憧れ
まだ蕾のままの桜達が賑やかな小道を見下ろす。
スーツ姿の親子が歩幅を揃えて笑っている。
涼しい風が木々を揺らしまるで手を振っているようだ。
小さな蕾達が、灰色の空を見る俺に
目を向ける事は無かった。
───
午後3時、遅すぎる昼食を済せる為馴染みの喫茶店へ向かう。
お気に入りの喫茶店へ向かうのだから、
お気に入りの音楽でも聴きながら、
洒落たジャケットに身を包んで
陽気に踵でも鳴らせばいいのだが、
俺は着古したTシャツに履きなれたサンダルで、
ざわつく街の音色を聞いていた。
店に入ると相変わらず客はおらず、
気だるそうな女が一瞬だけこちらを見て、
その視線をまた、手元の携帯に戻す。
普通なら「なんて態度だ!」と
客か店長に怒られそうなものだが、
ここは彼女の店なのだ。
ここでは彼女が正義であり、ルールだった。
いつものようにお気に入りの席へ向かう。
この席は、入口からは見えず、
窓を独り占め出来る孤立した席だった。
この席を好んで選ぶのは俺くらいだろう。
この店には店員を呼ぶための呼び鈴はない。
その為、自ら手を挙げ「すいません」等と声をかけないと、
携帯に夢中の彼女には気づいてはもらえないだろう。
それだけでなく、入口近くの彼女からは1番見えづらい為、
他の席よりは努力しないと気づいてはもらえない。
これ程しんとした店内で「すいません」と
声を上げるのは簡単な事ではないだろう。
初めて来る店なら尚更だ。
しかし、頻繁にここへ足を運ぶ俺は、
入店していつもの席に着けば、
しばらくするとコーヒーとマフィンがやってくるのだ。
慣れ、というものだ。
恐らく、彼女は「いつものやつか」
くらいにしか思っていないだろう。
机に運ばれてきたばかりの
熱を持つカップを口元に運び珈琲を啜る。
豆の渋い香りが鼻を抜け、
上品で落ち着いた苦味が口いっぱいに広がる。
喉元を過ぎると重く存在感のあるコクが俺を満たす。
落ち着きのある静かな店内と、薄明るい照明が
この奥深い珈琲の味を更に引き立てた。
ゆったりとした穏やかなこの空間は、
忙しない外の世界とは切り離されているようで、
俺は優越感に満たされるのだ。
桜色に染まりつつある世界は暖かく、
穏やかに見えたが、
自分たちを見下ろす蕾に、
気づけないほど忙しく歩き回る人々が
気の毒に思えて、
それに気づける俺はなんて幸せなのだろうと、
この時間を謳歌していた。
珈琲が少しずつ熱を無くし、
マフィンが乾燥を始める。
この後はどうしようか。
行く宛もなく、する事も無い。
家に帰れば、普段通りくだらないテレビを眺めて、
1日を消耗品のように過ごすだけなのだ。
いつもなら、
そんな日々に抵抗することなく繰り返すのだが、
この日は違った。
散歩をしよう。
何故だかわからないが、
得体の知れない何かが俺の心をざわつかせる。
450円を机に並べ、入口へ向かう。
彼女が視線を此方に向けることはなかった。
店を出て、さっき歩いた道とは逆方向へ歩き出した。
この方向は駅まで伸びる大通りが続いていて、
いつのどんな時間でも
つまらない顔をした人間達が
忙しなく道を歩いている。
くすんだシャツが視線を集め、俺は後悔した。
洒落たジャケットでも着ていればと思ったが、
家中をひっくり返しても
そんな物が出てこないことは自分が一番分かっていた。
今の自分はこれでいいのだと、
傷ついたプライドを慰めた。
そもそもこんな平日の昼過ぎにいい年した大人が
部屋着で歩いていていいものか。
普通なら薄いストライプの入ったスーツでも着こなして、
洒落た腕時計を確認しながら、
革靴の心地良い足音を響かせてもいい年頃だろう。
だがそんな眩しすぎる人間に俺はなれなかった。
なりたくはなかった。
俺には、小さい頃に出来のいい兄がいた。
歳は3つしか離れていなかったが、
俺は兄を理解出来ず、
兄もまた俺に興味を示さなかった。
何より、俺よりも出来のいい兄は
親の愛情を独り占めしてしまっていた。
その結果、愛情への憧れはいつしか、
兄への恨みに変わっていた。
「兄さえいなければ」何度そう思ったことか。
だがある日、
その叶うべきではなかった俺の願いは、
醜悪な死神によって簡単に叶えられてしまった。
加害者の車の男は酔っ払いだった。
6月17日、夕方の事だ。
帰宅途中だった兄は、
家まであと数百メートルの交差点で跳ねられ、
搬送先の病院で死んだ。
俺は塾の帰り道に、
今にも消えそうなか細い母からの電話で、
兄が死んだことを知った。
俺が17の時だった。
兄はその日、誕生日だった。
母はその日からろくに食事を採らず、
呼吸をするだけの屍ようになり、
父は仕事に没頭し、遂には家に帰らなくなった。
俺はいつもと変わらない生活を送っていたが、
兄がいなくなっても、
2人が俺を見てくれる事など無いという
現実を突きつけられ、絶望していた。
あの死神は俺の愚かな期待を嘲笑っていただろう。
兄が居なくなった今、
何をすればあの2人は俺を見てくれるのか
という思いだけが俺を悩ませた。
俺が思いついたのは兄の後を1寸も狂わず
なぞる事だけだった。
兄と同じ大学へ行き、兄と同じ夢を追いかければ
2人は俺のことを見てくれると信じていた。
そしてそれは間違いではなかった。
俺はその時から、
血の滲む様な日々を積み重ね続けた。
兄のように才能を持たない俺には、
決して楽ではなかった。
お気に入りだったインディーズの代わりに
英語のリスニングを聞き、
楽譜の上で踊っていた鉛筆は、
論文やプレゼンを奏でていた。
空っぽで中身のない俺は、
価値のある人間のフリをして、
両親の都合のいいように生きるようになっていた。
しかし、
どれだけ努力しても2人が
俺に興味を持っていない事は
痛いほどわかっていた。
2人に見えているのは、兄のフリをした出来損ないの俺だ。
俺は俺というくだらない人間を殺して、
必死に兄の面影を詰め込んで、
それでも何も得ることが出来ずに、
ただ心が壊れていくだけの日々を重ねていた。
この世から消えたはずの兄が、
いつまでも俺を追い立てた。
もしこの時、
あの日の死神が俺を尋ねて来たなら、
1発顔面にお見舞いした後に、
コンクリートで固めて、ドラム缶にでも詰め込んで、
誰も来る事の無い湖にでも沈めていただろう。
だが、このつまらない人生の歯車は、
ある日突然予想外の方向へ回り始めるのだ。