数学者
「おぅ。これやっといて」
返事も待たず、パサリと頭の上に載せられた書類の束。
はぁ。
ずるっとすべり落ちかけたそれを、落下寸前に押さえた加頭栗一生は、「またか」と言う代わりにため息をついた。
これをおこなったのが主任や課長ならそんなリアクションにならない───いや、仕事の割り当てがおかしかったり、そもそも、こんな渡しかたをされれば、そうなるかもしれない───が、今、彼に見向きもせず、背をみせて去っていくのは、多少入社が早いだけの同僚であり、もちろん仕事を割り振る権限なぞ持ち合わせていない。
最初は本当にスケジュールが厳しいようなので頼みを聞いた。だが、当初、両手を合わせて拝んできた相手が、軽く頭を下げるだけになり、それすらしなくなって、言葉の端にさえ感謝の欠片すら見えなくなり、なんなら気の合う───要は、同じように他の人に仕事を押し付けている───輩と、あまり余裕のないはずの業務時間中に、なぜか笑いながら食っちゃべってるのを見るにつけ、自分が騙されて上手く利用されている、最初っから演技だったのでは? なんて疑念が拭えなくなっていく。
いや、拭う必要もないんだけどね?
ワハハ、と。なぁにが面白いんだか、自分とは関係のないところで盛り上がっている連中の背中に一瞥をくれ、書類の内容に目を通し始めた彼は。
真っ青な顔で。
なぜか。
友人との飲み会に想いを馳せた。
○≡
飲み会の待ち合わせの時間なんてのは、そう厳密なものでもない。なんなら店に入って飲み始めていてもいいのだから。ちょっと早かろうと、遅かろうと気のおけない友人なら気まずくなったりはしない。
はずだった。
「・・・」「・・・」
野郎二人が、待ち合わせ三十分も前に店の前でばったりあったりしなければ。
「それで最近どうよ、カズカズ」
初々しい恋人が初デートでやらかすような出来事を何事もなかったようにスルーして、トリアエズナマを頼み、ちょっと迷ったあとおしぼりで顔を拭く暴挙に出たのは見星、その名のとおり星をみる職業、国立天文台職員だ。
「うーん。ぼちぼちかな」
こちらは手を拭くだけに止めたのは加頭栗一生、名前の読みは「いっしょう」なのだが、「かずお」とも読めるため、親しい友人は名字の前二文字とくっ付けて呼ぶこともある。
どこか身の入らない近況報告。とにかく不毛な理系の恋愛話(お互い一言、二言で終了)。
お互いに何かを避けるようなぎこちない会話と冷めていく料理に、机の端に溜まる空ジョッキ。
ガヤガヤガヤ、と。店に団体客が訪れ人が満ち満ちたころ、カズカズの目が、すっ、と。細められた。
「これは答えられなければ、そうでかまわないし、お詫びに一杯奢ろう。・・・最近、その筋からおかしな天体の話はなかったか」
「社外秘だよ。答えられないな。ハイボールを」
遠慮なく奢られる見星。
「こちらからも同じ条件で。・・・最近、その筋からおかしな依頼がなかったか。何かと何かの衝突を防ぐような。規模がでかくて、片方の運動や質量に思い当たる節がありすぎるような」
「悪いな。一杯おごってもらおう。ハイボール」
同じ答え、いや注文をする加頭栗 。
ごくごくごくと二人の喉がなり、ぶはーっと吐き出した息には、ためが多目に含まれていた。
「・・・それでどうにかなりそうなのか?」
「答えられないってば。ノンアルコールビール一つ」
「軌道が間違いだった、これから変わる可能性は」
「店員さんこっちもノンアルコールで」
ぶはーっ。
「・・・この方法、問題ありありだったな」
「ああ。たぽんたぽんだな」
トイレから戻り、会計後に店の前で腹をさする二人。
傍目には仲良く奢り奢られただけであった。
○≡
「おい。どういうことだ!」
二日酔いが二回ほど解消できるほどたったある日、加頭栗を怒鳴りつけたのは例の同僚だった。
「なんの件でしょう?」
分かりきったことでも確認する加頭栗である。・・・万が一、もしかしたら、違うかもしれないのだから。
「何で、あの仕事がお前の名前で提出されてんだよ!」
「何でも、何も。ボクがやった仕事だからでしょう」
うん。違わなかった。分かってたけど。
「てめぇ・・・」
モニターから目も離さず答えた加頭栗にはわからない。予想できるだけだ。
相手の顔が真っ赤に染まり、握りしめた拳がぶるぶると震えているのが。
「今度から、前みたいに、終わったら、俺によこせ。いいな?」
「良いわけないでしょ。なに言ってるんだか」
ふん。鼻で笑い飛ばすように断る加頭栗。
真実を、隠された真実を知った、知ってしまった彼に、もう怖いものはない。
「この、この、この・・・」
「話はそれだけですか? なら仕事に戻ってくださいよ。・・・あればですけど」
クスクスクス。
加頭栗に賛同するかのように、ささやかな笑いがおこった。
今、理不尽な言いがかりをつけている彼が朝一から上司に呼び出され、結構長い間帰ってこず、さらにつるんでいた仲間も一人、また一人と次々に自分ので顔を青くしているのが、現状である。
「ふざけるなよ!」
はぁ。
「ふざけるって言うのは、ですね」
ここでようやく加頭栗は椅子から立ち上がった。
「割り当てられた仕事を他の人に優先的にやらせ」
「自分の名前で提出し」
「そのしわ寄せで、残業をする相手を『要領が悪い』と笑うのみならず」
「上司にそれとなく、まあ、これはバレバレだったみたいですけど、告げて」
「優秀(笑い)な自分スゲーでしょ、とか、吹き込むことを指すんですよ!」
「お分かり?」
「ふっ、ふっ、ふがーっ!」
無理に書き起こせばこんな感じだろうか?
もはや、口喧嘩さえする必要すら忘れた相手がモノを言わせたのは拳、である。
「キャーっ」「おいおい!」「うわっ!」
バキッ! と自分の頬が鳴り、ガタガタガタッ! と、机の物をなぎ倒しながら自らもた倒れこんだ加頭栗は。
床とキスしながら微かに笑みを浮かべた。
・・・絨毯に欲情する変態さんだからではない。
「うっわ殴りやがったぞ !?」
「警備? 上司? とにかく人を呼べ!」
「もう、警察でよくない? ひゃくとーばん!」
計算通り、だからである。
そう、彼の仕事は。
あらゆる物を数値化し。
算ずることなのであった。




