【短篇】夜の王は此岸にありて 第一夜
よろしくお願いします。
「今ここで、あなたとの婚約を破棄させて頂きますわっ!!」
俺の名前は、クロ・ヴァニシング・ナイトレゾン。またの名を星見 玄。
現代に生きる貴族ヴァンパイアだ。
この情報化社会と呼ばれる現代には、人間に交じってヴァンパイアたちが暮らしている。
ヴァンパイア、若しくは吸血鬼と聞いて想像するであろう、不死身の体、蝙蝠などに変身する能力などを持ち、人の血を吸う夜の住人。
更に、俺のような貴族のヴァンパイアは日の光やニンニクの匂いなどの代表的な弱点を克服した、いわゆるデイウォーカーだ。
ヴァンパイアたちは世界の至る所におり、この世界の上層部、富裕層の多くはヴァンパイアによって支配されている。
俺の住む日本の首相なんかも、選任された最初の仕事はヴァンパイアに血を吸われ、眷属となることだ。
とはいえヴァンパイアの存在はこの世界の秘密。
その存在を知られることは、ヴァンパイアの社会において重罪となるのだが。
そんな世界を支配するヴァンパイアの社会は、前時代的な貴族社会だ。
始まりの吸血鬼の一人、ニーナ・ノーライト・ブラックナイトを女王とした、封建制。
それがかれこれ2千年は続いているようだ。
ちなみに俺はまだ21歳。
ヴァンパイアの中では生まれたてほやほやである。
人の上に君臨し、永遠の時を生きる我々ヴァンパイアの社会が美しく、煌びやかなものかと言われれば、残念ながらそんなことは無い。
死なない我々吸血鬼の間で行われるのは、人間とそう変わらない、マウンティング合戦だ。
人間の社会にいかに溶け込めているか、と言うところから始まったヴァンパイア同士の意地の張り合いは、長い年月と加速する情報によって、人間社会でのステータスを競うようになっていた。
やれ成績が良い、やれ良い大学に進学した、やれどこどこの大企業に就職した、だの。
不死身とはいえ生まれたばかりのヴァンパイアなど、精神的には人間とそう変わらない、という証左かもしれないが、兎も角、俺もその只中で生きていく定めであった。
だが、今俺はこうして、貴族ヴァンパイアの社交界のど真ん中。
婚約者にその破棄を言い渡されていた。
「あなたの取り柄なんてちょっと勉強が出来るだけだったのに、大学を中退するなんて信じられない!! もうあなたはいらないわっ!」
「……確かに君の言う通り、悪いことをしたとは思っている。だけど……」
「最初から釣り合っていなかったのよ! あなたみたいな“落ちこぼれ”と、私のように高貴な吸血鬼とでは!」
周りからは、俺たちの大立ち回りをニヤニヤと眺める底意地の悪いヴァンパイアたち。
「そんな……」
「もう私に構わないでくれる? 新しい婚約者を見つけたの」
「なっ!?」
衝撃的なことを口走ったのは俺の婚約者、だった、ノルン・ディナイアル・ブラックナイト。
王族の血が入った、由緒正しき貴族の子女だ。
そして周りを取り囲む群衆の中から颯爽と現れたのは。
「悪いな、クロ。そういう訳だ」
「ディース……」
ディース・ノーブル・エイトゼット。
黒いスーツのよく似合う、嫌味なイケメンだ。
天才、と誰もが称する完璧人間。
大学も俺よりも偏差値が上の、超難関校に通っている。
ディースがノルンの肩を抱く。
それを見て、周りから黄色い声が上がる。
「何がそういうことだ、ディース。人の婚約者に手を出して、どういうつもりだ?」
「お前も分からない奴だな。クロ、お前では彼女に相応しくない」
「答えになっていないが?」
「答える必要はないわ、ディース」
ディースを問い詰める俺を遮ったのは、他でもないノルンであった。
「……ノルン」
「クロ。あなたには愛想が尽きたの」
「そんな勝手な……。大体、俺たちの結婚は親同士が取り決めたことだ。貴族の約束を、そんな簡単に
「お父様たちからは了承を得たわ」
「っ!!」
「そしてクロ。あなたの両親は、お父様はお亡くなりになって、お母様はずっとお眠りになっていらっしゃる。約束はもう効力を失ったわ」
「そんな……」
目の前がぐらつく。
気がおかしくなりそうだ。
ヴァンパイアは夢を見ないのに、これが悪夢であってくれと思う。
「もういいだろ、クロ。これ以上恥を上塗りするな。それとも、俺から力づくで奪うか?」
心は全く平常でないのに、クスクスという笑い声ははっきりと聞こえる。
“決闘”。
ヴァンパイア同士の殺し合いは基本的に認められていない。
だが、どうしても意見が対立した時。
白黒つけるために“決闘”というルールがある。
読んで字のごとく、二人のヴァンパイアが一対一で戦い、負けた方が勝った方の言うことを聞く。
酷く原始的なもの。
ディースと戦って、ノルンを取り戻すべきか。
だが………、悪いのは俺だ。
そもそも大学を退学せざるを得なくなったのは、俺の責任なのだ。
それに、ノルンの心が俺から離れたのであれば、もう仕方が無いことなのかもしれない。
「分かった。ディース、ノルンを頼む。」
「ああ。……頼まれたよ。」
ディースはそう言いながらも、俺を小馬鹿にするように嗤った。
こいつは昔からこういう、態度が鼻につく奴だ。
しかし、今それ以上に格好がつかないのは俺だ。
抱き合う二人を背にして、俺は逃げるように社交界の場を去った。
幸いだったのはニーナ王女がまだいらしてなかった事だが、あの様子ではその日のうちに伝わるだろう。
暗くなる気持ち。
引きづるような足取りで、その日は屋敷に帰った。
§
クロが帰ってから数時間後。
隔月で開かれる社交界は盛況のうちに終わった。
話題は、こっぴどく振られたクロの話題で持ちきりであった。
自室で二人きりとなったディースとノルン。
「上手くいったわね、ディース」
「ノルンのお陰さ」
計画の成功を祝う二人。
「それにしてもいいタイミングだったわ。クロが大学を退学してくれて」
「渡りに船とは正に、だな」
二人はクロが退学する前から惹かれあっていたのだった。
どうにかクロを排除しようと目論んでいたところに、都合よく、クロが大学を退学したという情報が舞い込んできたのだ。
「最後にようやく私の役に立ったわ」
「はは! 最後のあいつのセリフを聞いたか? 『ノルンを頼む』だってよ」
「ははは! “決闘”する勇気が無かっただけの癖に!」
「ま、あれで頭はまともだからな。“五大鬼術”もろくに使えない自分では勝てないと分かっていたんだろう。何せ、“落ちこぼれ”だからな」
ヴァンパイアの使う超常的な技、彼らの間ではそれを“鬼術”と呼ぶ。
“五大鬼術”とは鬼術の中でも、ヴァンパイアの使う有名な5つの技の総称だ。
怪力、変身、隷属、催眠、放出。
これらが一通り使える事が、ヴァンパイアとしてのステータスであり、貴族でありながら怪力の術しか使えないクロは“落ちこぼれ”として有名であった。
「ようやく一緒になれるのね、私たち……」
「ああ。だが、念には念を入れておく。クロを追い込んで没落させる」
「そんなこと……。クロは兎も角、あのクローゼ様よ?」
クローゼ、と言うのはクロの母親である、クローゼ・ヴァニシング・ナイトレゾンのことだ。
御年302歳。
「大丈夫さ。恐らくクローゼ様はお目覚めになったら、すぐにでも“黎園”へ登る。そうすれば、クロに何が起きても手出しは出来ないさ」
「そう……。そうね、あなたの言う通りだわ、ディース」
ディースがノルンの腰に手を回す。
そして瞳に映る自分の姿が見えるほどに、近づく。
「俺たちの邪魔をするものは、俺が徹底的に排除する。……誰にも邪魔はさせない。」
「ディース……。……二人きりね。」
影が重なる。
二人は同じ星を見た。
§
「……ただいま。」
あの衝撃的な社交界から数か月後。
状況は日に日に悪くなっていった。
ヴァンパイアは、生きていくのに血を吸う必要がある。
“真祖”と呼ばれる始まりの吸血鬼からは、血縁的にかなり遠ざかった俺たちの世代。
それによって、吸血欲求やヴァンパイアとしての能力は弱まりつつあるようだが、それでも血は必要だ。
それが若き異性のものであれば尚良い。
味が断然違うのだ。
しかし、成人のヴァンパイアの平均摂取血液量は一日あたり、0.75リットル。
当然、全てのヴァンパイアたちが道行く人を手当たり次第に血を吸っていては死者が絶えない。
そこで先祖の皆さんが考えたのが今の封建制度であり、納血制度だ。
納血とは、貴族が管理する地域の病院などから血液を搾取し、王族へと一度納める。
そして王族から、働きに応じ血液を配給する制度。
これが今日までヴァンパイアという種を守り続けてきた。
貴族が土地を治め、王族が貴族を束ねる。
貴族以外の下級ヴァンパイアは、貴族の傘下に入り、その中で働く。
これが今のヴァンパイア社会の仕組みだ。
人とそうは変わらない。
寧ろ、昨今の情勢からすれば古く、廃れつつあるスタイルだ。
だが、ヴァンパイアは長命であり、トップである王女の命は永遠。
それ故に、封建社会と言うトップダウン型の狭苦しいスタイルが合っているのだろう。
まぁ繫殖能力がとても低く、同年代が世界中でも4,5人しかいない、という点も含まれるかもしれないが。
話を戻そう。
問題はその血液の配給だ。
父は死に、母は俺が15の時からずっと眠っている。
ヴァンパイアの殆どは一人っ子で兄弟がいない。
そのため親戚がいない者が多く、例に漏れず俺もそうだ。
更には王家の血の入ったノルンとの婚約を無かったことにされた。
つまり貴族としての後ろ盾がない。
絶賛落ち目なのだ、我が家は。
元々少なかった我が家に所属するヴァンパイアたちも、沈む船から逃げることネズミの如く、散っていった。
そんな訳で人手が足りなくなり、王家に献上する血液が少なくなったのだが、そこに難癖をつけられた。
「血液のグレードが下がる? 何故ですかっ!?」
「今期に献上した量が少なかったからだ」
「それは、人手が足りないからで……」
「王女様にもそう言い訳できるのか?」
「くっ!? だがこれは王女様の決定なのか!?」
「貴様が知る必要は無い。落ち目は落ち目らしく、汗水垂らして働けば良いのだ」
と、血液の配給も担当している財務大臣に告げられた。
言いたい放題言ってくれる。
だが血液の献上量が少なかったのは、純然たる問題だ。
今は俺が病院に赴き、下級ヴァンパイアがやるような事務的な手続きから全て行い、血を回収している。
当然、人間社会どころではない。
だが人間社会でのステータスが無ければ、軽んじられるのもまた必然。
どうにもこうにも首が回らない状況なのだ。
「あら、お帰りなさい」
脱いだスーツをソファーに投げ出し、冷蔵庫の中から配給された血液パックを取り出す。
「うえっ……。」
最低グレードに下がった血液はとても不味い。
病に罹った老人のものだろうか、砂を噛んでいるような不快感が口の中に残る。
血液を納める貴族の中には、量を確保するためにこういった粗悪品を献上する者も少なくない。
質の悪い血はヴァンパイアとしての能力を下げるとされている。
事実、取り潰しとなった貴族がヴァンパイアとしての権能を少しづつ失っていった様も見ている。
このままでは名実共に下級ヴァンパイアとなってしまうだろう。
「どうしたものか……」
打つ手の無い状況に、おかえり、というものもいない広い屋敷の中で独り言ちた。
「………………………………………………ん?」
リビングを見る。
深夜ドラマを映すテレビの前に、優雅にお茶を嗜む貴婦人がいる。
母だ。
「母上っ!!?」
「クロ。帰ったのなら、ただいまと言いなさい。それから手を洗いなさい? 世間では新型のウイルスが流行っているそうですよ」
6年ぶりに動く母の姿を見た。
§
「それで、私が眠っている間に何があったのかしら?」
「……何から説明すれば良いのか」
久しぶりの母の手料理に喜んだのも束の間、情けない現状を包みなく話さなければならないという大仕事が残っていた。
「母上が眠りについてから、必死に勉強して、○○大学に受かったんです。そこまでは良かった。貴族としての仕事は、母上が残してくれた従者たちが手伝ってくれていたし、大学での生活も特に問題は無かったから」
「彼女は出来た?」
「……いえ。」
「あら、それは問題じゃない」
「話を逸らさないで下さい」
「重要な問題よ。大学生の本分は、彼女を一人暮らしのアパートに連れ込んで猿のように目合い、朝、小鳥の鳴く音と共に起きて、寝顔を見られたことを恥じらう彼女と再び目合いつつ授業をサボり、単位を落とすことなのだから」
「それが大学生の全てという論調は止めてください。あと、そんなこと息子に言わないで下さい」
思い出してきた。
母上はこういうお人だった。
思い出が美化されるというのは本当であったと確信しつつ、思い出の中でじっとしていて欲しいと切に思った。
「好きな人は?」
「……俺には婚約者が、まぁいる、というかいたんですよ」
「間があったわね」
「話を戻しますよ! ―――問題は半年くらい前、サークルの飲み会の帰りに、“怪力”を人目があるところで使ってしまったことから始まりました」
「………。」
その時の事を思い出す。
己の愚行と、転落の始まり。
「一緒にいた人にしつこく絡んできた男たちが、その人に手を伸ばしたのを見て咄嗟に、威嚇するために地面を踏み砕こうとしたんです。でも、力加減を間違い、地震のように響いてしまって。結果としては一緒にいた人は無事でしたが、飲み屋街のことでしたから多くの人が俺のことを見てしまいました。恐らくはその場に、同じ大学の人もいたと思います。なので、噂が広がって俺の正体を探られない為に、大学を辞めて周辺から去ることにしました」
「………。」
愚かさに、母上は言葉も出ないのか。
だがひとまず話を続ける。
「大学を辞めることが婚約者のノルンに伝わり、愛想をつかしたノルンに婚約の破棄を、社交界で堂々と言い渡されました。それから、従者はいなくなり、配給のグレードは落とされ、こんな有様です。
………母上、申し訳ございません。俺は……、俺は家を!!!」
「クロ」
「……はい。」
継がれてきたこの家。
それを終わらせる原因を作った俺を、母上はどう思うだろうか。
知りたくない。
だが、知らなければならない。
気分は判決を待つ被告人、いや、ギロチンを待つ死刑囚だ。
そして。
「一緒にいた人とは女性ですか?」
ずっこけた。
「母上っ!!」
「大事なことです。女性ですか? ヤりましたか? それとも、その日ヤるところでしたか?」
「じょ、女性ですけど、ヤりませんよっ!!」
「はぁ……。とんだ甘ちゃんですね……」
「息子に何を言っているんですかっ!!」
調子が狂う。
そういえば昔は四六時中こんな感じだった。
「ですがこれは本当に大事なことです。その女性は、あなたにとって大事な人でしたか?」
「それは……」
彼女のことを思う。
羽柴 瑠璃。
同じ大学、同じサークルの一つ上の先輩。
学校で彼女のことを知らない人はいないだろう、と言うほどの絶世の美女。
ヴァンパイアは種として容姿が整った者が多いが、だがヴァンパイアの中でも浮く。
それほどの美貌。
ツヤのある黒く長い髪。
透き通った肌。
きりっとした大きい瞳。
余裕のある、ミステリアスな雰囲気。
婚約者のある身で情けないことだが、俺も彼女に惹かれた一人だ。
だが言い訳をすると、彼女に惹かれた理由はその美貌だけではない。
俺が入学して間もなくの頃。
俺も、整った容姿の多いヴァンパイアの一人であるからして、イケメンと呼ばれることもたまにある。
まぁ世の中上には上がいるが。
その俺の容姿や身体能力で女性に言い寄られることがあるお陰で、俺は少々やっかみを受けていた。
サークル内でも過度ないじりを受けることが多くなってきたその時、声を上げてくれたのが瑠璃先輩だ。
鶴の一声とは正に、と言ったところで、その日の内から俺への態度は軟化していった。
多くの人の前で誰かを庇う勇気が、俺にとても眩しく、新鮮なものに映った。
ヴァンパイアも人間も、歳が同じなら精神的な成熟もそう変わらない、と思っていた自分。
だが、瑠璃先輩のみせる姿、その心のありようは、今まで自分が見てきた人間とも吸血鬼とも違うものであった。
それからというもの、俺は瑠璃先輩を(先輩として)慕い、瑠璃先輩も俺のことを事あるごとに気にかけてくれた。
そういう関係だ。
だから、大事かどうかと問われれば。
「大事、です…。」
「そうですか」
母がカップの中を飲み干す。
「ならば良いです」
「………それは、どういう」
「クロ。私は近いうちに“黎園”へ登ります。」
「えっ!?」
“黎園”というのは、300年以上生きたヴァンパイアが住む場所だ。
そこへ行けば、もうその外へと出ることは出来ず、“黎園”に住む者以外とコンタクトを取ることは出来ない、ヴァンパイア達の楽園と言われる場所だ。
そこへ行くことを、ヴァンパイアの間では“登る”と言う。
「そんな!? 母上は、俺と一緒にいて下さらないのですか!?」
「クロ。私は今年で302歳です。本来ならば、“黎園”に登っていなければなりません。こうして盛大に寝坊出来たのは、偏にニーナ様のご厚意あっての事」
「ね、寝坊だったんですか……」
衝撃の事実だ。
揺すっても、大声を出しても、健やかな寝息を立てるだけでうんともすんとも言わなかった母上が、ただ寝ているだけだったなんて。
「どの道、あなたは一人で生きて行かねばなりません。苦労を掛けて心苦しく思いますが、励みなさい。あなたがいつか“黎園”に来た時には、歓迎しますよ」
「その“黎園”に行けないかも知れないんですよ!? 血液のグレードが落ちて、俺は下級になってしまうかもしれません! 貴族でないヴァンパイアは永遠ではありません! 300歳の前に寿命が来てしまうかもしれないんですよ!? それなのに母上は
「クロ。」
溜まりに溜まった怒りと不安が一気に出てきてしまう。
久しぶりに会った母にこんなことを言いたいわけではないのに。
だが、溢れ出る不満を優しく包むように、母上は俺の名前を呼んだ。
「何を心配しているのですか、クロ。あなたはヴァンパイア。永遠を生きる者なのですよ?」
「ですから、永遠ではなくなると……」
「下級であろうとも、200年は生きます。それに元が貴族のあなたならきっと300歳までは生き続けるでしょう。確かに本当の意味で永遠では無いかも知れませんが、それの何が問題だというのですか? 人に比べれば遥かに果てしない命であるというのに」
「それは………。」
「クロ。お聞きなさい」
答えに詰まる俺。
優しく語り掛ける母上の言葉に、頭を上げ、その眼を見据える。
そこには悠久を生きる者の眼。
底の見えない暗黒、それでいて慈愛に満ちた瞳があった。
「―――思うように生きなさい。そして、生きる事とは戦いだと知りなさい。」
「母上………、何を………」
「そして、あなたが守った人ともう一度会いなさい。そうすれば、自ずと解るはずです」
「………。」
だが今の俺には、母上の言う所の意味が解らなかった。
§
それから数日。
『因みにクロの参加しているサークルとは、俗に言うヤリサ
『違います』
母上はまだ屋敷にいるが、“黎園”に登るという意思は変わらないようで、母上はずっとあの調子だ。
俺を手伝うようなこともない。
「はぁ……、今日も疲れた…」
時刻は夜。
病院を回り終え、血を回収し終わると俺は、近くの飲み屋街まで繰り出した。
飲まなきゃやっていられない、そんな日もある。
母に、今日の夕食が要らない旨を伝えると、賑わう夜の街を当て所なく歩く。
どこかいい店は無いか。
星が見えない程に輝く街の灯り。
四方から響く雑多な人の声。
汗と香水、料理とアルコールの匂い。
人の山。
理性と本能の境界線を揺蕩うような、この夜の街の雰囲気が俺は好きだ。
夜の街を楽しみながら散策していると、懐かしい匂いのする人間が後ろから近づいてくるのが分かった。
男だ。
俺と同じくらいの歳の、茶髪の青年。
「玄? 玄じゃないか、お前!?」
「……もしかして、大ちゃん!?」
そこに立っていたのは、幼馴染の見唯 大地。
昔近所に住んでいた、1つ年上の快活な男の子。
十年ぶりの再会だった。
「やっぱりそうだ! マジで久しぶりだな!!」
「小4以来だから、10年ぶりだ!」
「いやぁ懐いわ! 何してんの今?」
「仕事の帰り、みたいなもんだな」
「仕事!? 働いてんの!?」
「色々あってね……」
「色々、か。そりゃ色々あるわな! どっか入らん?」
「いいね! 大ちゃんは飲める方?」
「いやバキバキよ? 俺」
それから俺たちは近くの居酒屋に入り、これまでのことを話し合った。
今母上と俺がの住んでいる屋敷とは別に、人間としての生活に馴染むため、家族で一軒家に住んでいた頃。
大ちゃんは、俺が昔住んでいた家の近所の子だった。
面倒見がよく、一つ下の俺ともよく遊んでくれた。
二人で一緒に家でゲームしていたことを、今でもよく覚えている。
大ちゃんは、俺が小学三年生のころ、遠くに引っ越して、それ以来連絡を取っていなかった。
「マジで懐いわ! あのゲーム始めた頃、お前よくキレてたもんな!」
「いやあれは大人げないゲームだよ、ホントに。子供にロールだの、DPSだの考えさせるなよ!」
「間違いない。あれはイカレてた。今にして思うと」
彼には、俺がヴァンパイアだとは伝えていない。
ヴァンパイアは隠していても、人とは違う。
寿命だけではなく、物覚えや身体能力、ありとあらゆる人間よりも優れているのだ。
その能力の差は容易く軋轢を生む。
だが大ちゃんは、俺を友達として見てくれていた。
それは彼が一つ年上で、一つ年下の俺と丁度能力的に同じ程度に収まっていたからかもしれないが。
それでも、十年ぶりに出会った彼は、大学生となっていても思い出の通り面倒見がよく気さくであった。
「てかなんで働いてんの? お前、頭良くなかった?」
「それは……」
「……まぁ、言いたくなければ良いんだけどよ。でも悩みがあるなら相談してくれよな! 黙ったままなんて水臭いぜ?」
言うか言うまいか悩んだが、俺はヴァンパイアとしての部分だけ伏せて、簡単に現状を彼に伝えた。
すると。
「ぐっっ、うう……」
「だ、大ちゃん?」
「俺が呑気に大学で遊んでいる間に、お前がそんなことになっているなんて!!
酔っ払いに絡まれて、つい暴力を振ってしまって大学を退学することになってしまって。
そして退学になったことで、今まで自分を援助してくれていた人から見放されてしまって。
家業を継いだけど援助してくれていた人が今度は妨害工作をしてきて上手くいかなくて、ついでに親父さんは死んでて、お袋さんは寝たきりだけど最近目を覚ましたなんて……!!
あんまりだぁっ!!」
「いや、その……」
確かにそんな説明を自分からしたが、人から聞くと確かにあんまりな境遇だ。
だが同情を買うような内容と、その説明の中には俺の落ち度があまり含まれていないような気がして、どこか居心地が悪い。
「そ、そんなに心配しなくても、ほらっ! 生きてるから!」
「生きてるから、ってなんだよぉ~!! 生存は人間として最低限の権利だろうがぁ~!!」
確かに。
「何か困ったことがあったら必ず俺に言えよ! 約束だからな!? ほら、これ俺の連絡先!」
「あ、ああ。ありがとう……」
十年ぶりにあった奴にここまで親身になってくれるなんて。
優しいけれど、その優しさが不安になるな。
その後、もう一軒行こうという事になり。
「ここの支払いは任せろーーーっっ!!」
「やめてー!! じゃなくて、そこまでしなくていいから!!」
「いや任せろーーーっっ!!」
マジックテープ式ではない、長財布からお金を取り出す大ちゃんを止められず、奢ってもらってしまった。
「これじゃあ、奢ってもらうために不幸自慢したようで、情けなくなるな……。」
支払い後にトイレに行くと言い出した大ちゃんを店の外で待ちながら独り言ちる。
夏はまだ少し遠く、店内よりも外の風が涼しい。
夜にこそ増えるこの街の人込み。活気。
その喧騒を聞きながら、何処にでもある赤く安っぽい提灯を眺めていると。
「……玄、くん?」
そこには。
「………瑠璃、先輩。」
俺が酔っ払い達から庇った同じ大学だった瑠璃先輩がいた。
§
『そして、あなたが守った人ともう一度会いなさい。そうすれば、自ずと解るはずです』
母上はそう言った。
だが、俺は会いたくなんてなかった。
目の前で、俺は力を使ったのだ。ヴァンパイアとしての力を。
人とは違う力。
人とは違う存在。
その異常を、人は化け物と呼ぶ。
それは摂理だ。
所詮、死なない存在であるヴァンパイアと、人間では住む世界が違う。
近づき過ぎれば、嫌でもその差を目の当たりにすることとなる。
お互いに。
俺は近付き過ぎた。
瑠璃先輩に。
だが、彼女に嫌われたくは無かった。
彼女に恐れられることに、怯えていたのだ。
目の前に、今、彼女がいる。
どう言い訳するか、俺の頭が高速で回転する。
人違いということにしようか。
いや、だが名前に反応してしまっている。
いっそ逃げ出してしまうか。
だが、大ちゃんを置き去りにする訳には。
というか返事を返してしまっている。
思いっきり見詰め合ってしまっている。
どうする。
どうすれば。
「てい」
ぐるぐると、役に立たない思考が頭の中を渦巻いていた時。
おもむろに。
瑠璃先輩が足を踏んできた。
「あ、あの……。痛いんです、けど……」
「―――逃げる気だったでしょ?」
「………え。」
何故それを。
「どうして分かるかって? 私、そういうの鋭いの」
「心が読めたりするんですか」
「読めるのかもしれないね」
足を踏みつけられながら話していると、店のドアが開き、大ちゃんが出てきた。
そして俺たちを見て、怪訝な顔で言った。
「どういうプレイだ?」
そういうのではない。
「そうでしょう!? 玄くんってば、たまにすんごい薄情なんだから!!」
「分かるっ! 分かりますよー瑠璃さん!! 昔っからそういう所があるんですよね、コイツ!」
「………。」
場所を移して始まったのは、俺の愚痴合戦だ。
最初は大ちゃんと瑠璃先輩、お互いの自己紹介。
それから、逃げるように大学を辞めてしまった俺の話をしていたが、瑠璃先輩のペースがいつになく速く、いつの間にやらこうなった。
「飲み過ぎですよ、先輩」
「なーにー!? 玄くんが私に注意するのー!? 突然いなくなった癖して!!」
「それはだから、家業を継がなくちゃいけなかったから……」
「挨拶も無しにー?」
「………。」
俺はあの時、“怪力”を発動してしまった時、翌日には大学に退学の届け出をして、すぐさま近くに借りていたアパートを引き払った。
正体がバレそうになった時は、急いで痕跡を残さず消えるのが鉄則だ。
だがそうして忽然と消えた俺に、瑠璃先輩はとてもご立腹の様子だ。
「ところで、瑠璃先輩はどうしてこんなところに?」
「ごくっ。ん、私の親がこの近くで工務店をやってるの。卒業して、そこで働くつもりだから、その手伝いなんかを最近してるの」
「そうなんですね」
初耳であった。
なんという偶然だ。
俺の管轄内に瑠璃先輩のご実家の店があったとは。
「そんなことより玄くんのこと!! なんで勝手にいなくなったの!!」
「それはさっき説明したじゃないですか……」
「だぁーかぁーらぁー!!」
瑠璃先輩の限界が近い。
先ほどからこうして俺に、同じ質問を繰り返している。
当然、ヴァンパイアとしての部分は答えられないので、核心についてははぐらかすしかないのだが。
「まあまあ、瑠璃さん! 今日のところはこれくらいにしてやりましょうよ! こいつも暫くはこの辺りに住んでるみたいですから!」
「うーん、仕方ないなぁー……」
「ふぅ……」
漸くこの状況から解放されるようだ。
俺を肴に進む宴会は針の筵で、酔いが全部吹き飛んでしまった。
会計を済まし、俺たちは店を出る。
すると。
「じゃ、俺はここで! 玄、瑠璃さんを頼むぞ!」
「え、ちょっと大ちゃん!?」
俺にこの酔っ払いを押し付けて逃げるつもりか。
言葉を目に込めて大ちゃんを睨むと、近づいてきて肩を回し、小声で俺に話しかけてきた。
「鈍いなー、お前も。いいか? 瑠璃さんは完全にお前にホの字だ。……お持ち帰りすんだよ!!」
「な、何言ってんだよ!! そんな訳ないだろ!」
「ったく。考えてもみろ。気が無ければこんなにお前のことを心配したり、お前のことで怒ったりしないだろ?」
「それは……。」
大ちゃんの言い分にも一理ある気がしてしまう。
「据え膳食わねど高楊枝って言うだろ? あとは頑張んな! 何事も経験だぜ? 若人よ」
「それを言うなら男の恥だろ!?」
「なーにが、恥なの? 玄くん」
いつの間にか真後ろに立っていた瑠璃先輩。
不味い。
今のを聞かれていたんじゃ。
「じゃ、じゃあ俺は帰るわ! あでゅー!!」
「ま、待てー!!」
すたこらサッサと擬音が似合うように、一目散に逃げていった。
残ったのは冷や水を垂らす俺と、目の座った瑠璃先輩。
「え、と。聞いてましたか?」
「ん、何を……?」
うつらうつらとしている様子から、どうやら今の話を聞いていたわけではなさそうだ。
ホッと胸をなでおろす俺に、ん!と先輩がスマホの画面を見せてくる。
そこには地図が表示されており。
「ここまで送ってって!」
夜はまだ終わりそうになかった。
§
同じ頃。
ディースは大学の友人たちを連れて、飲み屋街に来ていた。
ディースの周りにいる者たちは、誰もが環境と才能に恵まれたスクールカースト上位の者たち。
生まれた時から勝ち続けてきた生粋の勝ち組である。
ディースはその中の頂点だ。
ヴァンパイアとしての能力を遺憾なく発揮し、学校中の羨望を集める、王であった。
今日も派手に騒ぎ、今夜の欲望の捌け口とする女を見繕っている最中。
「うん?」
遠くに見知った男を見つけた。
クロだ。
(没落寸前の落ちこぼれが……。飲み歩いているとはいい身分だな)
そう言えばこの付近は奴の管轄だったかと思い出したその時。
その隣にいる女が目に入った。
烏の濡れ羽色の髪。
透き通った肌。
その美貌。
ヴァンパイアの中でもあれほどの女はいない。
ズクンっと、頭頂部から股間まで貫く電流が走った。
「成る程成る程……。全くどうして………。
面白くなってきたじゃないかぁ……!!」
三日月のように歪む口元。
新しい玩具を見つけたディースは、溢れ出る悦楽に破顔した。
「おーん? どしたんディースっち」
「いやなに。つくづくこの世界は、俺の為に存在していると実感したのさ」
「うわお! 今日のディースっち、マジでキレまくりっしょ!」
常に。
生まれてこの方、常に絶頂の只中にある。
ディース・ノーブル・エイトゼットは、己が神に選ばれたのだと確信していた。
「この世界の隅から隅まで、森羅万象、俺の遊び場だァ………ッッ!!」
§
「歩くの、疲れたんですけど」
そう言って動かなくなってしまった瑠璃先輩を、俺は負ぶって歩いている。
背中には何やら大きくて柔らかいものが当たっている気がするが。
(い、いや、気のせいだ……)
そう思い込むことにした。
言葉もなくなり無言で歩き続ける。
飲み屋街から離れ、人通りも少なくなってきた。
『考えてもみろ。気が無ければこんなにお前のことを心配したり、お前のことで怒ったりしないだろ?』
大ちゃんの言ったこと。
それが本当だとすれば、先輩は俺のことを恐れていないという事になる。
(俺はまだ、先輩に嫌われていないのだろうか。先輩は、俺のことをどう思っているのだろう)
確かめたい。
だが確かめれば、全てが明らかになってしまうという恐怖が、俺の心に蓋をしていた。
聞くべきか。
聞かざるべきか。
聞いたところでどうすべきか。
悩みながら歩いていた、その時。
「ねえ」
背中の瑠璃先輩が話しかけてきた。
「はい?」
「どうして、いなくなったの?」
いてはいけなくなったから。
嫌われたくなかったから。
でも、本当のことは言えない。
「大学にバレて、退学になっちゃったからですよ」
「なんで、私に何も言わずにいなくなったの?」
俺はヴァンパイアだ。
これ以上、人間の彼女と一緒にいたところで、明るい結末は待っていない。
「迷惑をかけると思ったからですよ。自分に責任があるって、先輩に思って欲しくなかったんです」
「そうじゃない!」
瑠璃先輩が俺から離れる。
消えかかった街灯が、不規則に俺たちを照らす。
先輩の瞳には。
「私のこと、……嫌いになったの?」
涙があった。
「違うっっ!!」
咄嗟に大きな声を出していた。
言葉を選ぶ暇もなく、口を突いて出た言葉。
「………やっと、本音で話してくれたね。」
「え?」
「ずっと、今日会ってからずっと、言葉を選んで喋ってたから。私のこと、嫌いになっちゃったかなって」
「そんなこと……。先輩のことを嫌いになんて、そんなことないです!」
「ならなんで、突然いなくなっちゃったの? 私ずっと、お礼を言いたいって思ってた。辞めたって聞いて、住んでたアパートまで行って。でももう誰もいなくなってて。どうして?
―――嫌いになってないなら、どうして何も言わずにいなくなっちゃったの?」
もう、限界だ。
これ以上もう、嘘をつくことは出来ない。
「先輩は、……不思議に思わないんですか? 俺が、アスファルトを砕いたこと」
「あの時は、……驚いたわ。どんっ、て音がしたと思ったら、玄くんの足元が蜘蛛の巣みたいに罅割れてるんだもん。しかも浮き上がるほど地面が揺れたしね! ………玄くんが、やったんだよね?」
「そうですよ。俺が地面を踏みつけただけで、ああなったんですよ。人に向けたら、どうなるか分かりますよね?」
「……そうね。タダじゃ済まないね」
「先輩は怖くないんですか? そんな危険な奴が目の前にいて………。」
言ってしまった。
聞いてしまった。
聞きたくなかったことを。
もう後戻りは出来ない。
鼓動が早くなる。
首筋から汗が噴き出る。
一秒にも満たない時間が、永遠に感じられる。
そして。
「………………あんまり。」
僅かに笑いながらそう言った。
「ど、どうしてですかっ!? 俺は、危ない奴なんですよ!? 人一人簡単にどうにか出来てしまう、怖い奴なんですよっ!?」
「うん。知ってる。怖い人なんだって。」
「な、え!?」
先輩は何を言っているのか。
平衡感覚がおかしくなったように、世界が揺れて感じられる。
「知ってたんだ。玄くんが危ない人だって。なんとなくね!」
「ど、どういう、ことですか?」
「初めてサークルで会った時から感じてたんだ。出会ったことないタイプの人だなぁって。あの頃さ、結構、皆玄くんに対して厳しかったじゃん? 良くないなぁって思ってて。困ってるなら助けなくちゃなって思ったけど、でも、玄くんは困ってるけど本気では困ってないみたいだった。」
「本気では、困ってない?」
「そう。今すぐ何とかしなくちゃいけない!、っていう感じじゃなくて、最近スマホの充電が無くなるの早いから買い替えなくちゃな―、みたいな感じ。面倒だけど、やろうと思えばいつだって出来るって感じだった。皆結構ウザ絡みしてたのにね。……それがちょっと怖かった。年上もいるのに相手にしてない、どこかで見下しているような。そんな雰囲気出してたから。」
気が付かなかった。
やはり自分もヴァンパイアとして、自分では分からない所で人間を侮っているのだろうか。
見下しているのだろうか。
「その内、喧嘩でもして皆ボコボコにしちゃうのかな、それとももっと酷いことしちゃうのかなって。怖さ半分、興味半分で見守ってたの。……ううん、放って置いたって言うべきか。ちょっと都合良く言っちゃったね。でも、途中で莫迦なことしてるって気付いて止めた。私はね、最初っから玄くんの事、怖い人だって思ってたんだ。だからあの日、玄くんが凄い力を出した時、ちょっと怖かったけど、それよりもやっぱりね、っていう気持ちの方が大きかった。」
「そう、ですよ。俺は、先輩の思っていた通り、怖い奴なんです。だからもうこれ以上俺の近くに
「でも今はね。怖い、よりも大きい気持ちがあるの」
先輩の大きな瞳が揺れている。
黒い、二つの輝き。
その蠱惑的な、俺の心を奪い、そしてかき乱す様な光から目が離せなくなる。
「―――もっと玄くんを知りたい。」
「もっと、俺を……。」
「そう。」
瑠璃先輩が俺の方に近寄り、そして頭を俺の首元にもたれた。
ふわっと、先輩の使っているシャンプーだかトリートメントだかの匂いがする。
心臓が激しく鳴る。
「教えて。もっと、玄くんのこと。私、知りたいの。どうしてそんなに怖そうなの? どうしてそんなに力が強いの? どうしてそんなに強そうなのに、今にも消えてしまいそうなの? ―――ねぇ、どうして?」
自然と彼女の肩に、腰に手が伸びる。
先輩をこの腕の中に抱きしめる。
俺の中に恐怖が、硬い氷のように固まったそれが、霧散していく。
この人は、俺への恐怖の中に、俺という人間を見出そうとしている。
それが嬉しい。
たまらなく愛おしいのだ。
彼女の望むこと全てを、叶えてあげたくなるほどに。
その時、瑠璃先輩の白い首筋が見えた。
どくんっっ――、と。
俺の本能が目を覚ました。
(これは、ま、マズイ……っっ!!!)
強烈な喉の渇き。
我を失うような欲求。
先輩のメガトン級の魅力によって掻き立てられたのは、性欲と、それよりも遥かに巨大な吸血欲求だった。
勝手に人間を襲い、血を吸うことは禁止されている。
とはいえ、ヴァンパイアは人権などを考慮しないため、あくまでもヴァンパイア社会全体の為に手当たり次第襲うことは禁止しているだけであり、ある程度であれば黙認されている節はある。
例え血を吸い過ぎて殺してしまったり、飼い殺しにするために連れ去ったりしても、揉み消せるからだ。
だがそれは、自分で揉み消せる力を持つほどの、高位の貴族ヴァンパイアに限る。
今の俺が人間を襲ったことが露見すれば、風前の灯火である俺の立場は風に吹かれて消えてしまうだろう。
しかし、それでも抑えられないのがこの衝動だ。
(最近、質の悪い血を吸っていたせいか、吸血欲求が抑えきれないっっ!!)
瑠璃先輩を抱きしめる腕に力が入ってしまう。
それを不審に感じた先輩が顔を上げ、そして俺の瞳を見た。
先輩の瞳に映る俺の眼は、血のように朱く輝いていた。
「玄くん、その目……」
「先輩。俺がもし、吸血鬼だって言ったら、どうします?」
「え……?」
俺の口内で、人知れず犬歯が伸びる。
酸っぱいものを想像して唾液が出てくるように、肌を裂き血を吸いやすいようにと、吸血衝動によって勝手に肉体がその準備を始めてしまう。
「吸血鬼って、あの、血を吸う?」
「そうです」
「日の光が嫌いな?」
「俺は克服してるんでダイジョブなんです」
「十字架とかニンニクとかも嫌いな?」
「それも平気です」
「棺桶で寝てる?」
「普段は普通にベッドで寝てます」
抱き合ったまま見詰め合う俺たち。
一秒ごとに欲望が増す。
荒れ狂うような欲求の嵐が俺の中で渦巻いている。
そして。
「じゃあ、私の血を吸って」
その言葉に、胸の奥から燃え滾るものが溢れた。
「私を、玄くんの中に、入れて………?」
返事もせずに、首筋に顔を寄せ、透き通るような白い肌に牙を突き立てた。
「ん……っっ」
牙が縮み、首筋から抜ける。
そして傷ついたその柔肌から、真っ赤な血が溢れ出てくる。
それは今の俺にとって、どんな金銀財宝よりも価値のあるもの。
赤い聖水。
滴り落ちそうになるその血を一滴も逃すまいと、むしゃぶりつく。
「あっ、んあ………っっ!」
音を立てて必死に血を吸う。
吸い出し、啄ばみ、舐めまわす。
その姿のなんと滑稽なことか。
なんと浅ましいことか。
だが、どんなに無様でも、この衝動に抗うことは出来ない。
口に広がる瑠璃先輩の血の味は、滑らかなとろみがあるようで、コクがあり、味わい深い。
これほどの血を、俺は今まで飲んだことが無い。
喉を通るたびに湧き上がる歓喜と、もっと欲しいという底の無い欲求が、俺を夢中にさせる。
「あっ、あぁん、あぁぁぁぁあぁあああんっっ!!」
俺のものにしたい。
未来永劫。
彼女の全てを手に入れたい。
そう思わせるのは、この血の味か、それとも彼女への気持ちか。
解らぬままに俺は彼女を抱きしめながら、その血に心を奪われ続けた。
「あっはあぁぁぁぁぁぁ~~~ンっっっ!!!」
「………はっ!!」
どれくらい時間が経っただろう。
俺は唐突に正気に戻った。
欲求は静まり、瞳が元の黒色に戻っているのが分かる。
そして、腕の中にはぐったりとした瑠璃先輩がいた。
「せ、先輩っっ!?」
急いで首に、自然回復を早める簡単な鬼術を施し、傷を塞ぐ。
そして首筋に手を当て、彼女の体の様子を探る。
血を吸われ過ぎてぐったりしてはいるが、命に別状はなさそうだ。
ほっとしたのも束の間、俺は激しい後悔に苛まれる。
(衝動に飲まれて我を失うなんて……。俺のこの甘さが今の状況を引き起こしたというのに、俺は……っっ!!)
「ん、んん、……玄、くん?」
苦い思いを味わっていると、先輩が目を覚ました。
「先輩! すみません、俺……」
「凄かったね………」
「先輩……。」
「血を吸われるって、あんな感じなんだ……。貴重な体験が、出来たわ……」
弱々しく笑う先輩を見て、俺はやはり先輩の傍にいるべきでは無いと考えた。
だが。
「自分を責めないで。玄くんは、悪くないから……。私が良いって言ったの」
「でも、俺、先輩の傍にいたら、また迷惑を掛けます……」
「迷惑なんて、思ったこと無いよ? 私、また新しい玄くんが知れて嬉しいの。だから、傍にいて。私を置いてどっか行っちゃおうとしたら、今度こそ、許さないよ……?」
瑠璃先輩はそう言って笑った。
「約束して。また私と会ってくれるって。」
「先輩……。」
「こんなに血を吸っておいて飽きたらポイなんて、私、玄くんのこと嫌いになっちゃうよ?」
「……分かりました。また、会いに来ます。必ず」
「約束、だからね?」
差し出された先輩の小指に、俺の小指を絡ませる。
壊れ物を扱うように、優しく。
§
玄くんと約束を交わした私は、そのまま彼に家まで送って貰った。
随分と遅くなってしまった。
パパに怒られるかもしれない、と心配しながら、でもそれ以上に玄くんと一緒にいられる時間が嬉しかった。
やがてそんな時間は終わり、家の前まで着く。
別れの挨拶と、約束を念押ししようと口を開きかけると、玄関の灯りが点き、ドアが開いた。
出てきたのは案の定、お父さんだった。
「瑠璃! 遅いぞ!」
「ごめんなさい、パパ。でもこの人が一緒だったから大丈、ぶ………?」
隣を見ると、いた筈の玄くんの姿が無い。
キョロキョロとあたりを見渡すも、どこにもいない。
「何を言っているんだ? 兎に角、もう中に入れ。ママも心配してたぞ?」
「う、うん。ごめんなさい……」
そう言ってパパに続いて家の中に入ろうとする。
ふと振り返ると、遠くの屋根の上に人影が見えた。
大きな月の下。
夜空とそこに浮かぶ光を背に、誰かが立っていた。
間違いない、彼だ。
やがてそこから消えるように姿が消える。
「もう。紹介しようと思ったのに……。」
口を尖らせて小さく呟いた。
その日、眠りにつくまで思い出していたのは今日の出来事と、最後の彼の姿。
まるで夜の全てが彼のもののような、あの光景。
私の血を吸った紅い眼の吸血鬼。
「早く会いに来て。………夜の王様。」
ご感想等頂けたら幸いです。
誤字脱字、有りましたら教えてください。