くもけつと赤沢
完璧主義の男が出会ったのは、小さな“くもけつ”。
几帳面で理屈っぽく、人との距離をうまく縮められなかった赤沢。
離婚し、一人きりの家に住む彼の前に現れたのは――天井の隅でお尻をぷるりと揺らす、一匹の蜘蛛。
追い詰められてもなお、どこか憎めないその姿に、赤沢は「可愛げ」というものの意味を初めて知る。
不器用な人間がほんの少し柔らかくなる、静かな再出発の物語を短編で書きました。
赤沢は、夜の帳が下りた頃、無人の一軒家のリビングでノンアルコールビールの缶を開けた。炭酸の音が静けさに溶けていく。リビングの照明は、目に優しい昼白色。室温は22度に設定され、湿度も50%を保っている。
「寝る前にアルコールを摂ると睡眠の質が落ちる」と知ってから、もう何年もウイスキーを口にしていない。完璧な体調管理も、赤沢にとっては生活の一部だった。
外は風の音。家の中は整いすぎて、逆に人の気配を感じさせなかった。
つい数ヶ月前まで、赤沢の生活にはもう少し“雑音”があった。妻がいて、たまには笑っていた。しかし、プライドと理屈で築いた人間関係は、日常には向いていなかったようだ。
「あなたは完璧主義だけど……可愛げがないのよね」
最後に妻が言ったその言葉が、今も耳に残っている。
その夜、赤沢は書斎で資料を整理していた。分類済みのクリアファイル、色分けされた付箋、埃一つないデスク。その秩序の中で、ふと、天井隅に白い何かが動いたのに気づいた。
「……蜘蛛か?」
見上げると、小さな蜘蛛が天井の角に巣を張り、何かに気づいたようにピタリと動きを止めていた。赤沢が動くと、蜘蛛もピクッと震えた。
逃げるか?戦うか?
だが次の瞬間、蜘蛛はお尻――いや、“くもけつ”をふわっと持ち上げ、まるで「やだ、見ないでよ」と言わんばかりにクルッと回って、巣の端に隠れるように移動した。
その動きが、なんとも言えず、かわいかった。
「……なんだ、おまえ」
不意に赤沢の口元が緩む。
くもけつは、どこか羞恥を含んだような、でもどこかで“見られている”ことをわかっていて、それでも自分らしくあろうとする、そんな存在だった。敵に見つかったというピンチなのに、不器用ながらも隠そうとしているその姿に、妙に胸を打たれた。
「ピンチでも、取り繕わずに、ちょっと情けなくて……でも、なんか放っておけないってやつか」
自分はどうだったか。部下がミスをしたときも、怒鳴るでもなく、励ますでもなく、淡々と「次はないぞ」とだけ言って終わらせた。家では、感情を見せると崩れてしまいそうで、冷静さばかりを優先した。正しさと成果ばかりを気にして、“愛嬌”や“弱さ”を見せることを避けていた気がする。
「可愛げがない」――そう、たぶんそれは、“近寄りたくなくなる人間”って意味だったんだ。
その夜から、赤沢は家の蜘蛛に話しかけるようになった。
「おい、くもけつ。今日も絶妙な出し方だな」
蜘蛛はもちろん答えない。ただ、くるっと回って、小さな巣の中でちょこちょこと動いている。
そのたびに赤沢は思う。完璧じゃなくていい。ちょっと情けなくて、ちょっとおかしくて、でも一生懸命生きてる姿こそが、人を惹きつけるんだ。
そして、ある朝。
赤沢は出社前に鏡の前でスーツの襟を直しながら、ふっと息を吐いた。鏡の中の自分は、相変わらず几帳面で、少し堅そうな顔をしていた。
「……まあ、ちょっとぐらい隙があってもいいか」
その声は誰に向けたものでもなく、でも確かに、昨日までの自分とは少し違っていた。
ネクタイをゆるめすぎない程度に軽く整え、赤沢は玄関のドアを開けた。
その背中には、“完璧じゃない自分”を少しだけ許す余裕と、それをちょっとだけ見せる“可愛げ”が、ちゃんと宿っていた。