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梅雨も上がれば

 春の頃より、先生が机にむかう日が増えたてきた。

 最近では誰より早く起きて机にむかい、飯と眠る時以外はほとんど机に張り付いている。

 あれほど細々と食事を作るのが好きだった先生が、今や出前に頼る生活である。

 なにが気に入らないのか、書いた紙を丸めて放り投げることもあった。

 私との会話も減りつつある。机に取り殺されてしまうのではないか、と心配になるほどだ。

 まさにそれは取り憑かれているほどの偏執ぶりである。編集部の人間が心配して家を訪れるほどだ。

 この小説を書き上げるまで、ほかの仕事も受けないというのである。いつもの穏和な先生からは想像もできないほど、頑固である。

 先生と出会っておよそ一年。これほど仕事に没頭する先生を見たのは初めてだった。



 春はあっという間に終わり、あれほど美しかった桜の花は散った。あとに残ったのは桜の残り香が染み込んだ葉桜である。

 しなやかなそれが濃い緑色にかわり、鬱蒼と茂り始める。

 その葉にぬるい雨が降り注ぎ気温が上がり、梅雨が来たのだと私は知った。

 梅雨だというのに、空梅雨である。日差しばかり暑くなって、むしむしと湿っぽく体の堪える日々である。

 おかげで新緑の影もしおれて見える。いっそ通り雨でも欲しいような気候だった。

 珍しく先生が私を買い物に誘ったのは、そんな蒸し暑い日のことである。


「猫殿、長らく心配をかけました。買い物でもいきませんか」

 先生が机に眼鏡をおく。目の周りはクマが生まれ、先生の体は以前よりも小さくなったように見える。

 手は墨で汚れているし、服だって着たきりでぼろぼろだ。文字を書くというのは、それほどに疲弊するものなのか。

 先生はこの数ヶ月で、すっかり老け込んだ。

「小説は、うまくいっているのか」

 私はわざと心配していない顔をして、その場で体を掻いてみせる。

「ひどく没頭しているじゃないか」

「おかげさまでようやく終わりが見えてきましたので、今日はもうここで筆をおきます」

「そんなに必死に書かなければならないものかね」

「そうですね……」

 先生は机に積まれた紙を見て、愛おしげに笑う。

「体はこんなになりましたが、久しぶりに心が充実している思いです。本当に……久々に、私は若い頃を思い出しました」

「そうか。しかし体を壊しては」

「分かっております。だから買い物に出ましょう、久しぶりに」

 なので私たちは、久々二人で買い物に出ることになった。



 だいたい買い物などといって誘うのは、先生なりの方便であった。

 まっすぐに商店街に向かえばいいものを、先生は神社の境内を抜け、石段で休み線路をのぞき、田圃で鳴く蛙の姿などを眺めて歩く。

 ぬるい風が髭を撫でる。ようやく雲が雨をよびそうだ。

 風は重く、緑の木々は湿気で頭を下げている。

 それに気づいた先生は足を商店街に向けた。

 まず立ち寄ったのは酒屋である。小さな瓶に入った日本酒を手に入れ、いつもの八百屋でタケノコをじっくり選んで一つ。

 さらに隣の魚屋で、虹色に光る鮎を買い求めた。

「この鮎はいいよ。すごく新鮮で、肝も臭くない」

 と、魚屋は絶賛した。

 ようやく調理をする気力になったのだろうと思うと、私は妙にうれしくなった。

「先生が酒とは珍しい」

 周囲に人がいないことを確認して私は人の言葉を口にする。

「覚えてませんか」

 先生は荷物を抱えて歩きながら、静かに笑った。

「今日は、一年前、あなたと初めて出会った日ですよ」

 むわっとした熱気が私の耳元を通り過ぎる。

 思えば、彼と出会ったのは、昨年の梅雨の頃。今年と違って、昨年はよく雨の降る梅雨であった。



 太陽は沈み西の端から闇が引き上げられ、時刻はすっかりと夜となった。

 私は体を舐めることに忙しく、先生は酒を飲むのに忙しい。

 狭い部屋なので、どうしたって二人の距離は近く、私の尾が何度も先生の膝を叩いた。

「しょうせつか、は金を儲けれられるのではないか。こんな狭苦しい部屋でようよう我慢できるものだな」

「広い家は苦手なのです」

 新鮮な鮎は、肝のついたまま焼き魚になった。先生は塩焼きで私は素焼きだ。

 骨までじっくり焼かれた一匹が私の前に差し出された。

 骨をかじって、肝まで食らう私を眺めながら、先生は鮎を静かにつついてちびちびと酒を飲む。

「広い家だと角にこう……不気味な化け物がおりそうで」

 先生は酒臭い息を細く吐いた。

 そしてわかめと共に煮つけられた、茶色いタケノコに箸を延ばす。炊く時は糠臭くてたまらないが、出来上がったタケノコは不思議と爽やかな香りがする。

「広い家では、隅々までみえないでしょう。私の見えないところに化け物がおりそうで」

 天井からつり下げられた電灯が、かちりかちりと音を立てて揺れている。

 家の裏には線路がある。電車が通るたびに家は揺れ、電灯も静かに左右に動く。

 そうすると、部屋の影も左右に動いて私は猫の本能からそちらばかり目で追ってしまう。

「猫殿がなにもないところを見るのも、実のところ恐ろしいのです」

 人の言葉を理解しても本能とやらだけは、どうしようもない。

「笑ってください猫殿。私は恐がりなのです」

「それが笑い処なのかどうか、猫の私は理解できない」

 先生を怖がらせるつもりは毛頭ないが、私はちらりと部屋の隅をみる。そこに線の細い女が小さく丸まって座っている。

 目が合うと頷くばかりの女である。

 春以降、彼女は自己主張をやめてしまった。ただ陰気臭く、部屋の中に居座り続けているのだ。

 何を尋ねても答えない女に、私はすっかり飽きてしまった。

「狭いと幽霊も、入り込まないような気がして、心地がよいのです。猫殿には狭くて申し訳がないですが」

 部屋が狭かろうが、不可思議な生き物はあちこちにいる。

 しかし恐がりの先生のため、言わないでおくことにした。そうした優しさもあるのだと、私は最近知った。

「ところが猫殿がこの家に来てからというもの、不思議なことに恐ろしいという気持ちがなくなったのです」

 先生はしみじみと呟いて、鮎をつつくのをやめた。

「人の言葉を喋る猫の方が恐ろしいからではないか」

「人だってにゃんというのだから、猫が人の言葉を喋ったところで不思議はないでしょう」

 先生が、私と出会ったときと同じようなことを言った。


 そういえば先生と出会ったのは、昨年の今。梅雨の空の下である。

 いつまでもやまない雨に鬱々と私は軒先で雨宿りをしていた。

 猫ならばいくらでも雨を避けられる場所はある。屋根の隙間、家と家の間。

 しかし居心地のいい場所には、すでに先住猫がいるものだ。私は人の言葉を理解しない猫を、馬鹿にすることにしている。

 その気持ちが顔にでているのか、私は普通の猫と気が合わなかった。

 だから仕方なく軒先で雨宿りをしていると、先生に出会ったのである。


 それから一年、私は言葉をいくつか覚え、体は太り、毛並みは良くなった。

 そして、独り身であった頃、ずっと胸の奥にあった不快な、言葉にできない、重苦しい感情が最近は不思議と薄れた。

 ……その感情に、果たして名はあるのだろうか。

 母が山に登って以来、胸の奥でくすぶっていた不快な感情である。これが何であるのか、この部屋にある本にも載っていない。

 それを尋ねようと口を開けると、先生が先に口を開いた。

「……なんというのか、私がずっと恐ろしいと感じていた感情は」

 先生はしみじみと呟く。彼の目は、部屋の隅にあるカマボコを見る。

 その隣に女の影があるのだが、先生にはそれが見えてはいないようだった。

 先生のしょぼしょぼとした目が私を見た。

「……つまりは寂しいという感情であったようです」

 水の音が聞こえた。窓を叩く、水の音。

 待ち望んだ雨が、ようやく降り始めたのである。



「先生、風邪か」

 本格的な梅雨がきて数日後のこと、先生がやけに咳こむ日が増えた。

 朝も昼も夜も寝ている間も、咳が止まらない。熱もあるようだ。食事が細くなり、買い物に出る日もすっかり減った。

 そのくせ、小説を書く手は止めないので幾度も言い聞かせた。怒ったこともある。

 ようやく書くのをやめたが、それでも布団の中でとりつかれたように書いているので油断がならない。

 そのうち、先生の身を案じた編集の人間が、粥などを届けてくれるようになった。まだ若い男だ。

 彼は先生に無理をさせたせいかしらん。と、子供のように泣くのである。

 その涙を見ると、私は妙に不安にかられた。

 私も何か手伝いたいが、肉球ではさほど役には立たぬ。

「猫殿……心配をかけて……さあ。肺でも悪いのかもわかりません」

 人には病があるのだという。いや猫にもあろうが、猫は病に罹れば大概は山に行く。これまで出会った猫はそうだった。

 しかし人は哀れなことに病に罹っても、大概生きる。生きるが、やがて死ぬ。猫よりほんのわずか長く生きるだけである。

「だから言ったのだ。無理をするなと」

「そうですね。猫殿の言葉は正しい……年の功でしょうか」

 先生は薄い布団に寝転がったまま笑う。

 猫と人とは生きる早さが違う。私は確かに人の年数でいえばさほど生きてはいないが、猫としては長生きである。

「先生は私と同じくらい年寄りだろう。年寄りはそっと生きるものだ。猫でも知ってることをなぜ先生はわからん」

 人の年齢で換算すれば先生より年寄りであるらしい。だから先生は私に敬意を払う。猫殿と呼ぶ。

「検査にいってきますよ、猫殿」

 弱々しく先生が言った。立ち上がると、その細い体は、以前よりやつれた気がする。

 寝間着代わりの着物から、見える胸板が薄く儚い。

「検査とやらの答えはいつわかるのだ」

「さて一週間程度ですかね」

 こんこんと咳をして、先生は杖を手に取る。

 病院とやらに猫はつれていけぬ。私は一人、いや一匹で六畳一間に取り残された。

 女の霊も共にある。彼女は心配げな顔で私をみる。じっと見つめられると不安が伝染するようだ。

「見ておらず治せばいいのに、座って居るだけとは」

 霊に向かっていくら説教しても、女は寂しげに首を振るばかり。私はひどく苛々してしまい、窓にひょいと飛び乗る。

 窓は私がいつでも外に出られるように、開けられているのが常だった。

「全く役に立たん幽霊だ」

 どこへ行く気もなかった。ただ家にいるのはどうも具合が悪かった。黒いカマボコまで、こちらを見ているような気分である。

 だから私は、窓から外階段に飛び降りて線路を横切り、田圃を抜けて、その向こうにある神社に潜り込んだ。

 鬱蒼とした木に囲まれた神社である。古ぼけているのでもう誰も世話などしていないだろうと思ったが、不思議と掃除をする人間はいるようで、いつ訪れてもきれいなものだった。

 聖域というのか、ここだけは梅雨時期にも心地のいい風が吹いているようだ。緑が風を運ぶのか、ひやりとした風が毛を撫でる。

 鳥居の側にはお百度石というものがある。

 この石と建物の間を、願いを込めて行き来する。そんな人間を幾人か見た。百回行き来すれば願いが叶うというのである。

 ばからしい。歩いて願いが叶うなら、私の願いなど何度も叶えられてきたはずだ。

 しかし私は、何の気もなく、石の間を往復してみた。一回、二回、とてつもなく楽であった。駆ければ一瞬である。

 ただ一気に百回行き来する猫というのは奇妙であろう。一日何度と回数を決めて踏めばいい。

 これならば、百度など気軽なものだ。と私は考えた。

 回数を数える指をもたない私は、一度参拝するごとに、落ち葉を木のうろに落とすことにした。

 一度踏めば一枚。百枚ためたところで、なにが起きるとも思えない。

 猫の信心が人間の神に届くとも思えない。猫は神を信じないものである。信じてもらえぬ神が猫の言うことを聞くとは到底思えない。

 それでも私は石を踏んでは、落ち葉をくわえた。

 先生に見つかっては気まずいので、その秘密の往復は先生の居ないときに限られる。そのせいか、簡単に思えた百回には、なかなか到達できない気がした。

 何より不快なのは、雨が降り止まないことである。あれほど待ち望んだ雨だというのに、石を踏む私にとっては鬱陶しい雨であった。

 鎮守の森と呼ばれる鬱蒼たる木々から、雨滴が垂れて私の顔を濡らす。

 それでも私は往復を止めない。木の葉は、木のうろから漏れそうになっていた。

「完成したので、ようやく療養に集中できます」

 顔色の悪い先生が、満面の笑みを浮かべたのはそれから一週間ほど経ったあとのことである。

 細くなった手には、原稿用紙が握られている。私は思わず目をつり上げた。

「そこまでして、書き上げねばならないものだったのか」

「そうですね。これは……亡くなった妻と約束をしたものなのです」

 先生の目は過去を見ている。思えば、この小説を書き初めて以来、先生の目はずっと過去を見ていた。

「妻とは約束事など、したこともないのですが、なぜかそのときは約束を交わしたのです。亡くなった彼女には見せられませんが、約束を果たせるのはうれしい。そして、若い頃のことを思い出しましたよ。体がそれに耐えられなかったようですが」

 風呂へ、と先生はよたつく体で風呂場へ消えた。湯の音がたち始めた頃、私は静かに黒いカマボコをにらんでいた。

「何だ結局、おまえのせいというわけか」

 カマボコの隣、女が立つ。彼女は相変わらず凛とした姿で立っている。

 私は無性に腹立たしく。尾で畳を幾度も叩く。

「先生の病も治さず、病のきっかけになるような真似をしたのはおまえだろう」

 八つ当たりだと、分かってはいた。しかし湿っぽい悪態が口からあふれてとまらない。

 それでも女は無言である。やり遂げた顔をして、凛と澄ます女の顔が無性に憎らしかった。



 女と目線を合わさず、先生とも会話が減った。

 それでも相変わらず雨は降り止まず、先生がカマボコ板の前に座る回数が増えた。

 検査とやらの結果は、一週間といったにも関わらずまだ出ない。

 猫はカレンダーなど見ぬものなのに、私まで気になってカレンダーをのぞく日々が続いた。

 薬のおかげで咳はおさまったが、体はまだ落ち着かないようで、カマボコ板の前で祈る背はますます丸い。

 私は部屋の隅に座ってその背をみる。先生の本当の家族は、よもやあのカマボコ板にいるのではないかと私は思う。

 そう考えた私は、自分の気持ちに焦った。

 私はただの猫である。猫の居候である。

 居ても居なくても、先生の生活にとってみれば、なんら変わらないただの猫である。

「粥のひとつも作れなくて、申し訳がないな先生」

 ある夜。早々に床に入った先生の枕元で私は呟く。

「猫殿に気を使われるとは」

 先生は笑って、その皺だらけの手で私の毛を撫でる。

 家猫になりきった私の毛皮は、すっかり柔らかくなっていた。猫の習性か、撫でられると喉が鳴る。  

 その平穏な音はこの場に似つかわしくなかった。

「……私と先生とは、何であろうか」

 ふと、私は呟いた。先生の六畳一間を間借りして一年、笑ったことも喧嘩をしたこともあった。深い哲学を語ったこともある。

 飼われているなど、私は一度も思ったことはなかったし、先生もきっとそうだろう。

 先生はしょぼしょぼと目を細めて笑う。口ひげがもごもごと動いた。

「家族でしょうか。猫殿は」

「先生と? 血の繋がりなどもない種族も違う」

「では、擬似家族というものでしょうかな」

「擬似とは偽物か」

「いえ、本物に非常に近いということですよ」

「本物ではないということではないか」

 外を降る雨がまた強くなった。遠くから終電の電車が近づいて来る。

 光が窓から差し込んで、部屋に影が落ち、電灯が揺れ、家が揺れる。真下を電車が駆け抜けたのである。

「本物ではないから、切なく不安。本物ではないから、愛おしい。この感情は、恐らく一対のものでしょう。少なくとも私は」

 先生は軽く咳をした。

「猫殿と共に居られて、幸せであるのです」

 差し出された手に、私は鼻を押しつける。そしてゆっくりと、老いた指に頭をすりつける。

 先生が私の頭を撫でたことはほとんどない。

 私と先生はあくまでも対等な立場であった。

 愛玩動物を相手にするような真似を、先生はけしてしなかった。

 しかし今宵先生は私の頭に手を伸ばしてきた。

 手を近づけるのは人間の流儀。鼻を近づけ、頭をすり付けるのは猫としての流儀である。

 私たちは今、はじめて親愛の証を交わしたのである。

 顔を上げると、涙が溢れそうであった。

 気がつけば朝である。私は眠る先生を起こさぬように外へ出て、鎮守の森へと急ぐ。

 うろの中に落ちた木の葉を数えると、気がつけば九九枚。木の葉をくわえて、いつもよりも静かに境内の道を歩く。

 雨上がりの森に日差しが差し込み、滴がきらきらと輝いている。緑の草が地面から生えて、それを蛙が跳び越した。

 風のせいか、それとも目に見えぬものがいたのか、本殿の鈴が鳴る。

 森には神がいるという。そも神社は神のおわすところ。ならば、猫の神も山から降りているかもしれない。

 猫は気紛れな生き物である。

「さあ祈ったぞ」

 百度目、石を踏み終わった私は天を仰いで呟いた。

「どうだ、祈ったぞ」

 ふと振り返れば、そこに女がいる。それはいつも部屋の隅で座るばかりの女である。彼女を外で見たのは三度目だ。

 一度目は、彼女との出会いの日。

 二度目は桜の屋敷の前のこと。

 いずれも彼女は静かに現れた。

 そして今、また女は静かに私に頭を下げて森へ消えて行く。

 ああ。彼女は山に登るのだ。なぜか私はそう思った。

 そして、同時に先生の病はなおるだろう、そう思った。


「すまない」


 先日の暴言を謝る機会を、彼女はとうとう与えてくれなかったのだ。と、私の心の中に後悔めいたものが残された。


「……すまない」


 女が心配をしていないはずが、ないのだ。誰よりも先生の身を案じていたに違いない。

 しかし女はそれを伝える声をもたなかった。私が人の言葉を喋る代わりに、彼女は人の言葉をもう口にできなかったに違いない。

「……ああ」

 顔を俯けた私の尻に、何か暖かいものが当たった。

 しずみこんだまま振り返れば、そこに小さな白い影がある。

「白猫の」

 それは子猫である。腹も顔も足もすべてが真っ白な、柔らかい毛皮を持った。

 ……まちがいない。例の彼女の子である。

 細い体でふらふらと、私の体に自分の身をすり付けてくる。しっぽは力なくたれ耳は弱々しい。鼻はすっかり乾いて目はうつろだ。

 ただ声だけが大きい。にいにいと、必死に鳴いて私にすがる。

 もう乳離れはすんでいるだろうが、まだ小さい。いや、餌のとりかたを知らないせいで、飢えているのだ。

 はぐれたのか、母猫がこの子だけを捨てたのか。鼻を近づけてみるが、母猫の匂いは薄かった。

 もう長らくこの子は餌を食べていない。放っておけば、雨に射られて死んでしまうに違いない。

 ちびは猫の言葉も分からないようだ。ただ同種を見つけて必死に縋りついて来たものとおもわれる。

 私は途方にくれて、やがてそっとその首筋を噛む。

 それは、叶わなかった遠い恋の味がした。



「ただの風邪でした……といっても、たちの悪い風邪で、下手をすると肺炎になっていたそうです」

 祈りのせいか、医学のせいか、先生の体調はみるみる良くなった。聞くところによると、こうせいぶっしつ。というものがいいらしい。

 つまり、医学のおかげで先生は救われたのだろう。

 こうせいぶっしつ、とは立派なものであるようだ。

「私が死んだ時、カマボコ板に、その言葉を刻んで貰おうか」

「猫殿にも心配をかけてしまって申し訳がない。休んでいた分、今から仕事をせねばなりません。あまり相手もできず申し訳無いが」

「猫は孤独に強い生き物だ。遊んで貰わねば退屈で死んでしまう犬と一緒にしないでほしい」

 私はあくびをかみ殺して、いつもの座布団に丸くなる。先生は背を丸くしてまたいつもの書き物に戻った。

 女は、あれ以来消えた。山に登り、また毛皮を替えて戻って来るのだろう。戻って来れば姿が変わる。私の母も、あの女にも、もう二度と会えぬ。

 人も猫も、人生とは別れの繰り返しである。いつも女が座っていた場所に光が差し込んで、窓の外にある木々が影になって降り注ぐ。

 その影に重なって歩く、白い固まりがある。

「ちび殿、あまり部屋を歩き回ると怪我をしますよ。猫殿も、注意をしてあげてください」

「雄猫は、怪我をして大きくなるのだ。怪我の一つもしなければ。立派な猫とはいえない」

 にゃあ。とちびが立派な返事をした。目が青く、母猫の血筋をしっかりと引いているのがまぶしい。

 立派な雄猫だがまだ子供だ。彼は私の見事なしっぽを標的に、一日中遊んで過ごす。

 猫としての流儀を教えるのは少し先になりそうだった。

「あなたも古傷がたくさんありますね。いつかその傷の由来を聞かせて頂きたいですね」

「そうだな、いつか話そう……いつか」

 腹の内側と右耳の傷には深く悲しい思い出が詰まっている。それは古い古い昔の話である。

 しかし今は、子猫が戯れる老体の一部にすぎないのだ。

 日差しが差し込む窓辺の一角。お気に入りの座布団の上で私は体勢を整え直す。

 気がつけば梅雨は終わり、鼻先には夏が訪れていた。

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