【短篇】夜の王は此岸にありて 3
『“決闘”だ』
思えば最初からおかしかった。
見慣れた筈の、可もなく不可もない顔。
クロという名前の通り肌以外、髪も瞳も真っ黒な、どこか垢抜けない男の子。
私の元婚約者。
見るたびに何故かイライラの募るその顔は、見たことの無い形相をしていた。
その瞳にも、初めて見る光。
それが怒りだと分かった時、心臓をぎゅっと掴まれるような。
そんな怖さが溢れた。
『ぐぅぅああああああぁぁぁぁあああああァァアアアアアア!!?!!?』
だからこそ、その絶叫が聞こえた時。
信じられない、という気持ちよりも少しだけ、やっぱり、という気持ちの方が多かった。
何事も卒なく、誰よりも上手くこなすディースに私は惹かれていた。
汗まみれ、へとへとになっているクロよりも。
汗一つかかずに、誰よりも早くその次へと進むディースに。
そんなディースが追い詰められて、叫んでいる。
聞いたことの無い声。
普段の優雅さとはかけ離れた、聞いているこちらが汗をかきそうなほどの。
それでも、やっぱり、と思ったのは、相手がクロだったから。
『俺の“真術”、【円環破り】は俺の攻撃を喰らった者の、魂の器そのものにダメージを与える』
私の中にいたクロは、いつも困ったような顔をしていた。
私の願いの半分も聞けない、聞けたとしてもボロボロになっているうだつの上がらない情けない人。
私の記憶にあるクロは、いつしかそんな姿ばかりだった。
それと比べ、私の願いを何事も無いかのように叶えるディースが眩しく感じた。
でも、だからなのだろうか、いつの間にか忘れていた。
クロはいつだって私の為に本気で頑張っていた。
私の為にボロボロになって、走り回っていた。
出来ない、と言うことはあっても、やっぱり駄目だった、とは言わない人だった。
私はいつの間にか、そんな大事なことを忘れていた。
「ディース、お前の永遠はここで終わりだ」
そして、それを思い出すには遅かった。
クロはディースの降参を受け入れず、ディースを滅ぼそうとしている。
死という概念の無い私たち種族にとって、それは理解できないことだった。
死ぬ。
ディースが。
現実感の無い、実感の沸かない状況。
でも、クロはやる。
いつだって本気だった、いつでも必死だった、あのクロが拳を振り上げている。
それは正に断頭台のギロチンのようで。
クロなら、嘘はつかない。
ディースは死ぬ。
漸くそれが理解できた時、私は叫んだ。
「やめてえええええええええええええ!!!!!」
ディースに死んで欲しくないのか、クロに殺して欲しくないのか。
自分でも分からない。
でも、それは何かとても嫌なことだということだけが解っていた。
私の絶叫は届いた筈だが、振り下ろした拳が止まることなくディースに迫る。
それは、もう、クロの中に私がいないという、何よりの証拠だった。
§
⦅―――止まりなさい⦆
囁くような声が聴こえた。
そして、俺の拳はディースの鼻先で止まった。
(………なんだ、これは?)
止めるつもりなどなかった。
俺は間違いなく、ディースに止めを刺すつもりだった。
だが、俺の拳は俺の意思とは関係なく静止した。
ふと気づいた、こちらを見つめる圧倒的な気配。
顔を上げる。
観客席には、母上と、ニーナ王女がいた。
(今の囁きは、ニーナ陛下の術なのか……?)
狐につままれたような、不可思議な感覚。
だが、例え陛下であろうと俺の戦いの邪魔をしたことは事実。
そこにどんな理由があるのか問わなければならない。
ニーナ王女と母上は、見えない階段を降りるように、空中を一歩ずつ歩いてくる。
そして俺たちの前に降り立った。
「ニーナ陛下。今俺を止めたのは、陛下でいらっしゃいますか?」
「ええ、そうです。お久しぶりですね。クロ、それからディースも」
俺の気炎など何処吹く風。
いつもと同じように優雅に挨拶をする。
子供のころから全く変わらない姿。
俺たちとは格の違う、ヴァンパイアの母。
「お、お、おぉぉお久しぶりで、ござ
「陛下。何故止めたのですか。例え陛下であろうと、“決闘”を邪魔することは罷り通りませんよ」
争いの熱がそのままに言葉になる。
不敬と分かりつつも。
「クロ。相手は降参を宣言していました。“決闘”は決着です。これ以上のヴァンパイア同士の戦いは認められません」
「そ、そうだっ! 降参したのだから
「“勝った方が全てを手に入れ、負けた方が全てを失う”。それがこの“決闘”に互いが賭けたものです。ディースは敗けた。ディースの全て奪うことは、勝者の権利です」
そう言い切って、ディースに睨みを利かせる。
俺の視線に気づいたのか、その身をぷるぷると震わせるディース。
「それでも、認められません」
「………何故ですか?」
「ディースはあなたにヴァンパイアを殺せる能力があることを知らなかった。考えもつかない能力の存在。その上で結んだ約束は、ディースにとって不利となります。そして、“決闘”や他のヴァンパイアの掟も、相手を殺せる能力の存在を考慮していません。よって、この“決闘”は私が預かります」
空気が弛緩する。
ヴァンパイアがヴァンパイアに殺されるという前代未聞の事態が回避されたことに、誰もがほっと息をついた。
だが、それでは納得できないのが今の俺だ。
「そんなのは詭弁だ………ッッ!!」
陛下の言葉に対し、それを誤っている論理だと指摘する、明らかに礼を失する行為に誰もが血の気が引いている。
それでも、俺は止まらない。
戦いは続いている。
陛下の言葉に、なあなあで頷くことはしない。
「仮にディースが勝利した際、俺には死にも等しいことを強要されたでしょう!! それなのに殺される事を想定できていたとは思えないから“決闘”は無効だと仰るのですかっ!? 陛下の仰ることは明らかに、ディースのみを優遇したものだ!!」
勝利した俺からその権利を剥奪すること。
陛下がもしそうなさる御積もりなら、それは、俺にとっての敵だ。
戦うしかない。
倒すしかない。
振り上げた拳の納め処を失ったように、戦いの高揚が止まらない。
「クロォォっっ!!? きさっ、陛下に、なんて……っっ!!?」
「黙れよディース!! お前はここで殺す!!! 誰が何と言おうと、敵であるお前の一切を許さないッッ!!」
もう殺そう。
ここで生かしておけば、ディースはきっと俺を恨み、また俺にとって害となる。
例え陛下がお許しにならなくとも、死んだ者は蘇らない。
もう、俺の敵として現れることも無い。
だから。
「お前はァッッッ……!!?」
陛下にも止められぬよう、瞬時に力を発動し、拳を突き出そうとした。
その時。
―――懐かしい光景を見ている。
まだ俺が小さかった時のこと。
母上がいて、父上がいて、遊びに来ていたノルンがいた。
ノルンは相変わらず我が儘で、でもそれを叶えてあげるととても喜んで。
それを見て父上も、母上も笑っている。
小さいけれど、幸せな世界。
幻覚。
夢。
―――………そう、夢だ。
はっ、と気づく。
まだ俺は拳を振り上げてすらいない。
辺りを見回す。
何も変わっていない。
(今の感覚……っっ!!)
一言も喋っていなかった母上の方を見る。
その瞳は真っすぐに俺を見ていた。
「どうやら、今のが私の力だと理解できるくらいには、冷静になれたようですね。クロ」
込めようとした力が霧散していく。
ヴァンパイアは夢を見ない。
そのヴァンパイアに夢を見させる能力、それが、母上の“真術”。
普通のヴァンパイアは永久にその夢の中を彷徨うことになるが、俺は何度も母上にその術を掛けてもらっていたから気付くことが出来た。
「俺は………」
「クロ。生きることは戦いだ、と言うことが分かったようですね。しかし戦いとは、拳を振り上げる事だけではないのですよ。クロがこれまで思っていた通り、戦うことを避けられるのであれば、それに越したことはありません」
戦うことに執着し、俺は冷静さを欠いていたようだ。
「ですが、避けてばかりいられませんし、戦い、ぶつかってばかりでも身が持ちません。戦いは、戦況を読むことが肝要なのですよ」
「母上……」
「クロ。陛下が、あなたの思うことが分からないとでもお思い?」
言葉に詰まる。
確かに、ヴァンパイアの女王であるニーナ陛下が、安易に片一方を優遇することなど考えにくい。
俺は何か勘違いをしていたのではないか。
そう思い、陛下を見ると俺を見て微笑んでいらっしゃった。
そこに怒りは無く、あるのは年下を可愛がるような、いや、愛らしいペットを見るような慈愛。
「クロ。私の言葉を最後まで聴いて戴けますか?」
「は…、はっ!!」
遅れも遅れ、膝を突く。
陛下の許しも無く同じ目線に立っていたことに、今頃になって漸く気づけた。
「ディースも、宜しいですか?」
「ははっ!!」
「―――この度の戦い、勝者をクロ・ヴァニシング・ナイトレゾンとする。
しかし、取り決められた報酬は勝者側と、敗者であるディース・ノーブル・エイトゼットとの間に認識の齟齬があった。その為、報酬の権利を剥奪し、勝者と敗者には、ニーナ・ノーライト・ブラックナイトよりそれぞれに報酬と罰を与えるものとする。」
「―――敗者、ディース・ノーブル・エイトゼット。」
「ははっ!!」
「汝には、今回の発端、クロ・ヴァニシング・ナイトレゾンを執拗に狙う悪意ある行動があった。それを考慮し、今後一切、クロ・ヴァニシング・ナイトレゾンへの報復行動を禁じ、―――貴族特権の一部凍結、そして“十字の祝福”を与える。」
その沙汰に皆、何かを言うことは出来なかった。
陛下が沙汰を下す、という時点で小さな刑では済まないだろうと覚悟していたから。
貴族特権の一部凍結の時点で大きな処罰である。
重大な掟破りを犯した者に与えられる刑だからだ。
そしてもう一つの刑、“十字の祝福”。
それは祝福とは名ばかりの、下級ヴァンパイアのように十字に非常に強い嫌悪感を抱いてしまうという呪いだ。
これもまた、相当に重い処罰であり、ニーナ陛下がそれだけディースの行動を重く捉えた、ということでもある。
だが、それだけでは終わらないようだ。
「また、クロ・ヴァニシング・ナイトレゾンが望む場合、ノルン・ディナイアル・ブラックナイトとの婚約を無効とする。」
陛下の言葉に皆、一様に息を呑んだ。
そもそも騒動はそこから始まっているとはいえ、婚約に関して陛下が関与することは無いと考えていたからだ。
婚約者がいる中で、別の男と関係を持ったことは問題であるが、言ってしまえば痴情の縺れに対し陛下が直々に沙汰を下すとは思っていなかったからだ。
それも、自分の子孫に対し。
「ぐ、ぅぅぅぅぅ……、畏まり、ました……。」
ディースは唸りながらそれを承服する。
そもそも陛下の言うことに反対は出来ない。
我々ヴァンパイアの始祖であり、真祖である始まりの吸血鬼の一人。
それは全てのヴァンパイアの神にも等しい存在だからだ。
食ってかかるなど以ての外。
仕出かしたことを思い出すと、今になって冷や汗が出てきた。
「クロ・ヴァニシング・ナイトレゾン。」
「はい。」
俺の名が呼ばれる。
元々、この戦いは瑠璃先輩を守るために始めたことだ。
ここへ来る前に従者たちが当家を去った理由を打ち明けられので、途中からその分もディースの命で支払って貰う腹積もりをしたが。
なので彼に求めるものは、俺と俺の身の回りの人たちの安全さえ守られれば特にそれ以上は無い。
だが寧ろ、陛下に不敬を働いた罰を言い渡されるかもしれない。
(それは困るな……。もし家が取り潰しになったら、彼らを再雇用するという約束が果たせなくなる……)
それだけは勘弁してくれ、と祈るような気持ちで陛下の言葉を待つ。
そして。
「汝を、勝利の報酬、そしてこの騒動により不当に傷つけられた名誉の回復として、
―――“夜騎士”に叙す。」
誰もが耳を疑った。
―――“夜騎士”。
それは、ヴァンパイアの掟を守らぬ者を処罰する、ヴァンパイアを狩るヴァンパイア。
吸血鬼たちの畏怖を集める栄誉ある職。
だがその栄誉ある立場は、基本的に“黎園”のヴァンパイアから選ばれるものであり、人間社会で生きるヴァンパイアから選ばれたことがあるのは、長い歴史にただ一人。
俺の父だけだ。
「な、に……!? クロが……!!!」
「俺が、“夜騎士”に、………。」
余りのことに、理解が追いつかなかったが、徐々に冷静さが戻ってくる。
名誉、下げられた配給血液のグレード、従者たちの立場。
俺が失ったそれらを手っ取り早く回復させる方法は、俺に何らかの立場を担わせること。
そして、潰れかけの貴族であり、また【円環破り】という危険な能力を持つ俺に任せられる職として騎士を。
その中でも取り分け、俺の真術の適正に合ったものが“夜騎士”という事なのだろう。
(こんな形で父上と同じ“夜騎士”なるなんて……)
嬉しさよりも、驚きが勝る。
だが、陛下が下したこの沙汰は、俺にとってこの上なく良い条件だ。
「“夜騎士”の任命、請けて頂けますか? クロ」
「喜んで。……そして、数々の不敬、どんな罰でも受ける所存です。どうかお許し下さい。」
「良いのですよ。久々に愉し、……いえ、新鮮な気持ちになれましたので」
愉しむ、と仰ったように聞こえたが、ここは聞こえなかったフリをするのが良いだろう。
そんなことは言ってないのだ。
例え、朗らかに笑うニーナ陛下が、恋バナや芸能人のゴシップを好む年頃の淑女のように見えたとしても。
きっと。
「皆、面を上げなさい。」
女王の言葉に、観客席にいた者たちも伏していた顔を上げる。
因みに観客席で跪いては、女王陛下が見えなくなってしまうので、皆立って頭を深く下げた体勢であった。
「この騒動は、これにて終わりと致します。ディースへの過度な誹謗も私の名に於いて許しません。そして、もしまだクロに対しても誹謗を繰り返すのであれば、その時は“決闘”となるやも知れませんね。―――次は私は止めに入らない、とだけ伝えておきますよ。」
それは、俺と“決闘”すれば命の危険がある、という事を陛下が認めたという事。
終わるはずの無い命が終わる。
その事実に、観客席で騒いでいた人達が顔を青くしているのがここからでも分かった。
だがまだ終わっていない。
もう一つ、重要なことが残っているのを忘れていなかった。
ノルンのことだ。
「―――最後に一つ。クロ。貴方はディース・ノーブル・エイトゼットとノルン・ディナイアル・ブラックナイトの婚約に、異議を唱えますか?」
その問いに対し。
「俺は―――。」
§
コロッセオの舞台から、控室に戻る廊下。
魔力によって灯された消えない蠟燭の火が揺らめく、薄暗い一本道。
肉体的にも精神的にもぐったりとしていた俺を待ち受ける影があった。
「クロ………」
「ノルン。」
黒いドレスに映える薄金の髪が、蠟燭の火に不規則に照らされて輝く。
海のように青い瞳。
いつ見ても美しい彼女は、今日はいつもと違う面持ちだった。
「私が悪かったわ………………。」
珍しいものを見た。
謝ったことなんて、ずっと一緒にいる幼馴染なのに片手で数えられるほど。
それも、俺に謝るなんてこれが初めてだ。
「私が、全て悪かったの」
「ディースとは、いつから?」
「………、2年ほど前から。」
「そうか……。」
裏切られた、という気分は湧かなかった。
理由も解っている。
「ディースは優しかったわ。あなたと違ってスマートで、何でも持っていて。例え私の血統が目当てだったとしても、彼は忠実に、私の理想の彼氏をしてくれたの……」
「そう、か……」
分かっていても、本人から聞かされるとまた切ないものだ。
だが、俺はそれを責める気は無い。
その資格が無いから。
「でも、言わせて。……どうして?
―――どうしてそんな力があるって言ってくれなかったの?」
「………。」
「どうして力を隠していたの!? 私だってクロにそんな力があるって知ってれば、ディースに靡いたりしなかった! クロが私に相応しい、って思わせてくれれば、こんなことにならなかったのにっっ!!」
俺はそれに、何も言い返すことが出来ない。
そして、何も言うべきではないと思った。
ノルンの叫びが廊下に反射する。
その残響がなくなるまで、俺はただずっと、彼女を見ながら沈黙していた。
心の底から悔いて、今にも泣きだしそうな彼女の顔を。
そして。
「何も、言わないのね……。私がこんなに自分勝手で、酷いことを言っても、言い返してくれないのね。」
「………。」
「~~~っっ!! 何とか言いなさいよっ! 私のこと、嫌なんでしょ!? もう顔も見たくないんでしょ!? だから陛下に、ああ言ったんでしょ!?」
俺が陛下に言った言葉。
それは。
『―――最後に一つ。クロ。貴方はディース・ノーブル・エイトゼットとノルン・ディナイアル・ブラックナイトの婚約に、異議を唱えますか?』
『俺は………、その権利を放棄して良いですか?』
『放棄する、ですか。はい、とも、いいえ、とも言わないと?』
『許されるのであれば。』
『いいでしょう。―――権利の放棄を認めます。』
ディースとノルンの婚約に異議を唱える権利、そのものの放棄。
それが俺の選択だった。
「どうしてよっ!! ムカつくでしょ!? 罵りなさいよ!! 私を傷つけてみなさいよ!! あなたが望むなら命を懸けて“決闘”だってしてあげるわ!! あなたの怒りを、私にぶつけなさいよ!!!」
髪を乱し、半狂乱となって叫び散らすノルン。
癇癪を起こした時とも違う様子に俺は、自分の過ちを改めて悟った。
息も絶え絶えとなった彼女に対し、俺は最後の言葉を言う。
「ノルン。俺は……、俺には、ノルンに怒ったり、何かを言ったりする権利が無い。」
「……え?」
「俺は、ノルンと向き合うことからいつの間にか逃げて来たんだ。君に怒られたくなくて、笑っていて欲しくて、俺はいつしか君の言うことを聞くだけになっていたんだ。今君が色んな顔を見せてくれて確信した。俺は君に、相応しくなかったんだ。」
「クロ………。」
「ノルンの言う通り、この力を君に相談すれば良かったのかもしれない。そうすればこんなことにはならなかったのかもしれない。君に相応しい俺でいられたのかも知れない。でも、現実はこの通りだ。俺は君から逃げた。勝手に逃げて、勝手に君への想いを失って、―――勝手に別の人を好きになってしまったんだ。」
全ての責任が俺にある、とは言わない。
ノルンにも悪い部分があったのは確かなことだから。
だがしかし、俺がノルンに相応しくなれなかったのは事実だ。
そして今、俺の心にいるのがもうノルンでないのも。
「君に相応しいのはディースか、或いは別の誰かか。それは分からないけど少なくとも、俺はもう、ノルンに相応しくない。そんな俺に、君とディースのこと、君が決めたことに何かを言う権利は無いんだ。だから、―――終わりにしよう。」
「クロ……っっ!!」
「終わらないと思ってた、永遠に続くと思ってた俺たちの関係を、今。」
だから俺はこの永遠を捨てよう。
結局今のこの状況が、ノルンの始めたことなのか、俺が始めたことなのか、若しくはディースなのか。
俺がノルンを愛せなかったからなのか、それともノルンが俺を愛さなかったからなのか。
当事者である俺たちには分からないし、もうどうでもいいことだ。
分かり切っているのは、終わりなのだという事だけ。
「さようなら、ノルン。」
俺はずっと昔、君を愛していた。
その愛をどこかに無くしてしまったのは俺だから、君を恨んでなんかいやしない。
でもそれを、口に出すことは無く、俺はその場を後にした。
逃げたんじゃない。
戦いを避けたんじゃない。
戦って、俺は敗けたんだ。
§
『俺には、ノルンに怒ったり、何かを言ったりする権利が無い。』
そうじゃない。
そういう事じゃない。
私は、クロに怒って欲しかった。
怒って、怒鳴って、私がしたことを許さないで欲しかった。
潔く自分が悪かったなんて、自分に責任があったなんて、そんなことが聞きたかったんじゃない。
そんなことを言って欲しかったんじゃない。
だって、そんな言い方。
肯定しているようなものだから。
認めているようなものだから。
私のことをもう、なんとも思っていないって。
クロの心に私はもういないって、言っているようなものだから。
そして。
『だから、―――終わりにしよう。』
ああ。
やっぱり。
ディースを本気で殺そうとした時に感じたことは、間違いじゃなかった。
もう、クロの中では、終わってしまったんだ。
ずっと昔、クロのことが好きだった。
鈍くさくても、いつも飄々としているクロのことが。
でも、周りはそう思わなかった。
クロはカッコ悪いとか、クロは私に似合ってないとか。
口々にクロを悪く言った。
私はそれが嫌だった。
自分が好きなクロが、周りに認められて欲しかった。
だからクロに無理難題を言った。
私の願いを聞けるのはクロだけだと、クロは私のことがこんなに好きなんだと。
最初は周りに広める為のことだった。
ボロボロになっても私の願いを聞いてくれるクロのことも好きだった。
でも、現実は私の思い通りにはならなかった。
クロが私の尻に敷かれた駄目な奴、という認識は変わらなかったし、私にはもっと相応しい人がいる、という風潮もそのままだった。
そしていつしか、いつまで経ってもうだつの上がらないクロのことが憎くなり、そしてそんなクロと対称的なディースに惹かれてしまった。
そして、私に愛想の尽きたクロには今、別の想い人がいる。
私たちの関係はとっくに終わっていたのだ。
だが、最初にそれを壊したのは紛れもなく、私の方だ。
その上、彼を没落させようとした。
私の思い通りにならないならいっそ、壊してしまおうと。
『終わらないと思ってた、永遠に続くと思ってた俺たちの関係を、今。』
私は酷いことをした。
これまで沢山。
それを叱って欲しかったのは、清算することでまた関係が続くと思いたかったから。
そして、そうされて楽になりたかったから。
クロは、そんな心を見透かしたわけでもなく、終わりを告げた。
ただするりと私の手からすり抜け零れ落ちるように、私から離れていく。
ああ、そうだ。
そんな彼が、好きだったんだ。
自由で、掴みどころのなくて、でも義理堅くて、傍にいてくれた。
そんな彼が。
クロは自分が私に相応しくなかったと言ったが、逆だ。
彼に私は、相応しくなかった。
盲目で、大切なものを見落としてしまった私。
きっと、陛下が最も罰したかったのは私なのだ。
陛下はクロに“夜騎士”を叙し、ディースを誹謗から守った。
だが、私には何もない。
その上、クロに婚約に対して異議を唱える権利をお与えになった。
クロがどういう選択を取ろうが、全ての誹謗は私へ向く。
唯一陛下から何も庇護を得なかった私に。
身内だからこそ殊更に、盲目であった私を許さなかったのだろう。
「さようなら、ノルン。」
クロが去る。
私の前から、永遠に。
今度会うときは、何でもない二人になる。
もう二度と、二人でいた時間は戻ってこない。
もう二度と、あの時の二人には戻れない。
一歩ずつ私から離れていく彼に、何と言って良いか分からない。
何かを言う権利があるのかも解らない。
そして、何も言えず、クロは行ってしまった。
「―――さようなら、私の騎士。」
一人になってしまった廊下に、私は小さく別れの言葉を呟いた。
今更になって涙が零れ落ちる。
私はどうすればよかったのだろう。
何処で間違えたのだろう。
分かっていることはただ一つ。
これ以上無いほどに手痛く、私はフラれたのだ。
§
私にとってその人は、夜の王様だ。
人混みで溢れる夜の街。
その中を当て所なく歩いていた。
ある人を探しに。
目撃情報があったわけでもないのに、この繁華街を。
だけど、確信があった。
この街に彼がいるのなら、私はきっと見つけられると。
夜が誰よりも似合う彼だから。
夜に誰よりも溶け込む彼だから。
夜に誰よりも輝く彼だから。
きっと私は見つけられる、そう確信していた。
そして、出会った。
居酒屋の前。
誰かを待つように物憂げに提灯を見つめる彼を。
流れる人、響き渡る雑音と、噎せ返るような雑多な匂い。
それらが全部、彼のものであるような、彼の為に用意されたような、不思議な存在感。
黒い髪、黒い瞳。
何処にでもいそうな風貌に、でも何処にいても分かりそうな雰囲気。
吸い寄せられるように近づいて、話し掛けて、驚いた目をしてくれて。
私は足を踏みつけた。
彼に血を吸われたあの夜から、ひと月が経とうとしている。
そろそろ梅雨が来るようで、俄かに蒸し暑くなってきたこの頃。
私は夜になると、アパートの窓から外を眺めて待っている。
大学の近くに借りている、一人暮らし用のアパート。
そこから見える夜の住宅街を見ながら。
携帯には15分前に、そろそろ着く、と連絡があったきり。
それからずっと待っている。
今か今かと、街の灯りでよく見えない星空に、目を凝らしながら。
そして。
「あ。」
寝静まり、灯りの消えた家の屋根に、人影が現れた。
ワイヤーアクションのように浮き上がり、沈んで、また浮き上がるのを繰り返して、少しづつ近付いてくる。
目的地は当然、私の部屋の窓。
「遅くなってゴメン」
遠くの家の屋根から山なりに飛んできて、私の部屋の窓枠に足を掛けた。
「ほんと、遅いよ!」
冗談めかしてそう言った。
彼の困ったような顔が見たくて。
彼の声が聴きたくて。
何も言わず、彼が手を伸ばしてくる。
私も何も言わずその手を掴むと、窓の外へと吸い込まれるように体を外へと放り出される。
落下を始めようとする身体を彼がしっかり抱きかかえる。
そして、またも吸い込まれていくように夜空へと舞い上がると。
眼下に全てがあった。
闇に灯る人の営み、その全てが。
彼を見る。
私の視線に気づいて顔を綻ばせる。
この景色は全て、彼のものなのだ。
彼こそが、夜の王様だ。
「ねぇ…、好きよ。」
「………うん?」
風を切る音で聞こえなかったのか、それとも大事なことを聞き逃してしまう体質なのか。
私の恥ずかしい言葉を聞いてなかった罰として、
―――吸血鬼の首に、口付けをした。
§
首筋に触れていた瑠璃先輩の唇が離れた。
月の光が優しく、彼女の濡れた瞳を照らす。
花に誘われる蝶のように、俺は唇を重ねた。
人間の彼女。
“夜騎士”という称号。
そして、ヴァンパイアを滅ぼせるこの力。
それらを持つ俺にこの先、何が待っているのか。
今知る術はない。
ただどんなことが待ち受けていても、どんな困難が立ちはだかっても、俺はもう逃げ出さない。
俺の思う勝利の為に、―――俺は戦い続けよう。
永遠が終わるその時まで。
拙い文を最後までご拝読いただき、ありがとうございました。
よろしければ、感想、評価等頂ければ幸いです。