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始まりの梅雨

 台所から鰹風味の湯気が立った。

 朝も早くから先生が細々、何かをこしらえているのだろう。私は寝転がったまま、耳を澄まして鼻を動かした。

 湯の沸く音に、湯気の湿気った香り、まな板と包丁がぶつかる音。何かを焼き付ける音と、醤油の香り。

 やがて流しがべこりと音をたてた。

「……起こしましたか、猫殿」

 そこで初めて、私が見つめていることに気づいた。先生は手元の鍋を持ち上げて、にこりと笑う。

「昼はそうめんにしました。茄子を揚げ浸しを添えるのが、最近うまくて仕方ありません。夏の旬というわけでしょうか」

「それは年のせいだろう」

 青いガラスの皿の上、そうめんの白い体が横たわる。てらてらと紫に光る茄子が、そこに乗せられた。

「水っぽそうで、私の好みではない」

「猫殿もそろそろ昼にしましょう。ご相伴ください。キャットフードは冷蔵庫で冷やしたのがうまいとおっしゃってましたね」

「暑い夏にはそれが一番だ」

「こんなとき、猫殿が人の言葉を喋ってくれることが、つくづくありがたいと感じます」

 先生のシミだらけの手が冷蔵庫を開けたので、私はようやく寝床の座布団から前足を投げ出して、丸まった背筋をぴんと伸ばした。 



 私の生まれは正真正銘、猫である。しかし、気がつけば人間の言葉を喋っていた。

 母猫も人の言葉を解したので、これは才能というよりも血筋であるに違い無い。

 老いた母は「人前ではにゃんと鳴け」と、口を酸っぱく言っていたものだが、あほうの私は猫が人語を語って何が悪いと意固地のように人間の言葉を使い続けた。

 そのせいで、行く先々でほうぼうな目に遭うことになる。

 石を投げられたことも悲鳴をあげられたことも、捨てられたことも蹴られたこともある。

 そして気がつけば10数年。

 とある軒先の下で、私は先生に出会ったのだ。


 先生は奇特な男である。顔は皺だらけだし、背も丸い。年寄りである。文章を書いてそれで糊口をしのいでいるという。

 文章を見てもそれが上手いのか不味いのか私には解らない。ただ、じめじめとした文章である。

 そもそも私は言葉を解しても、文字は読めぬ。文字を理解しても、情緒を解せぬ。つまり私は文盲であった。私は文字や情緒を先生の部屋で学んだ。

 先生の部屋にみっちりと詰まった本を半分読み尽くしたあと、先生の文を眺めてみたが、やはりじめじめとして梅雨くさい文章だった。

 ただ先生の使う原稿用紙は特製品であるのか、私の老いて乾いた肉球でもめくりやすいことだけが大変よかった。


 閑話休題。


 先生と初めて出会ったのも、じめじめとした雨の日であった。

 キノコでも生えそうな夕刻、軒先で雨を避ける私の隣に先生が立った。

 彼もまた雨宿りだったのだろう。ぐずる空を見上げて「困りましたねえ」など、ふつうの具合に聞くものだから、ばかな私は思わず「雨もあれば晴れもあろうさ、神様の配分なのだから」などと返してしまった。

 先生は人の言葉を話す私を見て、最初は目を丸めた。やがて細い目をさらに細めて、しみじみと呟いた。

「人の言葉を話されるとは、さぞや苦労の多いことでしょう」

 行き場もないのなら、拙宅へどうぞと先生は言った。私は初めて、拙宅という言葉を謙遜という情緒を知ったのである。


 なんとなく先生の家を間借りして、早1月半がすぎた。 

 そもそも猫に時の感覚というものはない。カレンダーの使い方を覚えたのも、先生と暮らしはじめてからのこと。

 猫とは春になれば恋をして、夏になると冷たい場所を探して求め、秋になる頃に毛がはえかわり、冬は暖かい場所で動かず過ごす。それを幾度も繰り返すうちに死ぬのである。単純明快に生きるだけなのである。

 しかし先生……人と暮らして初めて、一年にはこれほど多彩に色が、音が、匂いがあるのだと知った。

「先生、遠くからひどくやかましい音がする」

 食事を終えた私は玄関の冷たい床に寝転がったまま、そういった。床に耳を着けると蝉時雨の音の合間合間に、ぴいひょろぴいひょろと、なにやらにぎやかな音が聞こえてくるのだ。

 先生の暮らす町は静かな町だ。音は異質な音階で、明らかに町から浮いて聞こえた。

「……音ですか」

 先生は部屋の隅に置かれた机に向かっている。仕事の原稿とやらが忙しいので、最近はずっとここが彼の定位置だった。

 私の声にはじめて気づいたように、めがねを外して目をこする。

 小さなめがねを再びかけると、元々細い目をさらに縮めて窓の外をみた。

「お祭りですよ猫殿」

「オマツリ」

「お盆なので、盆祭りがはじまったのでしょう。公園で盆踊りをするのに、町の人が集まっているのです」

「ボン」

 私は腰をあげて、思い切りのびをする。光によっては銀色にも見える尾がぴんとたって大きく膨らむ。私は一度体をふるったあと、乱れた毛を丁寧に舌で湿らせた。

「知らない言葉ばかりだ」

「ならば、行ってみますか猫殿」

 先生は住みに汚れたペンを机におく。机に乗った紙にはちまちまと文字が踊っている。また陰気臭い小説でも書いているのだろう。

「面倒だ」

 足をのばして顔を掻く。かかかかかと爪が皮膚をなぞって音を立てる。

 そして、あくびをした。

「出歩くのは面倒だ」

 先生に出会って、覚えた言葉は数多い。

「では猫殿、買い物に行きませんか……祭りの話は道すがら追々に」

 買い物、という言葉も先生によって教えられた。

 人間は金というもので、食べ物を買うのである。

 食べ物は軒先に並んでいるのだから、ひょいっと持っていけば手間もかからぬところを、人間はそうはしない。金を儲けて、手にした金の範疇で物を買う。

 随分と、まどろっこしい。

 このことについては一晩説明を受けても理解できなかったので、これが猫と人との差異であろうというところで落ち着いた。

 そして買い物にいきませんか。という言葉は、都合のいい言葉でもある。相手を外に連れ出すときに、使われるものらしい。

「先生、雨ではないか」

 窓枠に近づいて、外を見る。外は薄曇りであった。鋭い日差しがないのは助かるが、そのかわり蒸し暑い。蝉が狂ったように鳴いているのは、蒸し暑さに辟易しているからだろうか。

「いえ、雲だけです。まだ降りそうもありません」

「そうか」

 私は尾を左へ右へと動かす。

 猫が尾を動かすのは不機嫌な証だとか、なんとか様々な説があるようだが、ばからしい話だ。単に、心地よいからそうしているだけの話である。

 先生の家の畳は、古く湿気を含み、まこと尾のブラッシングにちょうどいい。

「私は雨が好きですけどねえ」

 先生はにこにこと笑う。

 先生の部屋は六畳一間である。裏に線路と田圃のある、古くさいアパートの一室である。

 きしむ扉を開けると、部屋を全て見渡せるくらい狭い部屋である。

 文筆家。というのは儲かるものだと、何かの本で読んだ。しかし先生は人気の文筆家ではないらしい。金に困るほどではないが、家は狭かった。

 そんな部屋の隅には黒い棚があり、そこにカマボコ板のような板が一枚、飾られている。

 死人をまつってあるのだと、先生はいう。その死人は先生の妻であるという。先生は毎朝、それに向かってもごもごと頭をさげる。カマボコにどんな御利益があるのか解らぬ。

「しかし、買い物か」

 私はゆっくり起き上がり、両手をそろえて欠伸をする。毛が尾のほうから、ぞわわわと膨らんだ。それを整えるように体を大きくふるって、耳を掻く。

「買い物ならつきあおう」

 先生が買い物というのは家からほど近い、小さな商店街である。

 古い町にふさわしく錆びた商店街だが、この町は港に近いせいで魚の取りそろえだけは立派であった。

 外に出ると、ちょうど遮断機が下りるところだ。

 かんかんと、のんきな音をたてて道が封鎖されるが、電車はまだ見えない。長い線路が雲の向こうに吸い込まれるのを眺めていると、やがて赤い車体が小さく見えた。

 空模様は先生の言うとおり、重い曇り空。

 田んぼの青い稲が湿気を含んでざわざわと揺れている。

 かんかんと、遮断機の音がうるさく、しばらく待つと電車がのんびりと目の前を過ぎていった。

「1時間に一本の電車にも、随分と乗る人が少なくなりました。過疎化ですねえ」

「にゃあ」

 遮断機が上がれば、私と先生は並んで歩く。

 外を行くとき、私はもちろん人の言葉は語らない。にゃあ、などと鳴いて見せる。かつての母が私をみれば泣いて喜んだことだろう。

 私もこの年になってようやく世知というものを理解した。

「盆祭りの音が聞こえるでしょう、猫殿……盆は、死んだ人間がこの世にかえってくるのですよ。それを生きた人間はお迎えする。死んでなお、里帰りをせねばならないという、人は因果な生き物です」

 先生は杖をつきながらゆっくりと歩く。先生はずいぶんな年寄りであった。

 しわしわの手、たるんだ足、着物の隙間から見える皮膚には薄いしみ。詳しく年齢は知らない。ただ年寄りである……私も、また。

 しかし体は堅強であるようで、先生はあちこちに出歩く。

 商店街の入り口にある港臭い魚屋で魚の切り身を仕入れ、隣の酒屋で日本酒を瓶に注いでもらう。

 それを腰からぶら下げて、さくさくと進む。私は先生の隣に続く塀の上に登り、上をまっすぐに歩く。

 猫はおおよそ高い場所が好きだ。私も猫である。上から見る町は、赤茶けて見えた。

 遙か東に海がある。もちろん、こんな低い塀からでは海まで見えぬが、その空を飛ぶ鳥は見えた。真っ白く大きな鳥である。

 そして海と逆方向には線路があり、その線路の向こうに先生の家がある。

 ここは人の少ない町だった。先生のアパートも、入居者は数人だけという有様。

 商店街も、多くの店がつぶれ、生き残っているのは魚屋と金物屋と、酒屋くらいのものだ。しかし先生は飽きもせず、商店街へ買い物に出た。

 気がつけば私も、その買い物につきあうようになっていた。

 最初は奇異の目でみられていたが、最近では驚きの声をあげる人間もいない。

 皆が皆、先生のご機嫌をとるように私の毛並みをほめ、私に魚の切れ端を投げてくる。これを役得というのです。と先生は私にささやいた。 

「先生、猫ちゃんのフードも取り寄せておこうかね?」

 金物屋の女が、訛りの強い言葉で言った。太いが愛想のいい女である。

 大昔、遠い島国から嫁いできたのだそうだ。何年ここに暮らしても、方言が抜けないのだという。

「猫ちゃん年寄りやけんね。年寄りの餌にしとかんと」

 金物屋といいながら、この店は野菜も日用品も売っている。

 以前頼んでいたという私の猫砂を受け取りながら、先生は困ったように笑った。

「猫殿はキャットフードをあまり好まないのです。それよりも、魚がお好きなようで」

「港町らしい贅沢なにゃんこちゃん」

 太い指になでられて悪い気はしない。尾のつ付け根をたたかれて、私はにゃあと鳴いてみせる。

「砂を持って帰るのも手間やろうね。もしあれならね、うちのに運ばすけん」

「ええ、でも家にこもるばかりの生活ですから、少しは歩かないと」

「そうやねえ」

 金物やの女が笑う。

「猫ちゃんを飼い初めてから、先生はすっかり元気になったもんね」

 二人分の買い物はすぐに終わる。ビニール袋の音を聞きながら、二人で歩く帰り道。不意に雲が割れて暑い日差しが差し込んで、私たちは同時に目を細めた。

「これは雨がまた遠のきましたねえ……猫殿、やっぱりちょっとだけお祭りを見に行きましょう」

 先生はにこりと笑って私の尾のあたりを軽くたたく。人の言葉を口にできない私は不承不承に小さく鳴いた。



 祭りというのは、うるさくやかましくごちゃごちゃしたものだった。

「にぎやかだな」

 私は思わず呟く。人に踏まれてはかなわないので、今は先生が私を抱き上げていた。先生の肩に顎を乗せる体なので、小声であれば周囲にも聞こえまい。

「よくもまあ、こんなに集まったものだ」

 私は半眼のまま、祭りをみる。普段は子供の姿しかない小さな公園に、それこそみっちりと人が集まっていた。これほどの人間がこの町にいたことがまず、驚きである。

 子供も大人も、派手な浴衣を纏って買い食いを楽しんでいた。夜になれば明かりがついて、この公園の中で踊るのだそうだ。それは奇異な風景であるに違いない。猫はそもそも踊らない。

「……中には生きた人間でないものもある」

 今この瞬間、私の前を通り過ぎた一人の男は、人ではなかった。人の香りがしないのである。

 男はまっすぐ進み、浴衣ではしゃぐ少女の側で足を止めた。彼の目と、少女の目元はよくにている。

 親子だ。と、私は悟った。

 彼は子供とその母親を見つめる。楽しそうにはしゃぐ声を、じっと見つめる。ただそれだけだ。

 こんなもの、ただの一方的な逢瀬である。猫には理解のできない感傷である。先生の書く小説に似ている。

「私には見えませんが、みな楽しそうですか」

「踊るものもあれば、たたずむものもある。せっかく死んだのに、こんな込み合う頃にくるなど、人間はやはり変わっている」

「……祭りがお気に召さなければ、私につきあってくれませんか」

 先生は時に頑固で、人の意見を聞かない。今もまたそうだ。私は先生に抱き抱えられたまま、人波を抜けた。

 そしてそのまま、暑い道を行く。黒いアスファルトは蜃気楼のように揺らめいて、煙でもあがりそうな勢いだ。先生の手に汗がにじんだが、それでも私を抱き上げたまま進む。

 肉球が焼けては可哀想だというのである。なめられたものだ。長く生きた猫の手足は、夏の熱などには負けないのである。

 しかし、抱えられているのも悪い心地ではない。私は黙って先生の老いた手の甲を見つめていた。

 人のいない道を抜け、緩い坂道を上ると眼下に海が見えた。潮の香りが鼻に届く。船の行き過ぎる音が聞こえる。

 先生は海を斜めに見下ろしながら、小さな門を開いた。

「ここは、墓地です」

 先生は私をおろし、そばにある水道を捻ってバケツに溜め始めた。

 水の流れる音が耳に心地いい。蝉の声と水の音と、海の音。

 ……ここは、音に満ちている。

 そして、鼻をつくのは抹香臭。先生の家にある、黒い蒲鉾の側から香る匂いだ。それを線香というのだ、と先生は教えてくれた。

「朝は混むのであなたが嫌がるかと思いまして。昼過ぎにきたのは正解ですね。もう誰もいない」

 先生は重い水を手に進み、私もそれに続いた。

 墓地と呼ばれるそこには、巨大な石が林立していた。古く朽ちているものも、まだ真新しいものも、様々だ。

 その石の前には、食べ物や花が飾られて、殺風景な風景に色を添えていた。

 似たような石をいくつも通り過ぎたあと、先生は一つの石の前に足を止める。

 りりりりと、ひぐらしの声が響く。曇り空の向こうに夕日の色がにじみ始める。

「ただの、石だ。先生」

「墓といいます。死んだ人間が入る場所です」

 先生は苦笑して、私の背を撫でる。

「そして、ここに私の妻が眠っています。妻は今年の春に亡くなりました、つまり新盆です」

 それはまだ、真新しい石だった。

「とはいえ、お互いに身内があったでなし、にぎやかなことを嫌う人でしたから、墓参りだけで新盆は終わりです」

 石になんと掘ってあるのか私には読めない。ただ、ひっそりと静かな墓であった。

「桜の好きな人でした。苦労ばかりをかけました」

 先生はつぶやきながら石に水をかける。新しい石の表面を、てらてらと水が下っておちる。

 踏み荒らされていない茶色の土に、水がするりと吸い込まれた。

「彼女が消えて、あとの人生は虚しくなると思っていたら、あなたという連れ合いができました。まったく人生とはわからないものです」

 だからあなたを一度、ここにつれてきたかったのです。と先生は呟くようにいって、墓の前に腰を下ろす。先程買ってきたものを石の前に細々並べ、手を合わせ頭を下げる。

 何度見ても、それはただの石だった。爪を研ぐこともできない。せいぜい夏の暑い日に寄り添えば心地良かろうと、そう思える程度の石だ。

 だというのに、先生はその石をじっと見つめる。撫でる。声をかけ、笑う。

 ……猫には分からぬ感情である。

 そのまま石にでもなったように、先生は動かない。なにを祈っているのか、謝っているのか、訴えているのか分からない。

 ただ不思議と、蝉の鳴き声がとぎれた。先生の邪魔にならぬように声を潜めているというのか。なににせよ、恐ろしいほど静かな瞬間が生まれた。

 ふと顔を上げて、私はようやくそこに女を見つけたのである。

「……おい」

「すみません。お待たせしましたか」

 私は思わず女に声をかける。それを催促と勘違いしたか、先生が顔を上げた。

 女はちょうど、先生の目の前にいる。老女である。柔らかい色合いの着物を身にまとっている。

 人であるならば先生は見えるはずだ。

 見えないということは、そういうことだ。

「いや……ああ、そうだな。早く帰ろう」

 女は私をみて、小さく会釈した。

 これが先生のいう妻であろう。と私は勝手に考える。

 柔らかそうな髪、白い肌。肌に刻まれた皺は、先生と同じ年の取り方をしている。

 先生が歩き始めると女も後ろに付き従った。先生と同じ数だけ歩く。ひたりと、影のようについてくる。

「先生、少し早く帰ろう。雨が降ると厄介だ」

 しかし歩いても歩いても、女は背後にくっついてくるのである。平凡な顔立ちの女だが、目の奥に我の強さがみえた。凛と音が鳴るような顔である。こういう女が一番手に負えないのである。

 蝉の声がまた響き始めた。暑さとやかましさと鬱陶しさに、私は軽い眩暈を覚えた。



 結局、女は家にまでついてきた。図々しい女である。いや、先生の細君であったのなら、部屋を占拠する私のほうが図々しい。

 しかし死んだ人間が勝手に戻って住み着くのも、やはり図々しいといえる。

「なにがしたい」

 幾度聞いても女は答えない。声が出せないのかもしれない。ただ静かに私を眺めて緩やかに頭をさげ、先生を見つめて静かに微笑む。

 彼女はいつか、部屋の隅っこに座り込むようになった。

 それは黒い蒲鉾が飾られている例の棚の前である。彼女はその隣に、背を伸ばして凛と座る。

 物言わぬ女にあきれ果て、私は彼女を無視することに決めた。

「今は暑いですが、もうすぐ夜が冷え込む季節がきますよ。蝉の声が変わりはじめてきましたから」

 先生は相変わらず朝から夜まで机に向かいながら、時々そんなことをいった。

 確かに蝉の声は質が変わったようである。狂ったような声から、何かを惜しむような鳴き声に。

 太陽の日差しに誘われたように、また蝉が鳴く。

 それは死者の泣く声なのかもしれない、と私はふとそう思った。

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