{ショートショートを一杯}「白鯨の日」
「お客様・・・?」という店員の声に、ハッと我に返る。あぁ、またか。いつもの事だと受け止めると同時に、僕はコーヒーカップを割ってしまった事に気づいた。店員に謝罪し、店を出ることにした。やっぱり、止められてでも弁償したほうがよかっただろうか。まぁ、今後も通う様にしようと思い、渋谷の通りを歩いていく。
大通りから一つ曲がって、人々の喧騒から逃げるように人気ない裏道に入っていく。あそこのコーヒーが一番美味しいのだが、しばらくは仕方ない。自販機で缶コーヒーを購入すると、近くにあった小さな公園のベンチに腰掛ける。やっぱり、この甘ったるい味はあまり好きじゃあない。一息つくと、ふと空を飛んでいるあいつに目を向ける。
鯨だ。さっきから真っ白な鯨が空を飛んでいるのだ。というよりは、泳いでいるのだ。その巨体を悠々と動かし、空を泳いでいる。かと思うと、大きく口を開け目の前の雲に突っ込んだ。成る程、雲を食べるのか、オキアミみたいなもんなのかな、と一人で勝手に納得する。
四歳の頃から見えているこういうモノは、ちょくちょく僕の生活に影響を及ぼしてくる。最初は、確か友達だったやー君と映画館に出かけた時だっただろうか。当時人気だったアニメ映画を見に行ったのだが、記憶に残っているのは、映画館の隅にいた、首が2mはあろうという女であった。その女の事を後日彼に話してみたが、それがよくなかった。僕に「嘘つき」というレッテルが貼られ、彼が僕と距離を取るようになったのも、アレが原因だろう。
最初は、世にいう霊的な何か、もしくは僕の幻覚かと思っていたが、後に自分の間違いに気づいた。あれらは、言うなれば「常識」だったのだ。例えば、ある日帰ってきたら姉が居た事があった。断っておくが、僕は一人っ子だ。だというのに、家族は当たり前のようにその女と食卓を囲み、僕の部屋は二分割され、半分が姉の領分となっていた。更には、以前撮った家族写真のどれにも、その女が映っているというのだから驚きだ。次の日には家庭からも写真からもその姿は消えていたのだが。その他様々な事を体験してきたが、周りに聞いてもいつも「それが常識」と言われるだけだった。このように僕の身の回りでは、現実を取り囲む「常識」そのものが変化するという事が、度々あった。
勿論、これまでの経験から何も学ばなかったわけではない。どうやらこういったモノ達は、僕らが何もしない限り、こちらに直接干渉してくることはない。手を出したらどうなるのかは・・・知らない。単純に、もうこっち側に戻れなくなりそうで、怖いからだ。次に、自分自身、例えば僕の性格や体格には影響してこないという事。そしてこの現象が続くのは、長くて三日間。と、これらの情報を手にしてはいるが、それでも相変わらず奴らは僕の生活に入り込んでくる。いくら干渉はしてこないといっても、目につくものは仕方ない。やつらが僕の視界から消えてくれたらどれだけいいだろうかと、そう思わない日はなかった。
コーヒーをもう一杯口に含むと、雪のようなものが降っていることに気づく。上を見上げると、鯨が潮を吹いている。あたり一面に、桜と一緒に雪が舞っているような不思議な光景になる。食べた雲はああやって噴出しているのかな、なんて考えているうちに、メールが届いてきた。スマホを開くと、「今ひま~?カラオケ行かね?」という文章と、顔文字が送られてきていた。僕は微笑むと、「おけ、ハチ公前な」と返事を送信する。
スマホをポケットに押し込むと、僕は残った甘ったるい液体を喉の中に流し込んだ。ここからハチ公なら、十分とかからない。のんびり行くとしよう。そう思いベンチを立った時
「うわあっっ!!?」
という声が聞こえた。何事かと目を向けると、小学生高学年くらいの少年が空を見上げて震えている。
「くっ、くじら!?」
ハッとした。そして同時に、自分の中に、冬の朝の様なしんとした冷たい心がある事に気づいた。そう。あの少年が正しいんだ。だというのに、僕はいつの間にか、僕自身の中にソレを享受してしまっているじゃあないか。僕が必死に、あいつらをひたすら無視してでも守ってきた物というのは、たかだかそんな事一つで変わってしまう、いや、変えられる物だったのだ。
それなら、もういっそ・・・。僕は近づくと、少年に声をかけた。
「大丈夫かい?」
「あ、あれ・・・。くじら・・・?」
少年の怯えた顔を見て、一瞬呼吸が止まる。でも、仕方ない。これは僕が悪い訳じゃない。諦めて、にこやかに縛られて生き続けようじゃないか。それが・・・。
一呼吸おいて、僕はにこやかにこう告げた。
「何言ってるんだ、それが常識だろう?」