伊豆にて
黒川の父が倒れたのは、彼が二十歳のときだった。
彼は黒川家の三男で(お兄さんが二人と、お姉さんが二人)、そのとき彼は、地方都市の大学に通っていた。
彼の実家から連絡があり、黒川が新幹線で都内の病院へと駆けつけたときには、彼の父親はベッドの上で変わり果てた姿となっていた。
彼の父は意識はあるものの、首から下が動かない状態となってしまった。
その後、彼の父は、都内の病院から、伊豆の山の中にある、療養所へと移ることになった。
♪
「不摂生だったんだよ。お袋があれほど言っていたのに」と黒川は言った。
わたしは、箸を止めて、彼のことを見やった。
わたしと黒川は、町の小さな食堂で机を挟んで向き合っていた。
伊豆の療養所で、彼の父親を見舞った帰りだった。
わたしは、療養所の小さな裏庭で、彼のことを待っていた。
煙草の灰皿が裏玄関前にあったが、わたしは煙草を吸わなかった。それは黒川も同様だった。
親子水入らず、というのは本音でもあった。わたしは彼にとって、ただの彼女であって、それ以上でも以下でもないのだ。
しかし、あの病室で気詰まりになるのを恐れたというのもまた事実だった。あの空間に降りる沈黙に耐えかねたのだ。
「君は大丈夫なの?」とわたしは、彼の前にあるカツ丼に目を向けた。「脳卒中って遺伝するって聞くけど?」
「遺伝するのは、くも膜下出血だよ」と黒川はカツを頬張った。「親父は脳梗塞だ」
「親父のあの姿を見ていたからね。健康にはちゃんと気を使っているよ」と彼はご飯を口にした。「土日はジョギングをしてるし、毎晩赤ワインだって飲んでる」
「赤ワイン?」
「フレンチ・パラドックスは知ってる?」
「いや?」
「西洋人は、肉や脂質を沢山とるから、脳卒中や心筋梗塞を患う人が多いんだけど、フランス人だけは他の諸国と比べてその割合が少なかったんだ。その理由は、赤ワインを多く飲んでいたからだった」
「ポリフェノール」とわたしは熱い緑茶を飲んだ。
「そう」と彼はみそ汁をすすった。
「それだけ饒舌なら、そう簡単には倒れないね」とわたしは皮肉を言った。
「確かに脳梗塞の前兆では、呂律が回らなくなるからね」と彼はバカ正直にそれを受け取った。
「そんなに健康志向なら、わたしみたいに肉を食べるのをやめて、魚までとることにすればいいのに」とわたしは焼き魚の身をほぐしながら言った。「それから野菜をいっぱい食べてさ」
「でも……」と彼は言った。「コレステロール値が少なすぎても、脳卒中のリスクって上がるんだよ。脳血管や細胞膜が脆くなってね」
わたしは思わず箸を落とした。
♪
「そういう意味では親父には感謝しているんだよ」と黒川は答えた。「親父がああいう風にならなかったら、こんなに勉強したり身体に気を使ったりすることもなかっただろうしさ……」
わたしたちは食堂から出たあとで、近くの磯辺までやってきた。黒川が近くに海があると言ったので見に行くことにしたのだ。
時刻は16時過ぎ。空は灰色の雲と青空とでまだら模様になっていた。
磯辺には、わたしたち以外には誰もいなかった。
春先の冷たい風が吹いていて、わたしの髪をなびかせていた。
彼岸はすでに過ぎていた。
「君から見れば俺の食生活は不摂生だと言うかもしれないけれど」と黒川は言った。「前はもっと酷かったんだ。カップラーメンの汁が見えなくなるほどにマヨネーズをぶっかけていたからね。ラーメンというよりは黄色いなにかだったな」
げっ、とわたしは言った。「君、味覚障害か何かなんじゃないの?」
「ときどき後頭部が鋭く痛んだし、片腕もよく痺れていた。若かったんだな」
黒川は若年寄りみたいなことを口にしながら、遠くの海を見やっていた。海には波が立っておらず、ただただ静かだった。
「親父は身をもって教えてくれたのかもしれないな」
そう言って黒川は、波打ち際のほうへと歩いていった。
この人は変な人だ、とわたしは彼の背中を見ていた。彼のコートの裾が、風にはためいていた。彼が変なのは以前からわかっていたことだけれども……
どうしてそんなに超然としていられるのだろう。まるで悟ってしまったかのように……。ポーズというわけでもないし、それが素なのだ。そして彼には、感情がないというわけでもない。
彼はわたしにとって彼岸の人だった。もしかして彼は宇宙人か何かなんじゃないのか。彼は違う星からやってきた魂なんじゃないだろうか――
「青木さん」と不意にわたしを呼ぶ声が聞こえた。
な、何?とわたしはハッとして、顔を上げた。
彼は、少し遠くの波打ち際で、こちらをジッと見ていた。コートのポケットに両手を突っ込んで。
わたしは彼のもとへと歩いていった。
「考えごと?」と黒川がわたしに言った。
ぼうっとしていた、とわたしは嘘をついた。君は宇宙人なのかと疑っていただなんて口にするわけにもいかない。
わたしたちは、黙って遠くの海を眺めていた。
わたしは風になびく髪を手で抑えた。
この海は内海なんだろうか? こんなに波が立たずに静かなのだから。だとしたら、ここは西伊豆なのか。この向こうにあるのもやはり静岡県か……
「学生のときにも、ここに来たことがあるんだ」と黒川が言った。
「一人で?」とわたし。
「一人で」と彼。「お袋も兄貴たちも忙しかったからね。暇人は俺だけだった」
そしてまた沈黙が降りてきた。
「あのときは独りだった」と不意に彼がポツリとこぼした。
えっ?とわたしは言った。
「家族も友達もいて、親父はあんな風になっちゃったけど、それでも生きている」と黒川は続けた。「でも、俺は独りだった」
「孤独だった?」とわたしは訊いた。
「そういうこと」と彼。
「いまは?」とわたしは訊ねた。
「もう寂しくないよ」と彼は微笑んだ。
♪
「縁起でもないことを言うようだけど」と彼はそう前置きをした上で言った。「もしも、青木さんが、俺の親父みたいなことになったら――」
本当に縁起でもないなぁ、とわたしはげんなりして言った。
わたしたちは、駅へと向かって町中を並んで歩いていた。誰ともすれ違わなかった。
「俺は青木さんの傍にいるよ」と彼は言った。
「別にいいよ」とわたしは答えた。「新しい誰かを見つけなよ……」
きっと、彼のその言葉に嘘はないのだ。彼はわたしとは違って、言葉と心とが解離するような人ではないからだ。どストレートなのだ。いい意味でも悪い意味でも。
そして、わたしがもしそうなったのだとしたら、本当に彼は最後までわたしの傍から離れはしないのだろう。
「もし、その逆の立場になったなら」と彼は言った。「青木さんは、新しい人を見つけなよ」
「寂しくないの?」とわたしは訊ねた。
寂しいから、君はわたしと離れたくないのではないか?
「それはもういいんだよ」と彼は答えた。
「どういうこと?」とわたしは訊いた。
「だって、もう君に会えたんだもの」と黒川は言った。「君がこの世にいるということを認知したんだもの」
わからないな、とわたしは苦笑した。
わからなくてもいいよ、と彼はかすかに微笑んだ。
恥ずかしくなったのか、彼は少し足早になった。
ただでさえ、歩幅に差があるのに、足を早められたので、あっという間に、わたしたちのあいだには距離が開いた。
わたしは彼の背中に向かって、小さく駆ける。
彼の背中はとても遠くにあるように見えた。
わたしはいつか、彼に追いつかなくてはならないのだ。そのために、わたしは彼を必要としているのだろう。
彼と一緒にいるのは、寂しいからではないのだ。