桜の散策路
寒さが急に和らぎ、生暖かい風が吹くようになった。
日に日にストーブの稼働率が減って、私も丸まらず腹を見せて眠れるようになった。
ある朝には羽虫が窓の外を飛んでいく姿を見た。
そろそろ冬が溶け、春が訪れようとしているのである。
「先生。ずいぶんと精が出る」
久しぶりに朝から窓を開けて、先生が掃除に精を出していた。それを見て、私は呆れたように呟いた。
「掃除などしても、どうせすぐ汚れるというのに」
「人間は二足歩行で手が自由になるものですから、ついつい空いた手で掃除や料理をしてしまうのです」
「猫は四本脚で助かった」
私はテレビの上で自慢の足をピンと伸ばす。ついでに、日差しで温まった背を掻いた。
久々に、暑いくらいの日である。テレビからは、今日は気温が上がるだろう。などと声が響く。
猫の身からすれば予報などばからしい。予報などなくても、天気は変わり季節はめぐる。
「もう春か」
窓を開けると生ぬるさを包んだ風が吹いてくる。私は本日、幾度目かの眠りに落ちそうになった。
「猫殿、今日の昼食ですが、あなたからすると少し匂いがきついかもしれない」
掃除を終えた先生が、額の汗を拭って台所に立った。
「懇意にしている八百屋が、春の味といってよこしたのです」
先生は腕一杯に、緑の野菜を抱えている。
それはねじくれた形であったり、丸かったり、長いものもあった。
どれも等しく奇妙だ。そして、どれも等しくひどく、臭い。
「臭いな」
私はテレビの上に飛び乗って、その臭いから逃れようとした。
「非常に臭い」
春の野菜は、香りがきつい。
長い冬の間、地中でため込んだ毒素を吐き出しているのか、それとも彼らなりの恋の季節なのか。恋の季節は猫も人も皆臭くなるもので、私は数ヶ月前の恋を思い出して苦い気持ちとなる。
「猫殿の鼻にはきつい香りだったでしょうか」
何か勘違いしたのか先生は申し訳なさそうな顔をして、こそこそと春の野菜を私の前から下げた。
「ウドは皮をむいて酢味噌がいいですね。白くてシャキシャキとした食感で、甘い酢味噌がよくあいます。少しかたい皮はきんぴらに……甘めの味付けにしましょう。そして、この綺麗なふきのとうと、たらの芽は天ぷらにしましょうか。噛みしめると、青臭い味がするのです。それがうまい」
先生は私に言い聞かせているのか、それとも独り言なのか、楽しげに呟いて野菜を洗い始めた。
「どれも春の味です。ほろ苦くて、あたたかい」
水を受けて香りは一段と強く広がったようである。
「つくづく人間は細かい」
いや人間ではなく先生が細かいことを好む性格なのだろう。
季節の味を、先生は好んだ。
量は食べないが、その時ごとの味にこだわるのが先生だった。妙なことだ、と突っ込めば、先生は「季節を飲み込んでいるのです」と笑って言った。
「灰汁をしっかり抜いて……ただ抜きすぎても面白くない。ほどよく抜いて……」
先生はざるに緑の葉を並べて流水で洗う。先生の指にまで青い香りが移り、まるで先生が春になったようである。
部屋に訪れた春の来襲に、私は辟易とするように部屋の角へと逃げ込む。
そこに来客があった。
それはいつもの女である。彼女は部屋の隅にある窓の側に座り、一心不乱に窓の外を見つめている。
最近ではいつものことなので私は構わず彼女の隣に座った。しかし彼女はこちらなど意にも介せず、ただ窓の外を見つめている。
例の女が不審な動きを見せるようになったのはここ一週間ほどのこと。
去年の夏から、定位置に座り続けてきた女だが、暖かくなってきたせいなのか、妙に落ち着きがなくなった。
そのうち、彼女は窓に張り付くようになる。
先生が居ないときなどに声をかけてみるのだが、女は首を振るばかり。彼女は相変わらずの意固地さで、窓の外を眺め続けるのである。
それは、いつも同じ方角だった。
「先生」
気になった私はとうとう先生に問うこととした。
女ばかりではない。最近は道を歩く人も、やけにその方角に吸い込まれていく。
そちらには神社があり、それを越えると大きな公園があったはずだ。
私は窓枠に手をかけ、窓の外を見る。春らしい、間の抜けた青空が広がっている。
なるほど、気温が上がるというのはテレビの妄言ばかりでもないようだ。
暖かい日差しが鼻先に眠気を届けるが、私は頭を振ってそれを追い払う。
「あちら側にはなにがある」
「桜の名所ですね」
先生は野菜をいじり回しながら、目を細めた。冬にでた旅の本とやらがようやく書き上がり、先生も落ち着いた頃であった。
「桜か」
私は苦く呟く。花の情緒を私は理解しない。
ただあの薄桃色が空を覆いはじめると、人が外にやけに集まってくることだけは理解していた。
公園を根城にしていた頃、幾度追い払われたかわからない。
だから私は、この季節は少し苦手である。
「いってみますか」
しかし先生は笑顔でそう言った。手には、杖がすでに握られているではないか。
「野菜はどうする」
「どうせ灰汁を抜くのに、水にさらす必要がありますから」
草の香りをたっぷり浴びた体は、青臭い味がする。このままここに居ては体がすっかり臭くなるに違いない。そこで私は渋々立ち上がった。
件の公園に近づくにつれ人がわんさと増えてきた。男も女も子供も老人も、多くの人間が、花に吸い寄せられた蜂のように桜に群がっているのである。
花は今が見頃らしく、大空を覆うほどに咲き誇っていた。
花といっても桜の花は儚いもので、見上げるとまるで雲海のようである。
その雲のごとき花の下、男たちがすっかり出来あがった顔をして行き来している。
嗅ぐまでもない。あたりは一面酒の匂いに満ちていた。
「花見酒といって、花を眺めて酒を飲む習慣がありますが、そのせいでここらはいつも賑やかです」
木の下にはシートが広げられ、ごちゃごちゃと食べ物が並んでいる。そこで肉を焼く人間もいれば、酒を飲み寝転がる人間もいる。
春のかすみと肉の煙が混じりあい、桜の空に吸い込まれていく。
あまりの仰々しさに先生も辟易したのだろうか。やがて杖で地面を叩くと私を別の方向へと案内する。
「この奥に、あまり知られていない名所があるので、そちらに行きましょう」
それは、春の日差しだけが照りつける静かな道だった。
「懐かしい道です。数年……いや、数十年前にはよく訪れていたのですが、なぜ今まで忘れていたのか……」
公園を抜けて車道を越えて、住宅街の細道を歩きながら先生は呟く。
先ほどまでの喧噪は突如消えた。左右に立ち並ぶ家は誰も住んでいないようひっそりと静まりかえっている。
人の気配を感じないのである。
「このあたりのお家は大きいので、家の中の音が外に漏れないのでしょうね」
先生の言う通り、そこに並ぶ家はほかより少し大きい様子だった。
塀は高く、白塗りの壁は延々と続いている。塀の向こうにちらりと見える屋根は、私ごときが昼寝をするのも勿体ないほどの立派さである。
そして高い塀を越えるほど、立派な桜を植えているのだ。
どの家も、決まって桜が顔をのぞかせている。それは多い家では三本にも四本にもなった。薄桃の雲海があちこちで広がっている。
まっすぐな道、どこまでも桜が続く。
公園のような騒々しさはなく、勿体ないほどの花道であった。
「ここいらは、庭に桜を植えているお家がなぜか多いのですよ。しかし住宅街だからでしょうか。昔からあまり人が通らず、穴場なのです」
先生がいたずらっぽく笑う。
「住人くらい、見にきそうなものだがな」
「見飽きているのかもしれません。私なら、一日中散策をしていても飽きないでしょうね。猫殿もそうでしょう」
結局はこのあたりは桜にも飽きたような金持ちの家なのだろう。
……と。遠い世界を眺めるように見つめていると、突如目の前に見覚えのあるものが飛び込んできた。
「ああ、あのときの」
ぼんやりかすむ視界の向こうに、真っ白な美しい猫がいた。それはかつて私が恋をした白の女である。
彼女は私など忘れたのか、それともどうでもいいのか。こちらを見ることもせず、相変わらず足取りも軽く歩いていく。
しかし彼女の腹は少したるんでいた。さらに彼女の後ろをよちよちついて歩く子猫を見て、私は愕然とした。
そして落胆した。
子猫たちは、見事なまでに真っ白なのである。
にいにいと、まだ猫の言葉も話せない白い団子猫たちは、母猫のあとを必死について歩く。
彼女は子に気遣うこともなく、凛とした姿で道を行く。横を通り過ぎる際、彼女の視界に私が一瞬映り込んだであろう。それが奇跡でさえあった。
やがて彼女一家は、とある門の隙間に吸い込まれていく。それは、彼女の姿に似た白の壁が美しい家である。
私は姿勢よくそれを見送ったあと、世の無常を感じた。
「お知り合いですか」
「昔の女さ」
私はつまらぬ意地を張った。男の悲しいさがである。そして相手が男であれば、この意地を理解してしかるべきである。
先生はふんわり笑うばかりでそれ以上の追求はしなかった。
やがて無言となった二人の間に春の風が届く。
顔を伏せて歩いていた私は、先生の足に頭をぶつけて、立ち止まった。
「ああ、猫殿」
「先生。どうしたのだ。私は今、世の儚さを感じて忙しい」
「思い出したのです、猫殿。ありがとうございます。ああ、なぜ忘れていたのだろう」
先生が足を止めたのは、古くさい洋館の前である。
かつてはそこに人が住んでいたのだろうか。
赤煉瓦ははがれ、窓にはめこまれた美しいステンドガラスは割れている。
今や様々な植物が咲き乱れる密林のような庭に、その家は立っている。
「先生、ここは」
周囲に人の気配がないことを確認して、私は先生に問いかける。
人の気配など心配しなくても、この家にはもう誰も住んでいない。手も入れられていない。それどころか人に忘れられている。
周囲はきれいな住宅街だ。その中にあって、ここだけが異様であった。
怖い、というのではない。時の流れが止まっている。緩やかに時に任せて崩壊しようとする美しさがそこにある。
「見えますか、庭の隅に桜があるのを」
先生は声を震わせる。先生が指したのは、庭の端。かつては温室でもあったのか、古びたビニールが金具に巻き付いて揺れている。
そして、さらにその隣。
そこに巨大な桜の木があった。
鬱蒼とした庭の中、それだけが意気揚々と起立している。枝振りは太く。花は見事だ。
風が吹くたびに、花びらが春風に舞う。
どの家に植えられている桜よりも、美しかった。
「私がみた頃は……まだ、若木だった。ソメイヨシノは、育つのが早いものですが、それでもあれほど立派になるとは」
「先生も、見知った木か」
「……妻の、亡き妻のかつての実家です、ここは……まだ、残っていたとは」
先生は赤錆びた門柱を握りしめ、桜を見上げている。
かつては花の咲き乱れる庭だったのだろう。
そこに、若木が植えられた。美しい洋館と、桜と若い女と若い小説家。
先生は生まれたときから年寄りなのではない。先生にも若い頃があったのだ……私に若い頃があったように。
思えば、私たちはあまりにもお互いの過去を知らない。
私は先生の顔からかつて若者だった顔を探ろうとしたが、それは難しい仕事であった。
「桜をテーマに小説を書こうと、そう考えていたことがありました」
先生はポケットから小さなメモ帳とペンを取り出すと、ペンの先を一度舐めた。そのあとは、一心不乱に何事かを書き綴りはじめる。
「まだ私の小説が売れていなかった頃に、ここで考え……きっといつか書こうと思った話がありました」
先生の目には私の知らない過去が見えているらしい。
「大切な。大切な話です。なぜ忘れていたのか」
先生がメモ帳に、ぐちゃぐちゃと何かをかきこむ。その手に、先生の見えない影がさした。
気がつけば、あの女が先生の手元を覗き込んでいる。私に軽く会釈をして、見たこともない優しい笑みを浮かべている。
彼女は古い屋敷の奥を見つめた。それは先生と同じ目の色だ。
どこまでも優しい瞳の色だ。
やがて先生は駆けるように家へ戻った。商店街の女店主に声をかけられてもなあなあに答え、階段を一気に駆け上がる。
まるで恋に浮かれた私と同じだ。声を掛けてもつついても、先生は気づかない。ただペンを握りしめ、机に向かう。日が落ちて、茜の色が紺に変わり、冷たい風が吹く。
酔っ払いの声とクラクションが響いた瞬間、先生はようやく気づいたように顔をあげた。
「ああ……すっかり、灰汁が抜けてしまいました」
先生が水にさらした青い草は見た目こそ同じだが、引き上げると青臭さが少し薄れている。そんな気がする。
「お恥ずかしい、まるで若い頃のように夢中になってしまいました」
「年なのだから無茶をするな」
私といえば、暇にかまけて体を舐める。
「先生、ところで一体何を思いついたんだ」
「……それは、いつか」
先生は何かを言いかけ、口を閉じた。
「とても長い話になりますので」
閉じられた言葉の奥に先生の秘密なり過去があるのだろう。
それを語ってもらえないのは、私が猫であるからか、付き合いが短すぎるせいなのか。
体の奥底にじわりと広がったのは、春の香りに似たほろ苦さ。
私はまだ、その名前を知らなかった。