文化祭
ウェイトレスの衣装に袖を通す。ちょうちん袖のブラウスから腕が覗く。なんだか可愛すぎる衣装で恥ずかしかった。
今日は文化祭当日。芽衣のクラスは喫茶店をやることになっている。家が喫茶店を経営しているというクラスメイトが、人数分の制服を貸与してくれていた。
これだけの枚数を揃えるのは大変だっただろう。それを気前よく貸してくれた厚意に感謝しながら、芽衣たちは、喫茶店の飾りつけの済んだ教室でお互いのコスチューム姿を褒め合っていた。
「あら芽衣、似合うじゃないの! 鳴海くんに見せたかったねえ」
間仕切りの裏でウェイトレス姿に着替え終わったところで、杏がやって来る。彼女はとてもスタイルが良いから、ふんわりとしたスカートから長い足が覗いていて、思わず目のやり場に困るほどに似合っている。
同じ女性としてちょっと悔しく、芽衣は頬を膨らませる。
「いいなあ、杏、とっても綺麗! 私も、杏みたいに背が高くて凹凸もしっかりしてたら良かったのに……」
「お褒めの言葉をありがとう。芽衣だって似合ってるよ。小柄だから、思わず抱きしめたくなる感じ」
「わ、わ、ちょっと!」
ふざけるように杏が芽衣に抱きついて、ふたりで笑い合う。
そうやってじゃれ合いながら、杏が芽衣の耳もとでささやいた。
「……で、鳴海くんへの返事は決まったの?」
――う……。
芽衣は杏から体を離すと、ゆるゆると力なく首を振った。
美香との一件があった日、杏と二人で保健室に向かった。そこで彼女には冬真に告白されたことを伝えていた。その返事に迷っていることも……。
自分も冬真のことが好きだけれど、障害は山のようにあるのだ。芸能人である冬真に、自分が釣り合うとは到底思えなかった。自分に自信が持てなかったのだ。そうして気持ちが尻込みしたまま事態は進展せず、今日まで時間が経ってしまっていた。
黙り込んでいる芽衣に、杏は気遣うように眉根を寄せる。
「……まあ、芽衣の気持ちもわかるけれどね。芸能人とか一般人とか、そういう視点で判断されるのって鳴海くんが悲しむんじゃない? 芽衣ならわかってると思うけどさ。普通に恋愛すればいいじゃん。うちら、ただの高校生なんだから」
「うん……」
杏の言うことはもっともだった。芸能人という外聞で判断されることは、冬真がもっとも傷つくことだろう。
『Honey Blue』の冬真ではなく普通の高校生として接してほしい――冬真が言っていた言葉が脳裏に蘇る。
杏は、話題を変えるように軽く手を叩いた。
「さ、そろそろ行こうか。もうすぐ開店時間だからね」
間仕切りで仕切られた控室を出て、杏は喫茶店風に机と椅子が配置された教室へと繰り出していく。
教室はすでにお客さんが集まっていて、みんなそれぞれに椅子に座ってメニュー表を広げていた。
ちなみに、冬真は途中から文化祭に合流することになっている。朝は仕事関係の打ち合わせがあって、それが終わり次第登校するとのことだった。冬真くんはあいかわらず忙しそうだ。
それもあって、あれから冬真とはあまり顔を合わせず、なかなか込み入った話ができていないのだった。
文化祭の始まりを告げるアナウンスが校内に流れる。芽衣はあらかじめ決められていた待機場所の壁際に並んだ。教室入り口の呼び込み担当のクラスメイトたちが、「いらっしゃいませ!」と明るい声で客寄せをしている。その甲斐あってか、次々とお客さんが来店し始めて、教室内はあっという間に満席になってしまった。
賑やかな教室内を目に入れて、芽衣は、いよいよお仕事開始と胸を高鳴らせる。
「こっち、注文お願いしまーす!」
さっそく窓際のテーブル席に座っていた男子生徒二人組が手を上げた。明らかに芽衣に声をかけている。
(よ、よ、よし……!)
初仕事、と気合いを入れた芽衣。まるで機械が歩き出すようなぎこちない動きで男子生徒二人の席に歩み寄る。右手と右足が同時に出ていたのは気のせいではないかもしれない。
「あの、ご注文は……」
自分では意気込んで言ったつもりが、か細い声になってしまう。
メニュー表にあるのは、ワッフル、タピオカジュース、それから珈琲に紅茶だったはずだ。頭の中でメニューを反芻する。
(ええと、ワッフルとタピオカジュースはトッピングするソースが選択できるから、それも聞き洩らさないようにしないといけないんだったよね……)
注意事項ばかりが思い浮かんで、頭が真っ白になりそうだった。
ペンとメモ用紙をかまえて、注文を今か今かと待ち望む。けれども、男子生徒たちが口にしたのは思ってもいない台詞だった。
「おお、きみ可愛いね! その制服、似合ってるよ」
「時間空いたらさ、俺たちと一緒に文化祭まわらない?」
「……!」
無遠慮にこちらの全身を見つめてくる視線に、芽衣は気圧されて一歩後ずさる。
格好を褒められたことはありがたかったが、ぶしつけに見られるのはあまり気持ちのいいものではなかった。
芽衣は首を竦めながらも、しっかりと断りの言葉を口にする。
「あの、私、今日は一日ずっとここで仕事なので……」
「いいじゃんいいじゃん、せっかくの文化祭なのにまじめに仕事してどうすんの? なんなら、今から抜け出して遊びに行っても――……」
なおも食い下がる男子生徒たちに芽衣が辟易して、いよいよ教室の注目を浴び始めたそのときだった。
「――ご注文はなんですか、って聞いているんだけど聞こえなかった?」
突然後ろから割り込んだ声音に、男子生徒が芽衣に伸ばしかけていた手が止まった。芽衣の後ろから伸ばされた手が、男子生徒の腕を力強くつかんだからだ。
芽衣はたしかな予感がしてゆっくりと後ろを振り返る。
そこには、怒りを押し殺した表情の冬真の姿があった。彼は、よくよく見ればウェイターの服装をしている。腕まくりをした純白のシャツに黒い蝶ネクタイ、黒いパンツ、その上から同じ色の短めのエプロンを腰に巻いている。
まるで雑誌から飛び出してきたかのような完璧な格好。芽衣は状況を忘れて思わず心臓が跳ね上がる。
「冬真、くん……?」
――たしか、仕事に行っていたはずじゃ……?
芽衣を庇うように前に出た冬真は、男子生徒たちにたたみかける。
「注文、早く。決まっていないのなら時間を置いてもう一度来ますが?
冬真はどうにも怒っているようで、早口でまくし立てる。
本来いないはずの冬真の登場に、教室にいた女子生徒たちが興奮して悲鳴をあげる。
場内はあっという間に大騒ぎになってしまって、後ろ頭を掻いた冬真は、芽衣の手を強引につかんだ。
「芽衣、とりあえず奥に入ろう。俺がいると、やっぱりちょっとまずいかも……」
「う、うん」
たしかに、入店規制等の対策を取らなければ、冬真がいると学校中の生徒がこのクラスに集まってしまうかもしれない。そうなったら喫茶店の運営どころではなくなってしまうだろう。自分のせいで文化祭が台無しになることは、冬真の本意ではないようだった。
呆気に取られている男子生徒二人を残し、芽衣と冬真は逃げるようにして控室に引っ込む。
冬真は壁に背を預けて寄りかかりながら、うつむいている芽衣に苦笑を向ける。
「芽衣、危なかったね。ああいう変なやつに絡まれたときは、困りますってちゃんと言わなきゃ駄目だよ」
(し、叱られた……)
芽衣はしゅんとしながら、すごすごと頭を下げる。
「ごめんなさい。助けてくれてありがとう。――あの、午前中はお仕事じゃなかったっけ?」
聞くと、冬真は緩く首を振る。
「そうだったんだけど、早めに切り上げてきたんだよ。クラスの出し物見たかったし、芽衣のウェイトレスの格好も見たかったし」
「私の格好?」
「そう。やっぱすごく可愛い。だからあんな変なやつらに目をつけられるんだよ。……はあ、もう少し遅れたら危なかった。担当さんに車で送ってきてもらってよかったよ」
言って、冬真はまじまじと芽衣の全身を見つめる。そうして嬉しそうに満面でほほ笑んだ。
「うん、芽衣、よく似合ってる。芽衣はかわいいんだから、もっとそれを自覚してほしい。それで芽衣、休憩はいつから?」
冬真のほうがずっと似合っていると伝えたかったけれど、なんだか恥ずかしくて言葉にはできなかった。それをごまかすように、早口で冬真の質問に答える。
「えっと、休憩、たしか今から三十分後くらいだったと思うけど」
「そう。じゃあ俺もその時間に合わせて休ませてもらおう。それまでは頑張るかな」
「頑張るって、冬真くん、文化祭には出ないんじゃなかったっけ?」
前に聞いた話では、冬真は後夜祭以外は待機組だったはずだ。
だからこそ仕事に行っていたはずなのだが、予定が変わったのだろうか。
冬真は、形のいい薄い唇を持ち上げていたずらに笑う。
「昼間の文化祭にも参加していいですかって先生にお願いして許可をもらってきたんだよ。俺だって普通の高校生だ、文化祭だってクラスの一員として参加したいし、好きな女の子と一緒に楽しんでみたい。そういうこと」
それだけ言い残して、冬真は颯爽と注文を取りに客席に舞い戻っていく。
途端に女の子たちの歓声が聞こえてくるけれど、冬真のあの口ぶりからして、もうなにもかもを割り切って一般生徒として文化祭を楽しむ気なんだろうか……。
(それにしても、好きな女の子って……)
自惚れかもしれないけれど、自分のことを言っているのだろうか。
……もう、わからないふりをしたくはなかった。
彼の気持ちに答えなくてはならない。このまま中途半端な関係を続けていては、彼に対して失礼だと思うのだ。
そう思うと、どきどきと気持ちがはやるようだった。
次の休憩時間、冬真と二人で話せそうだ。たぶんそこでなんらかの返事をしなければならないのだと思う。
――自分の気持ちを、素直に伝えたい。
芸能人だとか、一般人だとか、そういった表面的なことをだけで考えてはいけない。
そういう外面的なことに捉われずに、自分の気持ちに正直になるべきだ。
芽衣はそう決意をして忙しく立ち回っているうちに、時刻はあっというまに休憩時間を迎えた。