内閣総理大臣(3)
「・・・見えないわね」
できるだけすぐに用意できる物、四十センチクラス、対象天体自動追尾付きの反射式望遠鏡の接眼レンズから目を離した総理は、屈めていた腰をうーんとばかりに伸ばした。
場所は首相官邸の屋上である。官邸、と呼ばれながらも、鉄筋コンクリート五階建ての施設ともなればちょっとしたビルで。十年ほど前にドローンがいつの間にか着陸していた時に報道されたとおりに、ヘリポートがある階上には安全に上ることができる。
ゆえに今夜の天体観測会、となったわけだ。
「座標に間違いはありませんね」
事前に望遠鏡をセッティングした秘書が、タブレットを再確認し、接眼レンズを覗いた。
丸く切り取られた視界に映るのは、どこかぼんやりとした黒い背景のみで、絞りを変えてもナニカがハッキリと見えはしなかった。
「対象が遠すぎるのか、空が明るすぎるようです」
「・・・どちらにしても、良い話ね」
観測対象は地球に迫り来る小天体。
まだ見えないほど遠いのは、ホッとできる情報ではある。・・・いずれかならず望遠鏡が無くとも見えるようになり、頭上から降ってくるとしても。
「はい。この光が継続できれば良いのですが」
街頭、信号、夜間営業に二十四時間を続ける商業施設。そして・・・カーテンの隙間から漏れいずる家庭の明かり。
「そうね・・・」
田舎で満天の星を見た人はたまに言う。「都会の人はかわいそうだ」と。
宇宙から地を見下ろした人はたまに言う。「都市部には光があふれすぎている」と。
だがしかし、本当にそうだろうか?
それもまた美しく幸せな風景ではないだろうか?
「・・・寒くなってきたわね」
総理が腕を組むように上着の襟元を締め、首をすくめた。
「風邪などめされては、いけませんね。片付けておきます」
「よろしく」
ひらひらと手を振って去っていく総理の後ろ姿が見えなくなるまで頭を下げていた秘書は、足音が聞こえなくなるとそれなりに時間をかけてセッティングした望遠鏡をしまい始めた。
総理官邸を見下ろせるビルはいくつかある。日中、屋上に見慣れない代物があるのはまずいだろう。さすがに自国のマスコミが二十四時間、三百六十日張り付いてはいないだろうが、ちょっと、何かしらのついでに総理ん家を覗いている可能性は十分あり、前述の行動をとっている組織もまた、ある。こちらがやっているように。
「まあ、むこうさんも最近は規模をずいぶん縮小したようだが」
地球が滅びようとしているのに、スパイ活動か、ということなのだろうか。
「ヨ○バシでおんなじ望遠鏡を買って、自国に帰ったって聞いたときはみんなで吹いたけどな」
のぞき、のぞかれしているかの国とは、そう時差もない。
「今頃、むこうさんも四苦八苦してるのかもな」
自国語の説明書でも、専門用語はわかりづらい。ましてやそれが外国語ともなれば。
「そこまで苦労して結局見えないんだからな」
たぶん、明日も明後日も。
晴れている限り同じ苦労をするであろう、むこうの担当者に。
ちょっと首をすくめて、望遠鏡を担いだ秘書は建物内へと消えた。
○≡
「それで?」
「はい。はっきり名言しているのは一部のVチューバー、チューバー、ネット掲示板ですが」
「ちゅーばーちゅーばー?」
「Vチューバーがバーチャルチューバーで、チューバーが・・・チューバーです」
「ちゅ?」
「姿形を仮想の分身に置き換えた個人配信者と、自身のまま配信している人と、匿名で情報を書き込めるインターネット上の情報交換の場です」
国会議員と言えども、老人と言えば老人だ。だいたいこの手の人はこちらが聞き返すほど横文字に強いが、たまーにものすごく疎い人もいる。
そういう人に限って権力があったりするのだから、要はバランスなのだろう。スマホやパソコンを見る代わりに様々な情報を入手し、利用しているわけだ。
「個人。情報。発信。それならば、まだ、だろう?」
今回も、だ。
入力された情報を噛み砕き、飲み込んだ後の処理が恐ろしく早い。
「はい。半信半疑、どころかほぼ零信全疑ですね」
「人には正常性バイアスが備わっとるからな。・・・問題はその閾値、それをどこまで後ろに動かせるか、か・・・」
「まさかまさか自分が映画の政治家みたいなことをする羽目になるとはなぁ」
「まったくですなぁ」
考えに沈んでいく同僚と代わるように頭を抱える、先生と呼ばれる人達。
大げさなポーズは、口の端しが上がっているのを見るに演技のようだ。
「『パニックになるからできるだけ隠すんだ!』」
「おっ! 言ってみたいセリフ、取られちゃいましたな」
「実際にはあたりが見えなくなるほど慌てるんではなくて、冷静に思考を巡らすから混乱が生じるんですがね」
よく映画で想定されているパニック、暴徒と化した民衆が商店を襲い、火をつけ、絵に描いたような───まあ、実際に映像作品以外の何者でもない───暴動は、この国では起こらないだろう。
というか、原因はこれではないだろうか? 映画で繰り返し繰り返し見ていることで学習した結果が暴動なのだとしたら、容姿の違いにより、よりフィクションと感じる日本でああいうことが起こりづらいのにも納得できる。
「取り付け騒ぎは」
「起こるでしょうな」
自身の思考に沈んだ議員先生がぽつりともらした一言が弾けて波紋を描いていく。
「何せ今回はデマでもないときている」
「生きている間に全額使いたい。当たり前の考えですなぁ」
そして誰もが気づくのだ。
「ま、日本銀行券、に。限らずだ」
自分の手にしているモノが。
ただの綺麗に印刷が施され、偽造防止技術が詰め込まれた。
ただの紙切れに過ぎないことに。
「硬貨もダメ、か」
「金貨、銀貨でもありませんしな」
紙幣、貨幣が役に経つのは、それに価値があると信じられているからだ。
その信用が無くなれば、それこそ億単位で出回っているか絵画など見向きもされなくなるし、ニッケル、なんて、なにに使えるかわからない金属よりも、銅やアルミの方が価値が高くなる可能性すらある。
「それでもすぐにインゴットでも物が買えなくなるでしょう」
はぁ~、っと。ため息が室内に満ちる。
世界の終わりの瞬間、金銀財宝にどれだけの価値があるのか。
まあ、個人的に愛してやまない人はいるだろうが、最後の晩餐という名画もある。
腹を鳴らしながら金の塊を撫でて最後を迎える人もいるだろうが、やっぱりコーヒー片手とか、チョコを嘗めながらとか、べろんべろんに酔って迎えたい人が多いだろう。
「地方ならともかく、都市部だと・・・」
「個人的に食料備蓄が進むのは容認するとしても、買い占めは・・・」
「全国の食料の量は確認できるか? 物流がいつまで動くかわからんぞ」
「あー! なんで備蓄米を放出しとるんだ。いや、米屋にはあるのか? なら・・・」
「・・・」
総理はただ眺めている。自分が口を開かずとも進んでいく会議を。
・・・ちょっと風邪気味で、のどの調子が悪いので。




