蛇女
「わしゃ、昔蛇女に逢ったことがあってな」
認知症になってしまった祖父。
祖父は毎日忘れもせずに同じ話を繰り返していた。
「いやぁ、綺麗な女の人でな」
「爺ちゃん、それ昨日も聞いたよ」
「わしゃあの時は山ン中に……」
何度も同じ話を聞いた。
このやりとりはもう何度したか覚えてもいない。
祖父はこの話をしだすと止まらなくなるのだ。こちらが『もう聞いた』なんてのは祖父の耳には入っていないようだ。
まだ祖父が私ぐらいの年の頃の話。
当時の祖父は鉱山に勤めていたらしく、山の岩場に彫られた洞窟内を奥へ奥へと掘り進んでいた。
その日はもう作業は終わりだったらしいが、あわてんぼうな祖父は洞窟内に道具を忘れたと取に戻った。
道具を取りに戻ったはいいが、山のふもとへと戻る唯一の手段である車両はすでに下山をしている。
祖父は一人山道を歩いていた。
もう桜が咲いている時期だというのに、その日は珍しく雪が降っていた。
大粒の雪が降る山は風も強く、薄っぺらな作業着など今にも吹き飛ばされてしまいそうである。
「こいつぁ、えらいこっちゃ。早くかえらにゃ凍えちまう」
若き祖父は身体をさすりながら、下へ下へと目指していく。
当時はバスなどもないため、ひたすらに歩くしかない。
辺りは段々と暗くなっていくと、道の左右すらわからなくなる。
もう祖父の目にはただ闇が広がるばかりで、自分がどこにいるのかも分からない。
ぽっと、辺りに光が差した。
見上げてみれば厚い雲にぽっかりと開いた穴が。その穴からは満月が覗いている。
満月が姿を見せたおかげで、周囲の雪が照らされて、景色は急激に姿を見せていく。
不思議なことに、風も止むと、目の前には一件の山小屋が見えた。
「ありゃ、道をまちがえちまったかな」
車両に乗って登った際も、このような山小屋は目にしたことがなかった。
もう寒さも限界にきている。祖父はこの小屋で夜を明かそうと思うと、かじかんだ足を急がせた。
入った山小屋はただ木の板を張り合わせたような空間であったが、それでも真ん中には火をくべる囲炉裏がある。
「ありがてぇ。これで少しは暖まれる」
周囲に落ちていたおが屑や燃えそうなカスを集め、タバコ様に持っていたオイルライターで火をつける。
小さな火が灯ると、その上に薪をくべて少しずつ火を安定させる。
なんとか火も灯ったが、雪に濡れた服では暖まるものも暖まらない。
祖父は着ていた衣類を脱ぐと、囲炉裏の周りに敷いて乾かそうと考えた。
褌一丁で火を前にする。
少しずつ身体が暖まってきたと思うと、今度は眠気がやってくる。
半開きの目は今にも閉じそうで、頭はゆったりと船を漕いでいる。
トントン。
誰かが戸を叩くような音に、意識が戻る。
まさかこんな山小屋に誰か来るかと思い、叩く音を無視する。
トントン。
今度は聞き間違いではなさそうだ。
確実に誰かが戸を叩いている。
想えば、祖父自身も炭鉱の帰り道であった。もしかしたら他にも残っていた者がいたのかもしれないと、祖父は褌一丁のまま戸を開いた。
「ごめんください。朝まで過ごさせては頂けないでしょうか」
脳内には炭鉱夫を描いていたはずなのに、目の前にいたのは雪のような白い肌に満月のような光り輝く長い髪をした女であった。
まさかこのような美しい女に出くわすとは思わず、祖父は慌てて褌の前を抑える。
「お願いします」
女は肩を抱いて震えていた。
恥ずかしがっていた祖父はキリリと顔色を変えると、女を部屋の中へと案内した。
囲炉裏を囲む祖父と、女。
「服が濡れちまってよ。乾くまで褌姿だが、勘弁してくんねぇ」
「入れて頂いただけ、嬉しゅうございます。お気になさらないでください」
女は火に両手をあてつつ、答える。
祖父はぼんやりと女の顔を見ていた。
その美しいことは、まるで雪女とも思える。
雪女だったらどうしようとも思ったが、雪女は火が苦手とも聞いたことがある。
この女は雪女ではないと無駄に安心すると、祖父は女の顔をまじまじと見つめる。
「恥ずかしいです……そのようにみられては」
「いやぁ、俺ぁ20年弱しか生きちゃぁいねぇが、お前さんみたいな美人は初めてみる」
「いやです……はしたない」
「本当だとも。俺が見てきたどの女よりも、あんたは美しい」
女は袖で顔を隠す。
その顔は頬が薄紅色に染まっているのが分かった。
決して寒さで紅潮しているのでも、囲炉裏の火のせいで赤くなっているのでもない。
しかし、はて、その顔が綺麗すぎる気もした。
時折、肌がキラリと細かく光るのである。
最初は溶けた雪の雫とも思えたが、よくよく見てみればそれは雫ではない。
「お前さんは綺麗な肌をしているな」
「恥ずかしいです。男の方にそのように肌を見られるなど」
「いいじゃねぇか。少しくらい」
「いけません」
女の制止も聞かず、祖父はじりと女の顔へと寄ってみる。
鱗だった。
キラリ輝く正体は肌の上に薄く張られた透明な鱗であった。
顔を覆うようにうっすらと鱗が見え、その鱗たちが火に照らされて輝いている。
「お前さん、肌に鱗があるぞ!」
「……」
「妖怪か!」
「はい……あたくしは蛇女という妖怪にございます」
「こいつはおでれーた」
妖怪ということに気付かれた女は祖父と距離を取る。
バレてしまったことに、ばつが悪くなったのか、女はすっと立ち上がると背を向ける。
「……」
「おい、どこへ行く」
「バレてしまったのでは、もう貴方様とは居れません」
「なにゆえ」
「私が妖怪だからです」
「それがどう関係する」
どう関係すると、言われ女は少しだけ振り向く。
悲しげに目を細める女は、きっとまだここにいたいはずだと祖父は思った。
何せ外はまだ深夜帯で、雪が降っている。
他にこのような小屋があるわけでもなし、ふともまではまだ距離がある。
「……貴方様は妖怪が怖くないのですか」
「俺がこえーのは親方の拳骨とかーちゃんの怒鳴り声くらいだ」
「ふふ、おかしなお方ですね」
「どうだっていい。それより外はまだ雪だ。朝まであったまっていきなよ。
なに、妖怪だからってどうこうしようってのはねぇ」
「ありがとうございます」
それから二人は何故ここに来ることになったのかを話した。
祖父は道具を取りに戻ったら、下山の車両に乗り遅れたこと。
女は冬眠しようとしていたが、急な大地の揺れに目を覚ましたところ、寝所周辺にはいつのまにか人で溢れ逃げたという。
「その揺れっていうのは……もしかしたら俺たちのせいかもしれねぇなぁ」
「……たぶん」
「悪いことをしちまったな」
揺れというのは炭鉱で採掘をする際に生じるものだろう。
そのせいで女は冬眠から目覚めてしまった。
そのようなことを聞けば、祖父は自分のせいで女をこのような目に遭わせてしまったと後悔の念が胸を埋めた。
「お気になさらないでください。また別の場所を探しますから」
「いや、俺たちにも責任はある。そうだ。お前さんが安心して寝られる場所を探そう」
「本当に大丈夫ですよ。ここいらの山のことなら、人間よりもあたしたち妖怪のほうが詳しいですから」
「そうなのか……だが、このままってのもなんだかな。何か俺に出来ることはねーか?」
「でしたら……」
女は祖父の隣へと腰を移すと、その肌をぴったりとくっつけて寄り添った。
ひんやりとした感触が直に伝わる。
人肌のような柔らかさと、鱗のつるりとした肌触り。
「……蛇は自分で体温調節が出来ないのです。なので、少しだけ貴方様で温まらせてください」
「か、か、か、構わねぇよ」
構わないとはいいつつも、祖父は内心慌てていたそうだ。
何故なら、祖父は褌一丁。隣には美しい妖怪の女。
直にくっついてくる肌に、何も反応しないはずもなかったのだ。
祖父の話は、いつもここからは下ネタへと変化していく。
「フヒヒヒヒ……どこもかしこも美しい女じゃった。また逢いたいのぉ」
「スケベジジイ。最後のオチがなけりゃいい話なのに」
「逢いたいのう、逢いたいのう」
「ったく、ばーちゃんが聞いたらなんていうか」
「フヒヒヒヒ」
そんな話を毎日繰り返していた祖父が、先月亡くなった。
老衰だった。
四肢が衰え、認知症も日に日に進行していた。
車いすがなければ生活は出来ず、何をするにも人の助けが必要なレベルになっていた。
故に、そう長くはないだろうと思っていた。
そんなわけで、私は祖父が住んでいた母方の実家へと赴くと祖父の遺品整理にあたっていた。
夏休みやゴールデンウィークなどには足を運んでいたが、毎日を過ごしていたわけではない。
生活感だけが残ったぬけがらの家。
しんと静まり返った家の中からはいまでも、ばーちゃんがじーちゃんを怒る声が聞こえてくる気がする。
『じーさん、ちゃっちゃと畑さ行け!』
『あんな鬼婆になって。昔とは大違いだ』
なんてやりとりが今でも浮かぶ。
ばーちゃんは祖父よりも先に亡くなっていた。
祖父よりも年上だったので、かなりの高齢になってから亡くなったらしいが、正確な年齢は知らない。
整理をしていると、仏壇の中から奇妙な小さな箱を見つけた。
正方形の箱にはじーちゃんの字で『婆様』と書かれている。
もしかしたら想い出の品なんかが入っているのかもしれない。
「お母さん、これ何か分かる?」
「あぁ、それね、爺ちゃんが葬儀屋に頼んで残してもらった婆さんの骨だって」
「え、まじ。これどーするの?」
「んー、別に骨はちゃんとお墓に入れてあるしなぁ」
母に尋ねたが、答えはない。
そのときはどうするか決まらなくて、結局箱はなんとなく私が家へと持ち帰った。
全ての遺品整理を終え、私は自宅へと戻ると、持って帰ってきてしまった箱を目の前にしていた。
中に骨が入っていると思うと、気味悪さもあるが、それが祖母のものだと思えば、何故か温かみがあるような気もする。
ばーちゃんは優しい人だった。
じーちゃんのことはいつもしかりつけてはいたが、いつも優しくて、尋ねるたびに好みのお菓子やお茶を用意してくれていた。
それにばーちゃんはよく駄菓子屋に連れて行ってくれたり、オモチャ屋へと行って内緒で好きなものも買ってくれた。
幼いながらに残っている記憶。あのとき握った祖母の手の感触は――。
箱の中を開けてみる。
あのとき。昔祖母の手を握ったときに、やたらと冷たかったのを思い出した。
母の手を握ったときと違い、やたらとツルツルとしていた。
それがどうしてか理由はわからなかったが、老人とはそういうものなのだと幼心で解釈していたんだ。
小さな木の蓋を開ける。
「やっぱり」
その木の箱はじーちゃんの字で確かに『婆様』と書かれている。
木の箱に入っているのは、骨なんかではなかった。
キラキラと輝く、鱗たちが箱の中に納まっていた。




