷物。
むしろ次の人生を歩もうとしている母の足枷だ。
狂ったように私を殴る母は、しばらくしてから買い物から帰ってきたらしい祖父と祖母によって取り押さえられた。
栄養不調でさほど体力もない母は簡単に大人しくなり、けれど私が驚いたのは祖母の次の行動だった。
血をダラダラ流し、明らかに重傷を負っているだろう私が視界に映っているはずなのに、祖母はこともあろうに母へ一直線に駆け寄った。
大丈夫かい、何があったんだ、と私を尻目に母を慈しむ祖母に、怒りよりも呆れの方が強かった。
親が親なら子も子だ。
私の中にこいつらの血が一滴でも流れているのだと思うと、心底ゾッとする。
20分後にようやく病院で手当てを受け、私は一命を取り留めた。
白いベッドに横たわる私に、祖父が付き添ってくれた。
祖母は母に付ききりらしい。
けれどその祖父も、私のことなんて眼中にないように母のことばかり気にしていた。
だから祖父の、表は私を気遣う言葉に、笑って答えてあげる。
「お母さんも大変だもの、信じてた人に裏切られて、気が滅入るのも仕方ないよ。私は平気。大丈夫、分かってるから」
敢えて「お父さん」とは言わなかった。
ちゃんと空気は読んでおかないと、面倒なことになる。
そうやって聞き分けの良い子を演じれば、祖父は「そうか」とだけ言って、母を慰めに向かった。
……私の居場所は、どこにもない。
後日、無事に退院を果たした私に祖父母が勧めた、寮付きの高校へ進学したらどうかという話で、ひどく痛感した。
彼らもまた取捨選択をしたのだ。
母の精神の安定化を図るために、不安要素である私を捨てた。
憎い男の血が混じった孫より、自分たちの化身である愛娘を。
明快すぎて、いっそ清々しい。
こうして二度捨てられた私は、他県の高校へ入学し、寮生活を思う存分満喫した。
今まで我慢していた分、少しくらい羽目を外したっていいと思うんだ。
咎める者は誰もいない、自由に羽ばたけるそこで、私は奔放自在に振る舞った。
するとものの一年で学校中のほとんどの生徒が私を一目置くようになり、そしてなにより、厄介な男に目を付けられてしまう。
今年で何度目かの留年になる、と笑って話すその男。
学年は私より一つ上だが、実年齢は五つも離れている奴は、明らかに他とは違う非凡な男だった。
「青春ってやつが知りたくてこの箱庭に留まっていたんだけどよ、いいモン見つけたわ。甘酸っぱい味にまったく興味が失せるほど、喉越しの良いやつ。“お飾り”にはちょうどいい」
上杉は、大きな身体に厳つい面を引っ提げて、目が合えば誰でも射竦めてしまうような危うさを秘めた瞳で私を見ていた。
言っていることの大半が独り言のようで、意味の分からなかった私はさして相手にしなかった。
君子危うきに近寄らず。
今度そうやって言ってやろうかしら、と画策していれば、いつの間にか上杉は学校からいなくなっていた。
雲のように掴みどころのない男だ。
ともあれ私は、残りの平穏な高校生活を楽しんだ。
青春とやらの味は知れなかったけど、ピュアさの欠片もない私が「うふふ、あはは」なんてむず痒いことをできるわけがない。
生徒たちとのチキンゲームで十二分に満足してる。
就職先も決まり、無事に卒業を終えたまさにその日。
上杉は再び私の前に現れた。
やつは片手を上げて、「よう」と言った。
その口ぶりは昨日今日別れたばかりのような、軽いものだった。
上杉の顔は約二年もの間、見ていないというのに……。
「迎えに来た。下準備は整えてあんだ、俺と一緒に一大旋風を巻き起こそうぜ」
相も変わらず勝手な男だ。
私はこの日、上杉に拉致された。
上杉が言うには、やつはこの二年間で新しい組織を創設したらしく、そこのトップに私を据えたいのだと。
組織が何のためのものかも分からないのに、冗談じゃない。
私は既に就職が決まっていたんだ。
研修も何度か行ってる。
なのに、それを捨てていつ潰れるかも分からない新設組織の頭?
御免被りたいわ。
危ない橋は渡らない主義なのよ。
「お前の身は何に代えても守ってやるよ。だから大人しく、お飾りを演じろ」
……上杉が関わると、どうにも危ないにおいしかしない。
組織のお飾り頭が欲しいのなら、私でなくともいいじゃないの。
もっと扱いやすい人に白羽の矢を立てたら?
そう言えば、上杉は得意げに口角を上げた。
「お前がいいんだよ。お前じゃなきゃダメだ。本音は男が良かったが、女のお前で不足ない。度胸とハッタリのある肝の据わったお前みたいなやつは、そうそういねえよ。おあつらえ向きってわけだ」
「嫌よ。面倒臭い」
「……そうだな、特典は有り余るほどあるぜ。一番お前が喜びそうな、人の屈辱に歪んだ顔をとくと見られる権利とか。それだけじゃない、俺たちのせいで何人かの人間が不幸になるんだ。これほど愉快なことはねぇだろ?」
「……」
つくづくこいつはろくでもない。
私の嗜好をきちんと得心してるから、誘い文句が魅力的すぎる。
やるやらないの攻防戦は、私が折れたことで決着がついた。
三年の仕込み期間を経て、渋々お飾りについた私を待っていたのは、金持ちのお偉いさん方や要人たちとニコニコ笑っての狐と狸の化かし合い。
中には愚かな腐れ頭もいるが、大半が狡猾な大人ばかりで、他愛ない会話をしてるように見せかけてその実、腹の探り合いだ。
痛くもない腹を探られた時には、その数倍の意趣返しをしてやった。
私が会食やら何やらに行っている間、上杉たち部下数名が裏で何かやっていることは知っていたけど、どんなことをしているのか、具体的なことは何一つ分からない。
まあ、分からなくて正解なんだと思う。
上杉の世界は、そこまで綺麗なものじゃない。
また五年も経つと、我が組織はその地位を確固たるものにした。
私は笑っていただけだから、上杉の力によるところが大きいだろう。
さて、このままあいつはどうするのか……。
そう考えていた矢先の出来事だ。
上杉を連れて出席したとある大物政治家のパーティで、事件が起こった。
無差別殺人だった。
ナイフを手にした男が、周りにいた人々を次々と刺し殺す、まさに地獄絵図。
それらを目の当たりにし、会場は一気にパニックに陥る。
私は上杉に連れられ人気のない方へ誘導されたが、途中で腕を掴んでいたその手を振り払ってやった。
「……上杉、あんたにしては随分と粗末な計画じゃない」
思い切り鼻で笑った私に、上杉の片眉がわずかに上がる。
「は……、気づいてたのかよ」
「あの男をけしかけたのはあんたね?そして混乱に乗じて私を殺そうとしている―――もう少し綿密に計画を立てたら良かったのに」
「時間がなかったんだ。恨むなよ、お前はもう不要になった」
だから勝手なんだ。
あんたの都合で誘拐まがいのことをして、有無を言わさず組織に縛り付けて。
極めつけは、要らなくなったから死んでくれ?
その横暴さに、父や母、祖父母のことを思い出す。
「お前はなかなかいい女だったぜ。少なくとも、俺が出会った中では極上の」
ご丁寧に会場で暴れていた男と同じ刃渡りのナイフを懐から取り出し、私に向けた。
臆することはない。
これが私の―――三度目の正直だ。
「あんたの負けだよ、上杉」
上杉は射殺された。
私が来たる日のために飼い慣らしておいた、SPに扮した男たちに。
上杉の敗因は、私に計画を気取られたことだ。
瀬戸際外交で身に着けた腹黒さを舐めないでほしい。
上杉が私を使い捨てにしようとしていたことは、当初から分かっていたのだから。
「ずいぶん呆気なかったスね、上杉のヤローは」
上杉を殺した男の一人が肩を竦めながら言うので、私も真似て笑った。
「甘かったのよ、彼」
最後の最後で、上杉は自ら死を選んだ。
いや、そう言うと語弊があるかもしれないが、上杉くらいの化物レベルなら、こちらを二~三人道連れにすることくらいできただろうに。
私だってまさかノーダメージで倒せるとは思わなかった。
息絶える刹那、上杉は私を見て笑ったのだ。
「地獄で待っててやるよ」そんなことも口にして。
「……化物も、命尽き果てる時には人に戻ることができるのね」
隣にいた男が、わずかに肩を揺らしたような気がした。
殺人犯の方もSPに撃ち殺されたらしいが、現場は未だ騒然としていた。
私が無事に戻ってきたことに、上杉の部下たちは分かりやすく動揺した。
上杉が死んだこと、これからは私が上杉にとって代わることを告げれば、大将を失った彼らは大人しく従ってくれた。
バカね、上杉。
あんた、一人でも自分の右腕になるような逸材を育てておけば、また違ったかもしれないのに。
さて、もうここに用はない。
警察が駆けつけてくる前にトンズラしてしまおう。
喧騒とする会場から踵を返すが、その時聞こえてきた悲痛の声に、私は思わず振り返ってしまった。
「ああ、どうしてっ!どうして殺したのですか!」
「奥さん、落ち着いてください」
「私の息子を!どうしてぇっ!」
SPに取り押さえられながら、慟哭する一人の女性。
それだけだったら何でもない。
周りの、女性を見る冷たい視線が、どうしても気になった。
「射殺された犯人の母親っスよ」
私の前にいた蒼生が教えてくれる。
なるほど。
どうやら上杉は、最後にとんでもないサプライズを残していったようだ。
「奥さん、落ち着いてください。あのままでは被害が拡大していました」
「仕方のないことだって言うの!人を殺したって何だって、私の息子なんですよ!息子に代わりないのに!」
わんわん泣き喚く女性、よく見れば、あの時の父の浮気相手―――今や父の愛妻である彼女だった。
では犯人は、父と彼女との間に出来た子供なのか。
なんてことだ。
上杉のことだから、それを分かっていて役者に仕立てあげたのだろう。
ああ、たちの悪い。
私は蒼生に「彼女を保護してあげて」と命じた。
少し驚かれたけど、分かりました、と手際よく遂行してくれた。
私の息子が、そう繰り返す彼女が憐れで、同時に微笑ましい。
子が何をやらかそうと自分の子供だと言い張って。
愚かで、そして私には与えられなかったモノだ。
対面した時、やはり彼女は私のことを覚えてはいなかったけど、私は初めて人を愛おしいと思った。
親にも祖父母にも抱かなかった親愛を、彼女へ向ける。
そして、父が大切にしていたものを奪った。
-END-
組織が何なのかは、ご想像にお任せします。