56 生きる災害、ドラゴン
真っ白で、高級な装飾品にしてあるような美しい鱗。
圧倒的な体の大きさ。
他のどの生物とも違う、高次元の存在。
ドラゴン。
女はそれと遭遇したとき、死を覚悟した。
彼女も腕には自信があった。
高倍率なギルファス家の選抜試験で二次試験まで突破してきた魔法の才と技量。
だが、そんなもの「この存在の前では無に等しい」。
所詮人間の域を出ない彼女など、ドラゴンにしてみれば無力な赤子と変わらない。
ただ一点、違いがあるとすれば、彼女は自分の足で逃げることができた。
無論、逃げ切れるかはさておき、自分の意思で走ることができた。
頭では自分の死を理解していながら、それでも生き物としての本能が、諦めることを許しはしなかった。
ドラゴンは存在することは知られているが、それを見た人間はそう多くない。
世界の中で個体数が少なく、人間を食べるものの、食べる量が少ないようで、人里で暴れるような事態もそう起こりはしない。
人々から畏怖を感じられながらも、他人事と捉えているドラゴン。
それが不幸にも、たった今自分のことを狙っている。
空から無機質に見下ろすドラゴンの目を見た時、この存在は人間と同じかそれ以上の知能を持ち合わせていながら、一切、情というものを持ち合わせていないことを悟った。
呼吸が苦しい。
死を目前に、足は止まることを許してはくれない。
走りにくい森の中で、転びながらも、傷を体に作りながらも、最期の瞬間まで走り続ける。
羽ばたきによって生じた暴風の如き風圧と共に、ドラゴンの大きな体が周囲の木を薙ぎ倒し、着陸する。
すぐ後ろに、その時が迫っていた……。
「 「形状その1」! 」
突如としてどこからともなく伸びてきた金属がドラゴンの目に当たる。
確かに目に直撃した。しかし、ドラゴンは瞬きすらしない。いや、まぶたがないのだ。代わりに透明な鱗が目を覆っていた。そのおかげで、棒が当たっても目は無傷であった……。
自分の目に飛んできた金属の棒を、落下途中で大きな頭で振り払う。
棒は飛ばされ、遠くの方へ落下する。
声がした。女は振り返るには恐怖が強すぎた。ただただ、命があるかぎり、この場から逃走をしようとするのみである……。
「やい、ドラゴン! こっち見ろ!」
少年の声であった。
女は、あまりにも無謀な何処かで聞いたことのあるその声に、いっときでも命が繋がったことを感謝した。
ドラゴンは少年を……ルナットを見る。
ルナットはすぐ近くの木の上で、ドラゴンに背を向ける体勢をとる。
「お尻ペンペーン! あペンペンペン! へいへいへい!!」
挑発的な行動に出るその表情は、真顔。
ルナットは真剣だった。至って真剣に、ルナットはドラゴンの気を自身に向けようとしていた。
少しでもルナットに気を取られていれば、女が逃げ延びる可能性は増えるのだから。
ドラゴンは振り返る。
彼が意図した通りに、女への強襲を止めて。
ルナットは自分のパフォーマンスが功を奏したと思った。
しかし、そうではない。
もし、他の人間が邪魔をしたとして、ドラゴンは意に介さず、先に食事を終わらせていたであろう。
地面を震わせる、森中に響き渡る音がした。
「不可解な事象が余の前に発生しているな。なんだ、貴様は。ニンゲンか? 「存在の熱量」が感じられぬ」
ルナットはあまりのことに辺りを見回した。
音はドラゴンの体から発されているわけではない。おそらく魔法によって音声が作り上げられているのだ。
しかし、それよりも……。
「ドラゴンって………………喋るんかーい!!」
人間以外の生物は皆、言語を持たないと思っていたルナットは、ここに来て初めて会話ができる人間以外の生命体と出会した。
ドラゴンは目の前の存在を黙って観察している。
ルナットは時間稼ぎ半分、好奇心半分でドラゴンの問いに答える。
「俺はルナット・バルニコル。ギルファスの選抜試験に参加してる一人だよ」
「この場に現れた目的はなんだ? 余がドラゴンであると知っていて……」
「溶岩( よーがん)?」
「余……自己を表す一人称だ。ドラゴンである余の前に姿を表すことがどれほど身の危険を伴うか、よもや理解していないではあるまい。再び問う。目的はなんだ?」
「目的なんて、そんなの決まってるよ。襲われてる人がいたから助けたんだ。言葉が通じるなら、大人しく帰ってくれると嬉しいんだけど」
世界最上の獣は、目の前にある " 空白 " に強烈な違和感を感じ取っていた。
だが、ようやくこの存在が人間なのだと、いや、少なくとも人間らしきものなのだというところまで認識が追いついた。
「愚かだ。しかし、合点はいった。そのニンゲンは貴様の知己であるのか」
「チキン?」
「……互いを知る者という意だ」
「知り合いかって事? いや、見たことはあるけど、直接話したことはないよ。多分。あんま関係ない人だと思う」
ルナットはそう言いながら、女のことをどこで見たのかを思い出していた。
そうだ、あの細身……。元々シェリアンヌ派だったのが、二次試験後に離脱したモデル体型の女だ。
ドラゴンは『風魔法』の使用によって、空気を震わせ、言語を奏でる。
「全く愚かだ。それでは同種だというだけで、自身を危機に晒し、ドラゴンである余の行動を妨げようとしたというのか。理解できぬ。我らドラゴンと違い、この地にニンゲンの個体は余りにも多い。一個体が死したとて、貴様になんの不都合があろうというのか」
ドラゴンは知っている。
人間は時に、妙な感情に囚われて自己犠牲などという行動に出る。
理解不能だが、目の前の存在がそうした行動をとることが、奇怪な行動ではないと知っている。
「なんだか言ってること難しくてよくわかんないけど……人間は助け合いなんだよ、ドラゴンさん。このまま引いてくんない?」
「それは余に貴様の都合で、食事をせず、帰れということか? 余りにも身勝手だな」
「食事かぁ……。勝手を通させてもらうと、食事は人間以外の動物にしてくれると嬉しいな」
「断る。理由はニンゲンが最も【生命エネルギー】に溢れている獣だからだ。他の生物では、余の充填を担うには、それなりの量が必要となる。ニンゲンを食すのが効率的だ」
兎にも角にも、ドラゴンが奇怪に感じていたのは、ルナットの行動などではなく、どこまで行っても目の前のニンゲンを名乗る存在の気配の不自然さだ。
数百年と生きてきたが、このような存在に出会ったことはなかった。
……だが、ニンゲンであるとするのであれば、やることは至極単純である。
「貴様は【食】としては不十分だが、消す必要がありそうだ」
小屋ほどの大きさの足がルナットを踏み潰そうと飛んでくる。
『移動』→《自由移動》
咄嗟にルナットは『身体起動』によって、体を加速させて避けようと試みた。
機動力があれば、ドラゴンを最悪足止めくらいしてから逃げる事くらいはできると踏んでいた。
ところが、あり得ないことが起きた。
この世界に来て、初めてのこと。魔法操作のエラー。
機械製品のフリーズのよう。
ルナットの額に嫌な汗が滲む。
魔法が…………………………発動しない………………。
魔法をあてにして木から飛び降りたところ、うまく発動しないので、枝にぶつかりながら、お粗末に転がり落ちてしまう。
迫ってくるドラゴンの足。
木や岩石など、まるで意に介さない、理不尽な怪力。
一瞬でその場が更地へと変わる。
(危なかった……)
魔法による加速ができない中、ギリギリ踏み潰されることを避けることができた。
ルナットは、この世界に来て、いくつかの戦闘経験を積んだことで、即時次の行動へ切り替える思考が身についていた。攻撃手段を何か考えなくてはならない。
不意打ちで目に攻撃した一撃すら、ダメージにはならない。
その上、魔法が使えないこの状況……。
完全に手詰まり。そんな言葉が頭の片隅に浮かぶも振り払うルナット。
(とりあえず、さっき、高いところにいる頭のあるドラゴンの目を目掛けて『杖』を投げてしまったから、弾かれて遠くへと飛ばされちゃった。間に合わないと思って投げたけど、あれを回収しないと)
おおよそ『杖』が飛ばされた方角はわかる。
『杖』があっても、それで何ができるとも思い付かないが、武器がない状況は余りにも心許ない。
だが、『身体起動』が使えない今の状況で、取りに行くにはそれなりに距離がありそうだった。
ドラゴンは身を翻す。
まだ遠くまで行っていない、さっき追っていた女を襲うため。
女は怪我をしていて、完全に心が折れてしまっている。
ルナットは、このままでは彼女が殺されることを理解していた。
(まずい……どうしよう)
『杖』を取りに行く時間はない。
有効な攻撃手段はないけど……。
「ハズレだぞ! 全然踏み潰せてない! こっちだこっち!」
やれること、それは大きな声で注意を引くこと。
ドラゴンはルナットを無視することができない。
なぜなら予感とも思える不安があった。この、異質な存在は、自分たちにとって脅威になり得るのではないかという。ドラゴンには直感能力や未来視の能力はない。しかし、数百年という長い年月生きた中で、感じたことのない気配に過剰に反応していた。
それだけドラゴンにとって珍しいことだった。
対して、手負の【食】など、取り逃しても、また別のものを探せば良いだけである。
ドラゴンは、声のするあたりをもう一度踏みつける。
しかし、ドラゴンは正確にルナットを捉えられてはいない。またしても、ルナットは回避に成功する。ここで、ルナットは一つの勝機を見出した。
____ドラゴンは目が悪い。
戦闘においてドラゴンが人を遥かに凌駕するのはシンプルに三つの要素が優れているからである。
まず攻撃面。単純に巨体であることで筋肉量が違う。また魔法の種類は人間を超えるほどではないが、人類では到達できない高出力な魔法をつことができる。
次に防御面。目や口を除き、全身が特殊な鱗で覆われていて、ありとあらゆる衝撃や魔法が軽減される。そしてドラゴンの周囲では魔法を発動することができないという性質があるため、魔法に頼った戦い方をしてきているこの世界の人間にとってはまともに攻撃をすることすらままならないのである。
極め付けは感知能力。ドラゴンは五感は優れていない。しかし、人間には備わっていないある感覚を持っているため、背後であろうが、足元であろうが、その巨体にもかかわらず周囲にいる人間を逃さず感知することができるのだ。
ルナットがこのとき幸運だったのは、彼の持つ「ある性質」がドラゴンの感知能力を完全に無力化していたということだ。ドラゴンはルナットをあまり得意ではない目視で捉え、あるいはそのあたりにいるであろうという予想でデタラメに暴れるのが関の山であった。
当たれば致命傷。
けれど、ルナットの身体能力を持ってすれば、ろくに位置も分からず足や尾を当てずっぽうに打ち付けるだけの攻撃はそうそう当たりはしなかった。
無論自分の幸運にルナットは気がついていない。
もしもドラゴンの本来持つ感知能力が正常に効いていたのであれば、魔法による身体加速もできていない今のルナットをドラゴンが踏み潰すことは、数秒もあれば容易いことだったはずだ。
足元をちょこまか動き回る、人間を自称する意味不明な存在。
ドラゴンとは人以上に理知的存在。感情に任せて冷静さを失う愚かな生き物ではない。
しかし、苛立ちは確実にその内面に積もっていた。
ドラゴンは翼を羽ばたかせ、疾風の如き速度で飛び上がる。
地上から遥か上空へ。
ルナットを消すことを諦めたのか。
……否。
天に溢れる【魔力】が振動する。ドラゴンの体内に内蔵されている多量の【魔力】が、一つの現象へと昇華していっている影響だ。周囲の【魔力】の共鳴現象である。
炎の塊が地上とドラゴンの間でマグマのように膨れ上がっていく。
特大魔法。
人とは次元が違う規模の高出力の魔法。
ルナットの位置が正確に把握できずとも、小器用に逃げ回ろうと、辺り一体を燃やし尽くせば、無関係。
魔法のないルナットの身体能力では、逃げ切ることは不可能だった。
全てを焼き尽くす灼熱の業火が地に降り注ぐ。
地面は焼けこげる。周辺にあった木々はもちろん、岩すらも溶かして跡形を残さない。
殲滅。
シンプルだが、破壊的な『炎魔法』。生き残ることなど不可能である。
ドラゴンは次の目的地へと意識を向ける。
手負の【食】は逃してしまったが、もうそれはどうでも良い。
この地上で最強の生物は、「 他の【食】で空腹を満たすことにしたのだった 」。




