町中華の料理人
開店祝いに取引先から贈られたであろう赤地に白い文字の、のれん。開けるのに少しのコツがいるガタガタと鳴る、重いガラスサッシ。そして料理屋の宿命のように真っ黒でぎとぎとに汚れた換気扇ダクトから漂うこれまたこってりとした、におい。
孤高の一人メシ好きのおじさんなら入る前に「アタリだな」と呟きそうな、中華料理の店は───
───何があった?! と口にしてしまうぐらいには変貌していた。
一番に目を引くのは入口のサッシにはまったガラスだろう。いや正確にはガラスに貼られたものか。こめ、アスタリスク、バッテン=米、*、×。似ているようでどれとも違うのは貼った人間がいいかげんなのか、よほど急いでいたからか。とにもかくにも飛散防止を目的に貼られたガムテープは台風対策だろうか? いや違う。いくら昨今の地球が “温暖化” いや ──これは民衆に対するおためごかしであり── 実際には “灼熱化” しているとしても、二月の末の日本に台風が上陸、なんてのはありえないだろう。・・・たぶん、きっと。・・・今のところは。
ならなんのために? と答えを導き出す為のヒントを探せば、常連、とまではいかなくとも月一ぐらいで通った人なら気づくだろう。
店のまわりがなんだかスッキリしていることに。
良いと悪いを天秤にのせれば、やや悪いに傾く ──ただよわせる食欲をさそう匂いを追加すればたぶん釣り合うであろう── ちょっと歩道にはみ出していた材料の入った段ボール箱がない。ついでに廃油の一斗缶もない。あるのはカラス避けのネットからはみ出しそうな市指定の半透明のごみ袋だけ。
貼られたガムテープのすきまから店内をのぞけばテーブルの位置も変わっている。
入口のサッシの左右なんて不可思議なところに。
そして最大のヒント、というよりかはほぼ答え、は。入口のガラスサッシにデカデカと貼られた紙に書いてあった。
・本日餃子定食のみ。
・他の料理を注文される方は材料持ち込み。(仕込みの都合上時間、かかります)
・前金制(時価)! 物々交換大歓迎!!
そして────
ひときわデカデカと書かれていたのは───
・強盗、食い逃げ、お断り!!!
・こちとらにゃあ、あっつあつの油と中華包丁があんのをわすれんな?! おおぅ?
・・・どこの世紀末だ?
ガタガタガタ。ガタガタ、ガ、ガガ。
ザクッ。中華包丁が白菜を刻み始めた音と同時に。店主、家族連れのお父さん、カウンター席に座ったカップルの男の方、孤高の一人客のおっさんの視線が一瞬で我が身に突き刺さる。
「千円でいいですか? いや千百円?」
キョロキョロと見まわしても数字が見当たらなかったので、とりあえず北里先生をピンク色の固定電話の横に置いてみた。
刺さった視線が抜けていく。
誰よりも早く鍋に視線を戻したのは、口を開かず、少しだけアゴを引いた店主だ。
どうやら時価当てには成功したようだ。
まあ、一人だけでは手が回らないからなのか、他の理由からなのか。回収もされず重なった北里先生や野口先生や二枚組の五百円を見れば正解はすぐわかるのだが。
水はセルフサービスだった。当たり前だが。
昔、持ってきてくれたおかみさんは、黒ぶちの額に入って店内の一番高いところ───元はブラウン管テレビのあった場所───で笑っている。
料理名の書かれた紙、日にやけて茶色くなったメニュー名の下には新しい紙が貼られている。それはもちろん値上げ後の金額ではなく───
レバー、ニラ、モヤシ、タマネギ、調味料一点、油歓迎。
豚肉、キャベツ、調味料一点、味噌歓迎、豆板醤ならさらに善し。
小麦粉、タマゴ、豚肉(チャーシューは縮むので不等価交換となります)
───持ち込んで欲しい材料だ。
とはいえそれほど厳格でもないのだろう。
米歓迎! と書かれているからには、主食と引き換えに余った材料、メニューから離れたところに掲示されてる「不足してます」のとなり「今あります」の材料なんかでも調理はしてくれるのだろう。
現に今店主の振った鍋で踊っているペアは白菜と鳥肉だが、甘味噌で和えれば回鍋肉と言って差し支えはないだろう。たぶん、きっと。
ほぅ。
キリッと冷えた液体をゴクリとやって、思わずため息をついた。
この一杯にもお金を払ってもいいぐらいだし、実際に取ってるところもあるのだが、ここの店主はそれをよしとしないらしい。
あくまで自分の仕事で金を取るという信念なのだろう。
「ん」
コトリと置かれた。大皿に乗った焦げ目のついた餃子。言わなくとも大盛に盛られた白米。・・・何杯飲んでも材料がわからないみじん切りネギがちょっと浮いたスープ。
「頂きます」
「ん」
おそらくこのところほぼ満員の店でもタイミングが合えばこんなこともあるのだろう。
自分が入った時にいた最後の先客が出ていき、店の中には二人だけどなった。
ばさり。
調理場の隅に置かれた椅子、まあるい座面の下で曲げられたパイプがクロスしたシンプルなやつにどっかりと座った店主が、もう何回も読み返したであろう縁がところどころ破けた新聞を広げる。
そわそわ、ちょろちょろ。
無意識にさ迷う古い古い火傷と切り傷のあるシワだらけのごつい手に、おかみさんが健在だった頃は探しもしなかったタバコを差し出す。
「ん」
少し見開いた目をした店主にライターの火を差し出す。
「料理人が!」と。顔をしかめる人もいるだろうが、自分はかまわない。
何年も、何十年も積み重ねられた仕事は、細くたなびく白煙なんぞには邪魔されないのだ。
ごーーーーー。
・・・ええ、店主がスイッチを入れた中華料理屋ご用達しの超強力換気扇もありますし。
もっちりとした皮にパリッとした焼き目。
中の餡に混ぜられた煮こごりが豊富な肉汁となって舌や口内を火傷させようと企む。
醤油、酢、ラー油。
最近、でもないが酢にたっぷりの胡椒派も増えたが自分はやっぱり餃子には黒いタレが一番だと思う。
端をタレにチョンとつけて軽く一口。吸い込まれる余地を作ったらもう一度。白米のてっぺんにバウンドさせて残りを口に放り込んだらすかさず米粒をかきこむ。
タレ、白米、餃子。
これ程食べていて幸福をもたらすものが他にあるだろうか?
甘味オンリー。
脂質と塩味。
塩味と旨味
・・・結構あるな。
とはいえ、今は目の前のご馳走である。
いつまで食べられるかわからない、いや本当はわかっている定食に集中しなければ。
「ご馳走様でした。・・・なんか持ってきて欲しいものありますか?」
何を隠そう、いや何も隠すことはない。
実はこの餃子に使われている豚肉白菜ニラにんにく、ついでに醤油酢ラー油も自分が数日前に持ち込んだものだ。
「ん」
店主が指差した先「不足してます」の下には。
米、豚肉、白菜、キャベツ、しいたけ、ゴマ油、味噌、砂糖、醤油・・・。
ほぼ中華、というか料理屋で使う材料が書かれている。
「手に入ったらまた持ってきますね」
「ん」
茜色。近ごろ見ないほど綺麗な夕焼けでオレンジ色に染まった店内に漂う吸い込まれる前のひとすじの煙。
ああ、この店に初めて入った時も。
まあ、あの頃は手を伸ばした重いガラスサッシもスムーズで。ベタつく床もさらさらしてて、何より店主のとなりには──。
「ご馳走様でした」
「ん」
短い一言になにやら込められたような気がして振り向いた。
「これ、本当だと思うかい?」
近ごろ、いやおかみさんがなくなってからだから、もう十ン年か。
めっきり口数が減った店主が珍しく意味ある文章を口にした。
「ん」店主の御株をお借りした自分が指差した先には・・・。




