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冬ごもりと先生の旅

 木枯らしが強くなり、私の毛はすっかり冬毛に生まれ変わる。

 自慢の厚い毛皮でも、体の芯が冷えるような毎日が続くと堪えることには変わりが無い。

 ストーブが付く回数が日に日に増え、冷たい食事より温かい食事が好まれるようになった。

 雨ではなく雪が空から舞い落ちるのを見たとき、本格的な冬が来たのだなと私は悟る。


「猫殿、困りました」


 この冬三回目の雪が降った日。先生が困ったようにそう言った。黒い電話を手に、長い間誰かと話したあとのことである。



 電話を使う先生というのは、非常に珍しい光景だった。そもそも先生は人嫌いなのかと思うほど、人間とあまりふれ合わない。

 親しくするのは商店街の店主くらいだ。それも、買い物をする時だけの付き合いである。

 今朝架かってきた電話の主は、"出版社"の人間であるらしい。

「出版社とは……端的に言えば、私の本を作ってくれる会社のことです」 

 先生はストーブに手をかざしながら、白い眉を垂らして肩を落とす。

「奇特な会社だ」

「私もそう思います」

 しょぼしょぼと、真っ白な眉が揺れる。先生は、眉も髪もそこだけ雪が降ったように白いのだ。ここだけは年中冬だな。と私はぼんやりと彼の顔を見上げた。


「先生、鍋が干上がるぞ」


 食卓の上には、小さな鍋が湯気を上げている。

 今日は冷えるので鍋が良い……そう先生が言ったのは早朝のこと。

 奮発した先生は、張り切ってフグなどを買って来た。

 白菜に葱に茸に豆腐。こういうものに興味はないが、昆布の味が染みこんだフグの身はしみじみ旨い。小皿に分けられたそれをゆっくり噛みしめながら、私は鍋の中身が気になって仕方が無い。

「せっかくのフグが固くなってしまわないか、先生」

 先生の電話は長かった。幾度も何かを断っていたようである。無駄にも思える応酬が終わったあと、先生はすっかり落ち込んでいた。

 ……つまり、先生は相手方に負けたのである。

「先生がこれほど困るとは、珍しい。その出版社という人間は、よほど意地悪くできているらしい」

 私は柔らかい冬毛を丁寧に舐める。ストーブの火で暖まったのか、毛が熱を持っていて、舌先に温もりが広がった。

 外は雪、窓が白く煙っている。外は寒かろうが、部屋の中は心地の良いものだった。

 しかし先生はどこか居心地悪そうに、もじもじと俯くばかりである。

「……この間、出した本が非常に売り上げがよいのだと、そういうのです」

「よいことではないか」

 陰気臭い先生の本は、それなりに売れているらしい。私は尾を振り振り珍しく賞賛を口にする。

「どのようなものであれ、ほめられるのはいいことだ」

「それはいいのですが、あの話をドラマにしたい、私の家を取材したい。そういう人間がいるというのです」

 私は思わず目を見開いた。とはいえ、元々老いた目だ。大きく開いたところで、冬毛に隠れて見えなかっただろうが。

 それでも私は驚いたのである。

 先生の書くものが、それほどとは思わなかった。ひっそりと売れているとばかり思っていたのである。

「では、私は言葉遣いに気をつけなくてはな」

「いえ」

 先生は私の言葉を遮った。

「断りました。そういう柄ではありませんし、この町の静かなところが、私は好きなのです。どかどかと人が来れば騒がしくなります」

 人が来れば賑やかになる。その喧噪を先生は嫌う。静けさを好む男なのである。先生は何度も瞬きしながら、白く曇った窓をみた。

「そのかわり、取材と称した旅行に出ることとなりました。旅行記を書くのですが……」

「りょこうき」

「旅行に行った先で、文字を書くのです。つまり、家を少し留守にするのです」

 先生が部屋の隅をみる。そこには飾り気のないカレンダーがかけられている。

 彼は肩を落として、そのつるりとした表面を撫でた。

「一週間。猫殿にはご不便をかけてしまうのですが……」

「人気があるのは、悪いことではないだろう、先生」

「しかし、私は旅行記というのは苦手で……そもそも、最近は少し筆を置こうと、そう思っていたのですが」

 先生は少し落ち込んだ顔を私に見せる。私は先生の告白に驚き、口からフグの身を取り落としてしまった。

「先生が文字を書くことを?」

「……書き始めて、もう何十年にもなります。糊口をしのぐために書いていた文章です。書きたい話ばかり書いてきたわけではありません。猫殿に出会って書いた話は楽しかったのですが」

 先生の背は丸い。

「それ以来、どうにも筆が乗らない。気が重い。いっそ原稿用紙を捨てて、しばらく筆を折るかと担当の方と長く相談してきたのですが……」

 筆を折るくらいなら、何か新しいものを書けばいい。"出版社"は先生の我が儘を許さなかったという。

「旅行など、気が重い」

 先生はため息を漏らし、煮詰まった鍋を混ぜはじめた。



 そういえば、先生が家からいなくなるのは初めてだ。と、私は不意にそう思った。

 こうなると猫の身はやっかいである。ストーブをつけたり消したりはもちろん、餌入れから餌をすくって食うこともできない。人の言葉を話せる以外、私はただの猫なのである。

 結局、食事は山盛りに用意され、部屋には布団が敷き詰められた。水も過保護なくらいに用意された。

 昨年までの凍てつく冬を思えば、まるで王侯貴族のような扱いである。

 実際の話、一週間程度で飢えるほど怠けた体はしていないのだが、先生の好意は好意として受け取ることとした。

 そして雪が小雨に変わった寒い朝、私は先生を見送る。先生は細い鶏ガラのような体に、大きな荷物を持って旅だった。

 窓から外をのぞけば、心配そうな顔で幾度もこちらを見上げていくのが、妙におかしい。

 随分ひどくなめられたものである。

 一人きりになった私は……いや、一人ではない。口こそきかないが、そこにはいつもの女がいるではないか。

 せっかくなので私はこれを機に、女に声をかけてみようと考えた。いつの間にか、先生も気づかぬうちに家に忍び込んだ女である。

 この女が先生のかつての細君であろうことは、想像に難くない。

 彼女と墓で出会った時から、ははん。死んだ女が先生をみているのだなと私は悟り、それ以来、女を無視して暮らしている。


 思えば私の母もある日、突然消えた。

 彼女が消滅する直前、母は「私は死ぬのだからついてきてはだめだ」と私に言った。母が私に向かって猫の言葉をかけたのは、あれが最初で最後であった。

 猫は死んだら山に行く。不思議なことに、山に登る道には川があり、そこを泳ぐと毛の色が全部落ちるのだという。

 気ままに山頂を目指せばそこに猫の仙人とやらがいて、訪れた猫の毛にぽとぽとと色をつける。

 外側を塗り替えられた猫たちは、また地上に戻る。つまり正確にいえば、猫は永遠に死なぬのである。

 それを考えてみると、この部屋にいる女は山にのぼらなかったのだろう。先生を案じてここに残ったのか、馬鹿な女である。


「女」

 足をそろえて女の前に座る。自慢の尾を前足に巻き付けて、私は女の顔を下から上まで、じっくりみた。

 年をとっているが、いやしくない顔である。

「なぜ黙ってそこにある」

 幾度話しかけても女は口も開かない。もしかすると話をする方法をもたないのかもしれない。

 猫が人語を話せて、かつての人間が人の言葉を忘れるとは皮肉なものだ。

 声をかけても反応のないのに飽きて、私は座布団の上に丸くなる。

「話しかけたくなれば話しかけるといい。私が返事をするかは、分からんが」

 先生愛用の座布団も用意されていたが、そこに座るのは気が進まず、結局自分の定位置についてしまったのが、不思議な感覚ではあった。

 朝から降った雨はまた雪になり雨になり、眠るうちに晴れ上がる。日差しが窓から差し込んで、暖かさに包まれた。これならば先生も快適に旅ができるに違いない。

 思えば私の人生は旅ばかりであった。食事を求め人間から逃げ、雨や寒さや暑さから逃れて、ただ目的もなく旅をした。それに比べて人は旅をしない生き物である。

 そんな人間である先生が旅に出て、猫である私が家で待つなどこれも不思議な話である。

 私はそんなことを考えて大きなあくびを漏らす。

 とたん、眠くなった。

 猫は、寝る生き物でもある。



 丸くなり、腕に顎を乗せる。背に冬の日差しがあたる。心地よい眠りに吸い込まれると、私は夢を見た。

 猫は夢を見ない生き物だといわれているが、そんなことはない。夢を見るのである。

 夢は日常の続きであったり、過去のものであったりする。

 私はどうも過去の夢を見ていたらしい。巨大な母猫が私の尻を執拗になめ回しているところである。

 周囲には兄弟猫もあったようだ。生まれたとき、私たちは古びた廃屋の隙間に隠されていた。

 母猫は時折餌を取りに行き、決まって夕方に戻って私たちに乳を与えた。

 にーにーと声にならない悲鳴をあげながら、子猫同士団子になって母猫の乳にむしゃぶりついたのを、うっすらと記憶している。

 母は巨大だった。私と同じ、濃い模様の雉猫だった。尾が太いのも母譲りだろう。手足は太く、器量もあまりよくない。ただ、口元に愛嬌はあったようである。

 多く生まれた子猫のうち、私だけが人の言葉を理解した。そんな私を憐れむように母が見つめた。そのことを覚えている。

 そのうち多くの人によって兄弟猫がさらわれていく。しかし私だけは秘蔵子のように隠され、野良として生きることになった。

 まだ耳も顔も丸い子猫の頃から、母は私にだけ厳しかった。

 耳がとがりはじめ、顔立ちも精悍になる頃、母は餌の取り方、人の判別の付け方、喋り方や生き抜く方法を教えた。

 おまえは誰にも頼らずに生きなくてはならない、と口癖のようにそう言った。

 元来猫は、大きくなると母とは別れるものである。母猫は昨日までの偏愛を忘れたように子猫に爪を立て追い払う。それが自然の摂理である。

 しかし、生まれながら摂理から外れた私を哀れに思ったのだろう。彼女は私が大きくなるまで、なにくれと世話を焼いた。

 私がその日、夢の中で見たのは、母との最後の逢瀬である。巨大な母の腹がだるだるに揺れていた。

子猫たちに吸い取られたあとの抜け殻のようであった。

 それでも足取りはしっかりと、彼女は私の前に立っていた。

 別れは非情で唐突だった。

 行くなと言って鳴いた気もするし、人の言葉で言った気もする。しかし、彼女は戻らなかった。私は一匹になった。

 別に悲しいことはない。猫はたいてい一匹で生きていくのである。

 悲しくはなかった。

 ただ、寂しかったのではないかと夢の中の私は思った。



「……ん」

 窓の外から賑やかな子供の声が聞こえ、私はふと目覚めた。日差しは赤く染まりつつある。窓の向こうに広がる空は、かげりが見えた。

 近所の子供たちが帰路についているのだろう。はしゃいだ甲高い声が響いている。

 道を車が通り過ぎる音、石油を売る車が間延びした童謡を流しつつ走っていく。

 夢からさめたのか、まだ夢の中なのか。

 ぬるま湯のような気だるさに包まれたまま、私はゆっくり足を伸ばす。

 ……そんな私の隣に、気がつけば女がいた。

 黒いカマボコの隣から意地でも動こうとしなかった女が私の隣に座り、その手で私の頭を撫でているのである。

 とはいえ、相手は人ではないのだから感触はない。ただひやりと冷たい空気が私の頭の上を通り過ぎるばかりである。

 女の顔は影になってよくわからないが、その手の動きは見覚えがあった。

 これは母の手であった。母になろうとしてなれなかった女の手である。

 先生と女、二人の間に何か悲しい思い出があったのだ。と、私は悟った。



 先生が帰ってきたのは、予定より早い一週間目の朝一番であった。

 その日は不思議と音のない朝である。耳が痛いほどに静かな朝であった。

 あまりの静かけさに、私は世界が終わったのではないかと飛び起きた。

 窓に駆け寄り、私は世界が白いことを知る。

 ……夜半すぎに降り出した雪が積もったのだ。

 窓の外に見える木にも道にも、アパートの階段にも雪は静かに降り積もっている。

 真っ白なそれが音を吸い込むのか、不思議なほどに音のない朝である。雪は周囲の色をも吸い込むのだろう。窓の外は白と黒の静かな世界である。

 そんな雪に振動が伝わって揺れる。

 先生がアパートの階段を上っているのだと、私は悟った。そして私はゆっくりと伸びをして窓から飛び降り、玄関に向かう。

 きしんで開いた扉の向こうは、やはり真っ白に輝いて見えた。



「こうも雪がつもりとまいります。火の気はなくても、家は暖かいですね」

「予定より早いな。夜ではなかったか、帰るのは」

「大雪で足止めをされてはかないませんので、早く宿を出たのです」

 先生は、早朝に旅先の宿をたったのだという。ゆっくりすればいいのに。と言う私に先生は苦笑を返した。

 早々に旅装をといて旅塵を払う。先生の体からは嗅ぎ慣れない香りがした。

「猫殿。食事や水は十分足りましたか」

「先生も年寄りだからわかるだろうが、年をとった猫は食欲も落ちるものだ」

「暇ではありませんでしたか」

「家の中でも十分に旅ができたぞ」

「それはどのような」

 先生は興味を持ったのか、荷を片づけながらそう聞いた。

 私は一週間ぶりにつけられたストーブの火で背を暖めながらにやりと笑う。

「過去への旅だ。足で歩く旅よりも疲れた」

「その旅の思い出をお聞かせいただきたい」

「それはまたいつか」

「またそんな、意地悪を言う。では、先に私からの土産です」

 先生は荷からなにやら缶詰を取り出して私の前に置いた。

 鼻先でそれをつつき、爪の先でその表面を叩いてみる。

 それは私がいつも好んで食べる猫餌だった。水煮マグロが柔らかく、年寄りに優しい味が気に入っている。

 しかしそれは台所の戸棚に、もう何個も格納されているはずだ。

「いつものと、なにが違う」

「さあ……ただ、旅先のスーパーで売られていたのが目に入りました」

 先生は目をしょぼつかせて笑う。

「つい買ってしまいました。あなたの好きな缶詰ですから」

 荷物になるだけなのに。と私も笑う。部屋の隅に座る女も薄く笑ったのが見えた。

「さあ猫殿、意地悪をせずに旅の話を聞かせてください」

「それよりも先生の話を先に聞こう」

 窓を風が揺らす。強い風が雪を振り落として、鈍い音が聞こえる。

 雪のやんだ今朝はきれいな冬晴れで、空は抜けるような青一色である。

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