猫の恋紅葉
秋、私は恋をした。
果たして本当にこれを恋というのか、恋以外の感情であるのか。猫の身ゆえに、はっきりとは分からない。
私はひねた性格をしているせいで、恋というものを知らない猫であった。恋など無用の長物よ。と、はしゃぐ猫たちを横目で見ながら、恋をするより昼寝を選んで生きてきた。
しかし、先日近隣を散策していたおり、私は一匹の雌猫と出会ったのである。
それは尾から腹まで真っ白な猫であった。
目だけが透き通るような青であった。まるでガラスのように丸く、どこまでも透けて美しい。水がそこに閉じこめられているような涼やかさである。
口元は健康的な肉付きで、切れあがった目尻が美しい。
それは美しい猫であった。
猫の目は色彩がないという。
「猫殿の目は、色が見えないのでしょうか」
いつか先生がそう尋ねたことがある。その声には少しの哀れみが含まれていた。
色が見えない、といわれても私は生まれ落ちてから、この見え方しかできないのである。先生の目玉を借りるわけにもいかないので、人間とどれほどの差異があるのかわからない。
ただ、美しいものを見るとき、目ではなく脳がそれを補うらしい。
彼女と出会ったときの私もそうであった。
大地には紅葉が散乱している。それは黄色であり赤であろう。その中を真っ白な彼女が足音もたてずに歩く。美しい図である。
風が吹いて彼女の尾を揺らし、色とりどりの紅葉が舞い上がる。
彼女は落ち葉の向こうで、ちらりと私をみた。
その瞬間である。ああ自分は猫であるのだ。と、私は気付かされた。
背中から尾まで電流で打たれたような衝撃を受け、私は彼女に夢中になった。
しかし彼女はつれない。近づけば逃げる。唸る。鋭い爪が私の顔面を何度も打った。
満身創痍で家に逃げ帰れば、先生が心配したような顔で私を出迎える。
そんな生活が、もうここ半月ほど続いている。
「季語では春を猫の恋といいますが」
彼女の鋭い爪先で鼻先を裂かれた私をみて、先生は呆れたようにいった。
鼻の先に、消毒液だという苦い汁を塗られる。ちりりと痛みが走り、私の尾がふわりと膨らんだ。
「秋まで恋の季節とは知りませんでした」
「人の都合で季節まで定められていてはつまらん。猫はいつでも恋をするのだ」
「うらやましい限りです」
先生は呆れたろうが、私は夢中だった。老いらくの恋だ。老いらくの恋は叶わないものだ。しかし、私は夢中だった。
紅葉はやがて散り終えた。大地に広がる葉の絨毯の上には秋の長雨が降り注ぎ、葉のぬけ落ちた木々に木枯らしが吹きはじめても、私はまだ彼女を追いかけていた。
今日の彼女は神社を悠々と歩いていた。いつみても堂々たる猫であった。どこを歩くにも、遠慮などしない。白い足はどこであっても、彼女の進みたい道を歩く。
私は思わず声をかけた。甘えた声だ。堅太りで、足の短い、雉柄の私がこんな声をあげるなど誰が想像しただろうか。
体は太っても身は軽い。尾もふさふさと立派なもので、私はそれを振って彼女の後を追う。彼女が華麗に塀に逃げれば、私もそのあとを追う。唸られむき出された歯さえ、白くて美しいことに私はうっとりとした。
木枯らしはどんどんと強くなる。かろうじて木にすがりついていた木の葉が舞い散る。
海辺にあるこの町にも、まもなく冬が訪れる様子を呈してきた。
猫たちはみな、暖かい家や隠れ家を探し始めただろう。
さて私は、幾日家に戻っていないのだろう……と、私は人の言葉で考えた。同時に、彼女に会いたいと猫の言葉で考えるのである。
だんだん、私は人の言葉を忘れていた。
彼女の姿が唐突に消えたのは、そんな頃である。
神社にも、裏の魚屋にも、表の通りにもどこにも彼女の姿はない。
ほかの猫に聞いてみても、皆知らぬという。あのような若い女にからかわれて、まったく不幸な爺さんだと笑う猫もあった。
どうせあれにはいい雄猫がついているよと言うのである。
信じられなかった。凛とした彼女に、そのような影があるなど、思いもよらぬことである。
しかし彼女の匂いは確かに消えて、残されたのは冬の始まる香りだけである。
私は、とぼとぼと家に戻った。今更どんな顔で戻るというのか。しかし、無性に先生に会いたかった。
「……猫殿」
窓に体をこすりつけると、先生が驚いたように立ち上がり、ガタついた窓をあけてくれた。
部屋に入ると、ふわりと体がぬくもりに包まれる。
その熱は部屋の隅から広がっているようだった。顔を上げれば、部屋の隅に、無機質な塊がある。
これをストーブというのです。冬になると、これに限ります。温かいものですよ……秋の初めころ、先生がそう言って苦労して運んできた四角い塊が、熱を放っていた。
猫殿は寒さに弱いと聞きましたので、人から譲ってもらったのです……まだ夏の残暑が厳しい夕暮れの時。先生はそんなことを言いながら、これを抱えて汗だくで階段を上がってきた。
私は急に息が苦しくなり、動けなくなる。
ストーブは先生の言う通り、温かい。上に載せられた薬缶から、しゅ、しゅ、しゅ。と湯気が上がって私の顔を包み込む。
私はストーブの前、恐る恐る足をそろえて丸くなる。気まずさに、尾が自然とふるえた。
「恋わずらいは、いかがですか」
「……うむ」
「猫殿、人の言葉を忘れましたか」
「ひとの」
私は口をぱくぱくと動かした。
気を抜くと、にゃん。と声がでる。それは無理に作った声ではなく、自然に溢れ出る。先生は少し寂しそうに白い眉を下げた。
「私は猫殿の苦労を知りません。猫であって人の言葉を話すのには、大変な苦労があったことでしょう」
「わた……しは」
生まれ落ちてもう何年生きたかわからない。私はずっと、猫の世界で生きてきた。
猫の間に居たときも、人の言葉を忘れたことなどなかった。だと言うのに、今、言葉がでてこない。
「わ……」
これまで、本能に逆らってまで恋から遠ざかっていた理由を、私は唐突に思い出した。
「わた……し、は」
人の言葉を喋る猫という苦労を、子にかけたくなかったのだ。
私の母は私にとんだ苦労を押しつけて居なくなった。そのような苦労を子に押しつけたくないのだ。
だから私は恋を忘れた猫になったはずである。
「猫殿が居なくなって一月。もう戻らないと思っていましたが」
先生はストーブの前、背を丸めつぶやく。
部屋はいつもよりも薄暗い。部屋の隅に置かれた黒カマボコの隣、女はまだその隣に座って私を見つめている。
小さな机とストーブと、古くさい畳だけがある古ぼけた部屋。先生はこの中で、私を待っていたのだろう。
「猫殿は、このまま……人の言葉を忘れ、猫として生きるのが幸福なのでしょうか」
私の体に短い電流が走った。人の言葉を忘れ猫として生きる。そんな生き方を考えたこともなかった。
苦労ばかりのこの特技も、先生と出会って不思議と苦労となど思わなくなっていた。
人と話せるのは、幸福であるとまで思っていた。
だというのに、たかが恋ごときでその幸福が私の手からこぼれ落ちていく。
「か……かって……な……ことを」
何とか紡ぎだしたのはたった七文字。毛を膨らませるほどの苛立ちは、おそらく自分自身に対してだ。
「いうな」
「猫殿」
先生の声を遮って私は窓に向かった。まだ開いたままになっていた窓の隙間に体をねじ込み、真下にある階段に飛び降りる。先生の制止を振り切って、私は夢中で外に飛び出した。
「おや、先生の猫ちゃんじゃないね」
どこをどうさまよったか、私がたどり着いたのは町の小さな本屋であった。
それはいつも行く商店街の隅にある。どう生計を立てているのか心配になるような、古ぼけた本屋である。
冷え込む季節のくせに、店番のばあさんは扉を開け放して背を丸めている。
店先には、古くさい雑誌が潮風にあおられはためいていた。
「どうしたの。ひとりでお散歩か」
ばあさんは猫が好きと見える。おいでおいでと手招くので、わざとゆっくりとした足取りで向かう。手前で背伸びをし、体を舐め、そしてようやく彼女の手に頭を押し付けてやった。
すると、古びた手が、私の頭をゆるく撫でる。
「えらいねえ。一人でお散歩できるなんて」
その手は、先生によく似ていて、私はとたんに寂しくなる。
「ほら、そこに先生の本があるよ」
ばあさんは私を膝に乗せると、一冊の本を手に取った。
「先生はねえ、昔はそれほど有名じゃなかったのだけど、最近じゃすっかり名前が知られてしまって、何となく寂しいようなうれしいような」
ばあさんは私の背を撫でながら呟く。
「昔は売れなくて苦労したこともあるそうだけど、今じゃ好きに書けないと言って、逆に苦労することもあるそうだよ」
「にゃあ」
「この本はねえ、私も大好きな本だから一緒に読んであげよう。久々に、先生らしい本だよ」
薄い本だ。しかし、表紙がよかった。真っ青な表紙に猫が描かれているのである。
表紙の猫はぷくりと太って、気むずかしい顔をしているのが私に似ていた。
猫は背景の青い色に、とけ込むように描かれていた。
「おまえによく似ている猫だよ」
ばあさんは子供に読み聞かせでもするように、めくってみせる。
それは海辺で生きる猫であった。猫を見つめる男の物語であった。
あいも変わらず陰気臭くじめじめとした文章である。しかし、ばあさんの声を聞いて私は前足でそっと本を押さえる。
「なになに?……もう一回読むのかい。えー……”しかし”」
ばあさんもその文章に気づいたのか、しょぼしょぼとした目を近づけて声を出して読んだ。
「”しかし私は彼に出会えて、本当に幸福だったと思うのだ”」
「にゃあ」
「わかるの。偉いねえ」
小さなストーブ、薬缶のたてる静かな音。古い畳に曇った窓硝子。そして冷たい玄関の石畳。
私は急に、あの家を恋しく思った。
夜である。冷え込むと空気も澄むらしい。遠くから汽笛が響いている。耳を澄ますまでもなく、海の鳴る音も聞こえる。普段はこれほど海鳴り音は響かないので、やはり冷え込むほどに空気は澄むのである。
先生の家は、まだ明かりがついていた。
階段でつながった二階立てのアパート。先生の部屋は一番東にある。
カーテンがないので、先生の部屋だけがよく目立った。
この寒いのに、窓が少しだけ開いている。私が出ていったとき、そのままだ。
私は足音をしのばせ、窓をのぞき込む。部屋の真ん中、先生は黒いカマボコに向かって背を丸めていた。
私の方向からは、先生の顔はよくみえない。ただ、先生の頭のあたりに、ふわりと白い煙が上がっているのがみえた。
「先生。珍しく煙草を飲んでいるな」
「猫殿」
声をかけると、先生が目を丸めて振り返った。その手には、短くなった煙草が見える。
普段は滅多なことで煙草など飲まない先生だが、時々こんな風にやる。
それは、決まって辛いことがあったときだ。
「猫殿」
小さな目を丸くして、先生はただ私の名前だけを呼んだ。阿呆のようなその言葉に、私はにやりと笑って部屋に飛び込む。
「先生は意地が悪い。私を小説の主人公にするのであれば、何か一言あってしかるべきだろう」
部屋は暖かく、煙草の甘い香りが満ちている。
丸い食卓には、食器が伏せられ置いてあった。床には、私の餌入れが据えおかれ、キャットフードと私の好きな猫缶がご丁寧に山盛りになっていた。
「お恥ずかしい」
「原稿料とやらが入れば、私になにかごちそうをするべきだ……で、先生は何を?」
食卓の白い皿に載っているのは、カリカリに焦げた目玉焼きに塩が振られたサンマの半身。すっかり冷えて、皮がじっとりと身に張り付いているのを少々勿体なく思う。
私は好まないが、人は焼き立ての熱い魚を好むものである。
「冷えるまでおいておくとは」
「待っていればあなたが帰ってくる気がして」
先生は照れたように笑い、炊飯器を開ける。湯気に甘い香りが混じり、私は鼻を鳴らす。
「米に何か混じっているのか」
「ちょうどよかった。旬はいくぶんかすぎましたが、あなたと過ごす秋が短かったので……あなたに秋の香りをぜひ、嗅いでいただきたかったのです」
先生は湯気を切るように米を混ぜる。覗き込むと白い米の合間に、黄色の固まりが見えた。
「栗御飯です。とはいえ、猫殿は食べられないでしょうけど……」
当然だと私は胸を張る。私は、奇妙なものなど食べやしない。地面に転がるイガの固まりを好んで食べる人間は、やはり変な生き物だった。
「それは好まない。私はこれを頂こう」
餌入れの前に足を止めた途端に腹がなる。腹が減っていることを、急に思い出した。
「猫殿は、人の言葉を思い出しましたか」
「先生は人の言葉を忘れるか? それは長い人生、忘れることもあるが、それは一時的だ」
この特技は、母が私に残した唯一の置き土産である。
よくよく振り返り考えてみれば、それを不幸と思ったことは一度もないのである。面倒な、苦労の多い特技であると思いはしても。
そして今や、母に感謝の念さえ覚えるのである。
かり、かり。と私はキャットフードの堅い固まりを噛み砕く。口の中に魚の味が広がって、胃の府が暖かく染まる。先生も煙草をもみ消し食事に手を着けた。
私のたてる咀嚼音に、食器の音。薬缶が時折放つ水蒸気の音。
すべての音が一つになって、私の中で止まった時間が動き出したようである。