緊張
準備室の前に着くと、裕太の心臓は忙しくなる。先生のことは信じていたけれど、もしもの事を考えてしまう。そんなことあるわけないと自分に言い聞かせるが、なかなか扉をノックすることができない。深呼吸をして、心を落ち着かせる。大丈夫、大丈夫だ。裕太は覚悟を決めて、扉をノックした。
「はーい」
先生の声がする。扉を開けると、先生は作業をしていていた。
「失礼します。小川です」
名前を言うと、先生は作業をやめてこちらをの方を見る。裕太は大きな唾をゴクリと飲んだ。
「やあ、一昨日ぶりじゃないか。どうしたんだ?そんな真っ青な顔して」
いつもの先生だ。立花君に気づいている様子はない。やっぱり先生は犯人ではないと確信し、安堵する。心臓の鼓動が緩やかになるのが自分でも分かった。
「見えてねーみたいだな」
立花君は少し残念そうな顔をして、ゆっくりと床に腰を落とす。無理もない。立花君にとっては数少ない手掛かりだったのだろう。
「いいえ、ちょっと聞きたいことがありまして」
「なんだい?恋愛相談なら受けてもいいよ?まあ、小川のことだからそれはないか」
「その通りですけど、なんか酷いですね」
美術室に来る時は、毎回こんなやりとりをしている。そして、今日のやりとりほど裕太の心を安心させるものはなかった。
「ごめんごめん。で、なにを聞きに来たんだい?」
先生が立花君のことを見えない以上、立花君の事を話す必要はない。私情で先生に面倒を掛けたくはないからだ。不自然ではあるけど、こうなった時用の質問はちゃんと考えて来ている。
「あの、変なこと聞きますけど、幽霊に乗り移られたことってありますか?」
突拍子も無い質問に先生は間の抜けた顔をしたが、裕太の真面目な顔を見ると、先生も真剣な顔になった。
「まあ座りなさい」
そう言って先生はインスタントのコーヒーを出してくれる。裕太は角砂糖を一つ、飛び散らないように丁寧な入れた。
「先生、前に言ってたじゃないですか。悪霊は心の弱った人間に取り付くって。あれをもっと詳しく知りたいなって」
「ああ、そんなことを言ったね。小川は取り憑かれた人間を見たことあるかい?」
「まあ、ないですね」
「そうか、僕もほとんど見たことがないんだ。実は僕たちみたいな悪霊が見える人間でも、取り憑かれた人間を見分けることはできないんだ」
「そうなんですか。でもほとんどってことは、見たことはあるんですね」
「ああ、何人かね。そして取り憑かれた人間にはみな共通点がある」
「共通点?」
「独り言だよ。それもマイナスな言葉を言うんだ。言葉って言うのは不思議なもんでね、口に出すと心への影響は大きい。悪霊は取り憑いた人間にマイナスな言葉を吐かせることで、弱った心をさらに追い込んでいくのさ」
「独り言……ですか」
確かに、心の中で思っているのと言葉にするのとでは大きな違いがある。初めて先生に相談した時も、思いを言葉にすることで泣きそうになったのだから。しかし今回聞きたいのはそこではない。立花くんとの約束を果たすためには、もっと踏み込んだ質問をしなければいけない。
「あの、また変なこと聞きますけど……それを意図的に行う事は可能なんでしょうか?」
「意図的?」
「例えば、イタコみたいな」
「あれはまた別物だよ。あれは悪霊ではないから、僕たちとはまた違ったものが見えてる。そうだね、ちょっと違うけど、別の方法がある。幽体離脱さ。まあ分離とでも言っとこうか」
「幽体離脱って、あの?」
「憑依ってのは、他人の心に取り憑くだろう?分離ってのは、魂の入っていない空の器を作ることなんだ。この場合の器って言うのは自分の体だね」
「うーん、つまり一旦自分の体から魂を抜いて、代わりに他の魂を入れるって事ですか?」
「そういうこと。しかしこれは極めて危険だ。体に入る魂によっては体を返してくれるかどうかわからないし、長時間の分離は魂の消滅に繋がる。本当かどうかは知らないけどね」
「ちなみにやり方とかって知ってますか?」
「そこまでは知らない。あくまでもオカルトチックなものだよ。こんなものを信じるのはどうかしてるとは思うけど、侮ってはいけない。小川がなにをしようとしてるのか分からないけど、軽はずみに足を踏み入れるのはやめておきなさい。君みたいな年齢の時は、オカルトより勉強や恋愛の方が相応しいよ」
そう言って先生は微笑んだ。