スパイ
スパイ、諜報員、密偵、忍者。
・・・忍者までいってしまうと、イメージにずれが生じるが、おおむねその仕事は敵、そこまでいかなくとも、競争相手となる組織の隠している情報を探り、時として活動の邪魔をする事である。
そして日本は、スパイにとっては天国のような国、らしい。
曰く、諸外国のような防止法がない。
曰く、独立情報機関がない。
曰く、産業技術や防衛情報の持ち出しが簡単。
曰く、検挙しても罰則が軽い。
他の国ではきちんと法整備され、敵対するその国のスパイを警戒しつつ、情報、品物を厳重なセキュリティを掻い潜って奪取しなければならない身とすれば、二十一世紀が始まって四分の一が過ぎたこの時期に、ようやく、防止法を作ろうかな、ぐらいの国家があるなんてのは到底信じられず、一面のお花畑に見えても仕方ないだろう。
「おいおいマジかよ」
他国での任務をおえ、休暇がてらに日本に赴任したエージェントは、電車の網棚に置かれたままだった新聞を手に取り、まばらな乗客の耳に届かないようなボリュームで呟いた。
そっと、紙面の一番上を確認する。これが特定の層向けで片寄った意見の掲載紙なら納得できるが、発行元はそうではない。
「一般紙が、スパイ防止法の反対意見を取り上げる、だと?」
本国では絶対に考えられない。
実際に目にした今でも、どこか、どころかまるっきり。実は自分がスパイだとばれていて、偽の情報を握らせるため、わざわざ作ったフェイクペーパーだと言われたほうが納得できる。
「これが、平和ボケってやつなのか?」
ボケにも色々ある。
文字通りぼーっとしたもの。
そして。
記憶の差異によって攻撃的になるもの。
「気を付けないとな」
プシューという空気音とともに開いたドアから出てホームへ。新聞の端を密かにちぎり取り、本体をゴミ箱に放り込む。
昔ならそのまま灰皿に直行して、目を通した指令の書かれた紙片をタバコに火をつけるのと同時に処分したのだが、最近はコンビニの前まで行かなければならない。
「スパイの仕事より、喫煙のほうが形見がせまいって、どうなってるんだ?」
彼の呟きは、もちろん。
誰の耳にも届かない。
別にあこがれたわけじゃあない。
ほんのちょっと期待しただけだ。
ペン型のカメラを操ったり、ギミック満載の車で逃げるのを。
もちろん、映画やコミックのような活動がフィクションなのは知っていたが、ここまで活動が地味、かつ、精神的にきつくなるとは思っていなかった。
スパイだからそれだけ活動してればよい、というものではない。
当然隠れ蓑がいる。
表向き自分は日本でいう外資系のサラリーマンなのだが、とにかく上司のあたりが悪い。バリバリ働いて、残業して、夜は飲み歩いて人脈を形成し、休日は勉強に余念がない、なんて生活がスパイ活動と、とことん相性が悪いのはお分かり頂けるだろう。なら当然閑職にまわされるのだか、これがまあ、左遷と相性が良いのだ。
何らかの問題を起こして飛ばされた人間とその部下。しかもそんな人物に極秘の秘の情報=部下が政府エージェントなんてことは伝わるわけがないので、相手するのがめんどくさたらないのである。
次に、仕事内容。隠れ蓑ではない方の。
バリっバリの諜報活動ではないなら、なにをするか、しなくてはいけないか、というと。
ズバリ、中間連絡だ。
エシュロンという通信傍受システムはあまりにも有名だが、表向き何もしていない風な日本でも、デジタル通信であるならば、額面通り、監視が無いと受け取るのは危険である。ChatGPTにエージェントが工作内容を相談していた、なんてのは当然ながら事実と異なる笑い話だろうが、スパイ活動の連絡をメールや通話でするわけにもいかない。
今回の指令が電車の網棚に置かれた新聞だったように、指定されたコインロッカーに指示された品物を預け、本当にいいのか? と疑りながらコンビニに傘を忘れる。恥ずかしさをこらえながら指定された場所で小声で叫び、謎解きゲームが流行った時には、失くなってる封筒の件をあわてて報告する。
・・・もしかしたら、いまだにどこかの家の机の引き出しに、暗号化されたエージェントへの指令が眠っているのかもしれない。
・・・永遠に解けない謎として。
さらに気が滅入るのは自分よりも先の人物に会わなければいけない時だ。
「・・・」
軽く手を上げ挨拶した相手は若い男だ。
本国から、この国に留学しているだけの。
最初は「なんで国費留学でも、推薦されたわけでもない自分が!」と騒いでいた彼も、少し考えたなら理解できたのだろう。
そんな国との関わり、それも恩で繋がったような人間は真っ先に疑われるということが。
かといって、最初、割りのいい小遣い稼ぎだと思っていた軽い悪事が、どんどん重くなり、しまいには自国にいる家族の構成や、住所なんかをほのめかして、こちらの意図する行動を強要するやり方が、受け入れられるわけでもない。
「今回も無理でした」
少々声にふて腐れたような成分。
積極的に活動するわけではないが、まだ、彼はましな方だ。ネットに書き込んだり友人に愚痴ったりしないのだから。
「その件だか、もういい」
「はぁ?!」
上ずった声、少し大きめの声にあたりの視線が集まる。
「もういいってどういうことですか?!」
「言葉通りだ」
理不尽な命令から解放され喜ぶかと思った相手の顔がどんどんと赤から白へと変わっていく。
「ああそうではないよ。我々はこの件から手を引くだけだ。心配ならこう付け足してもいい。別のアプローチ手段が見つかった、と」
「・・・そうですか」
最悪の結果=役立たずと判断され何らかの罰が与えられるわけではない、とわかったのだろう。ようやく彼のほほに赤みが戻る。
「中止理由は話せないが。もし君が望むならプレミアムエコノミーを当たったことにできる。大学も春休みだ。国に戻ってみてはどうかね?」
「まさか ?! この国の総理の発言が元で ?!!」
戻った顔色が再び漂白されていく。
何を想像したか知らないが、驚きの白さだ。
「何を考えているかは知らないが、飛行機代は今までのキミの働きへのボーナスだ」
「それなら・・・」
「それとほら。例のシールも用意したぞ。妹さんが欲しがっていたのだろう?」
うちの国では珍しく、正規メーカー品である。
「まさか?!」
いや、まさかはこっちのセリフである。
膨らんだシールからこいつは何を感じ取ったのか。
それにしても解せぬ。
『今すぐ全活動を休止せよ』とは。
本国、または上層部で何が起こった?




