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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ゴシック百合

作者: 理緒

 現代のプロメテウスは言った。もし神がいるとしたらそいつはなぜ人間をこんなに不完全に作った? と。言いたいことはそれだけか? 私ならもっとボロクソにこき下ろしてやる、神とやらを。神を敬う奴が理解できない。この世の惨状を見てみろ。敬うに値する善神がいないことは明白なのに。もし神がいるならそいつは地獄を観覧して楽しむカス野郎だ。神は人類を救ってくれていない。なら神は偉大ではない。偉そうなツラしたただの役立たずだ。

 私を縛る上代(かみしろ)蒼衣(あおい)という名は私を私ならしめるものじゃない。ただの音であり曲線だ。じゃあ私は何かって? 私は私。




 その夏、嵐は唐突に訪れた。

 中学に上がったばかりの蒼衣は実家の大企業を継ぐことに猛反発し、名も無い小さな島に座する別荘に一人で引きこもった。お化け屋敷のようにも感じられる洋館だが、別に嵐の夜だろうとこの館に恐怖は感じない。幽霊が出るなら出てほしい。そして唯物的な面倒くさい世界から解放してくれとさえ思った。

 風呂からあがり、いつものように髪を梳かそうとした。その手が止まる。肩の辺りで切りそろえられた黒い髪。蒼衣は櫛の代わりに鋏を手に取り、髪の毛先を不揃いに切った。櫛は入れぬまま。ベッドに体を放り投げ漫画を読んで時間を潰す。

 何頁めくった頃だろうか。誰もいないはずの階下から物音が聞こえたのは。

 幽霊だろうかという好奇心が皮膚の下でもぞもぞと蠢く一方、合鍵を持つ家の者がやってきたというつまらぬ予想が脳細胞にあぐらをかく。どちらにせよ客の正体は知るべきだ。蒼衣はあえて灯りを持たず、夜目を利かせて闇に紛れつつ、音を立てず廊下を移動した。

 堂々とした足音は着実に進む。二階の廊下から下の広場を覗くと、小さな灯りが闇の中を縫うように動いていた。それは螺旋階段を上り始めたのか、渦を巻くように舞う。どんどんこちらに近づいている。なんとなく怖くなって反射的に逃げようとしたため、つい足音を隠す事を忘れてしまった。

 向こうも止まった。静寂の中で互いを意識する両者。やがて相手は蒼衣の方向へ正確に早足でやってくる。

 逃げられない──

「! う、あぁ……」

「こんばんは、お嬢様」

 自分の顔を照らして正体を現した相手は上代家のメイドの一人だった。

「電気をつけていただけますか。話はそれからです。どんな話になるにせよ」

「……」

 蒼衣は壁に手を這わせてスイッチをつけた。開き過ぎた瞳孔にはキツい明るさで、一瞬腕で目を覆う。しばらくして目を慣らすと目の前のメイドをしっかり認識できた。

「あんたか」

「私です」

 上代家に来て九ヶ月の新米、桐野(きりの)有希(ゆき)。二十歳。新米ながらどの家政婦よりも優秀で、精悍な顔立ちや長身も相まって威厳を感じさせる女だ。

「……お嬢様、そのボサボサで不揃いな髪はなんです?」

「あー……さっきやった」

「仕方ありませんね。話の前にまずはその髪を何とかしましょう。どんな話になるにせよ」

「そのフレーズ気に入ったわけ?」

「いいから部屋に案内をお願いいたします」

 刀のような眼光を向けられると逆らう気は起きない。蒼衣は素直に自分の部屋へ有希を連れて行った。

 櫛を入れられてはっきりした。毛先だけ不揃いにしたつもりが、長さがあちこちバラバラでとても無様なことになっていたのだ。鏡の向こうで顔を引きつらせる自分に呆れた。

「つーか有希って髪切れんの?」

「免許は持っていませんが技術は持っていますのでご心配なく」

「あそ」

 確かに器用で軽快な音だ。鏡から自分を見つめる蒼衣の髪はどんどん整っていく。最後に、わずかに残っていた湿り気をドライヤーで吹き飛ばされ、彼女の頭部は間もなく就寝するにはもったいないほど整然とした。

「ん……パッツンじゃなくていいの?」

 毛先は蒼衣が望んでいたように、つんつんした状態だった。

「それが嫌で自ら鋏を入れるという愚行に至ったのでしょう?」

 それが有希の気遣いなのかただの消極的選択なのかはわからなかった。ただ、前者を意識したら少し心臓が跳ねた。気がした。

「さて、それでは本題ですが……」

「わかってるよ。私を連れ戻しに来たんでしょ。絶ッ対帰んないからね。クソ親父とクソ母親に伝えといて、私はてめーらが──」

「落ち着いてください。私は無理に連れて帰ろうという気はありません」

「……っどーだか」

「窓の外を見てください。この激しい雨と雷です。とりあえずはここに留まってお嬢様とじっくりお話しようと思います」

「じゃ勝手に思っててね。私は漫画の続き読むから」

「お嬢様」

 立場から言えば。有希は蒼衣に逆らえないはず。いや、実際逆らっていない。だが脅すような目つきと低い声は実質脅しそのものだった。十二歳の令嬢はあっさりとその雰囲気に屈して正座した。

「単刀直入にお聞きします、お嬢様はなぜ実家を継ぐのが嫌なのでしょう?」

「直入れし過ぎだろ……」

 口でそう誤摩化しながら蒼衣は必死に言い訳を捏造しようと頑張った。同性が好きだから世襲制が嫌だ。などと正直に言うのはやや勇気を要する。

「てかさ……そんなのあんたには関係ないじゃん? うちに来てから一年も経ってないメイドが偉そうなツラしないでよ! これだからツラばっか偉そうな奴は嫌いなんだよ」

「しかしそれでも──」

「もう寝る」

 蒼衣は容赦なく電気を消しベッドに入った。他人の部屋で暗闇の中一人取り残された有希。しかし彼女はたくましかった。

「では今晩は気持ちの整理に費やすとよいでしょう。私は浴室をお借りしますね」

「……場所わかんならね」

「浴室すら見つけられないほどの広さではありません。ではおやすみなさい」

「ふん」

 スマホをつけて時間を確認するとまだ二十二時半だった。眠気はあまりない。癪だがメイドの言う通り気持ちが勝手に整理されていかざるを得ない退屈な時間だ。雨音と雷鳴をBGMにして蒼衣は濁った意識と戯れた……


 眠りに落ちる瞬間というのは素早い。

 翌朝目が覚めてみると、一体いつ眠りにつけたのか全く覚えていないものだ。蒼衣は身を起こし、適当に髪を撫で付け、バッグを開いて食事用に持って来たコンビニのおにぎりを手に取り食べようとした。

「おはようございます、お嬢様」

 そうはメイドが卸さなかった。

「なんで私が今起きたってわかんの」

「物音が聞こえまして。それより下に降りてきてください。朝食ができていますよ」

「はあ?」

 有希は勝手に館の調理室を使いこなして作った朝食を大広間のテーブルに並べていた。白米に味噌汁、焼き鮭……洋館のテーブルでバリバリの和食という光景の斬新さには何か新しい可能性すら感じた。

 癪だが美味い。

「今朝は曇っていますが雨は止んでいるようですね。落ち着いたら一緒に外の散歩でもいかがです?」

「……別にいいけど」

 特にやることもないし、彼女に下手に逆らうよりはある程度付き合っておこうと思った。食事を終え、歯を磨き服を着替えると、蒼衣は有希とともに館の外に出た。

 銀灰色の暗い空が寂しげに二人を見つめる。涼しい風が草を揺らす。昨夜の豪雨で濡れきったコンクリートを踏み、茶色と緑の荒涼たる景色を進む。

「いい島ですね」

「皮肉?」

「なぜです? 私はこういった風景は好きですよ」

「あそ」

 島自体は上代家のものではないが、褒められるとなぜか少し嬉しくなった。日本刀のような長いポニーテールを揺らしながら有希は景色に想いを馳せている。美人ではあるんだよねこの人。怖いけど。

「お嬢様」

「あん?」

「実は私も今のお嬢様と同じような時期がありましてね。ですから貴女のお気持ちは理解できているつもりです」

「……」

 彼女はどこまで私のことをわかっているんだろう?

「有希も家出とかしたの?」

「ええ。両親に反抗して。私の私生活の全てを奪わんとする彼らの厳しさに我慢の限界が来たからです。というのも、手前味噌ながら我が桐野家は大成功した成金一家でして、両親は私を一流の人間に育てようと調子に乗ったわけです」

「親嫌いなんだね……なんか口調でわかる」

「これは失礼いたしました。ともかく、今のお嬢様は他人には思えないのです」

 有希が金持ち出身だという話を信じるなら、驚いた。なぜ他の家で家政婦などやっているのだろう。

 聞けばいいじゃん。

「なんでうちにメイドに来たの?」

 聞いたが、有希は軽く鼻で笑って冗談めかしたことを言った。

「貴女と出会うためだったのでしょうか」

「はっ……はぁ?」

 急速に顔が自らの名前と反対の色に染まっていく気がしたが、ひときわ強い風が吹いたおかげで落ち着いた。

「真面目に答えないなら今すぐ館に戻って一人でゲームやっから」

「まあ聞いてください」

 有希はあくまで飄々とした態度で0.1Hzの乱れもない口調を維持している。

「逃げるななどという綺麗事を言うつもりはありません。ただ、別荘に引きこもるというふうに物理的に逃げるのでは何の解決にもなりません。もっと賢く逃げるか、あるいは逆らえばいいのです」

 メイドが家への反逆を促すというのは意外だった。

「私は今では家の呪縛から脱し一人で好きに生きています。ここは一つ策戦と忍耐を以て、いつか自由に生きることを目指してはいかがでしょう。今はおとなしく家に従っておくのです。今だけでいいのです」

「……」

 彼女の言うように、今無闇に逆らってもどうにもならないことはわかっている。それでも上手く感情を論理に適応させるだけの理性がなかったのだ。しかし改めて説得されてみると少し気分が落ち着いた。気がした。

 視界の彼方に灰色がかった水色の海が見え始めたとき、同時に頭に有希の手が降って来た。それは蒼衣の髪を優しく撫でる。……普段は怖いけど意外と優しい奴なのかな?

「あら、降ってきてしまいましたね」

 わずかに雨が降り始めていた。

「そろそろ戻りましょうか」

「えー海の方まで行きたい」

「嵐は去っていません。油断するとすぐに土砂降りになりますよ」

「むー……」

 有希は腰に提げた鞄から折り畳み傘を取り出した。雨音を聞きながら来た道を戻る。

 傘の端から見える空はどんどん暗くなっていく。傘に当たる雨の音も大きくなっていった。

「お嬢様、もっと寄ってください」

「せ、狭いって……」

 有希に強めに抱き寄せられ、密着し、変に動揺した。二人三脚でもやろうとしているのかと突っ込まれそうなほどくっつきながら歩く。

「え、そっちめっちゃ濡れてるじゃん」

 隣を見ると有希の半身がほとんど傘から出てずぶ濡れになっていた。

「お嬢様も仰った通り一つの傘では狭いですから」

「でも……」

「気遣ってくださるのですか? 珍しいこともあるものですね」

 そう言って有希は笑った。

「は!? どーいう意味だし……濡れたきゃ濡れれば?」

「ええ、そうさせていただきます」

 とはいえ風も強くなってきたため、頭の上しか防御できない傘にほとんど存在価値はなく、結局二人ともびしょ濡れで館に着いた。

「すぐにお湯を張りますのでとりあえず体を拭いてください。それと着替えの用意を」

 有希はタオルを寄越した。

「別にいいよ、寒くないし」

「そう言って油断していると風邪をひきますよ」

「あーもうわかったわかった」

 蒼衣はおとなしくタオルを受け取り全身の雨の名残を拭き取った。そして自分の部屋へ向かい、着替えの服を用意する。

 浴室から有希が戻ってきた。

「準備ができました。入りましょう」

「ん。……ぇあ?」

 今の文脈だと一緒に入るってことにならないか?

「どうしました? さあ」

「待ってマジ待って。もしかして……あの……一緒に?」

「? ええ。何か問題でも?」

「………………」

 緊張で首の後ろ辺りがじんわり熱くなるのを感じる。

「いや、わ、私は一人でいいよ……」

「遠慮せずに。お体を洗ってさしあげます」

「あんたそんなキャラだった? つーか風呂ぐらい一人で入れるっつーの!」

「そうですか……そうなると私はお嬢様のあとに入浴させていただくことになりますが……待っている間に風邪をひいてしまうのは悔しいですね」

「元はといえばあんたが散歩とか誘ったんだろ……!」

 一向に蒼衣一人で風呂に入るという風向きにならず、彼女の脳内はどんどん桜色に火照っていった。有希とお風呂。急展開にも程があり過ぎなんだよ。

「私と一緒は嫌でしょうか?」

 卑怯な聞き方だった。

「…………嫌ってわけじゃないけどさー……」

「こうしている間にもお嬢様の体は冷えていってしまいます。さあ、入りますよ」

 有希はいきなりメイド服を器用に素早く脱いだ。その服をそんな脱ぎ方できるのかと感心してしまった。彼女は照れもせず下着姿になる。ヘアゴムを外し、長い髪が解き放たれた。

「~~……」

「お嬢様……私一人に脱がせるというのは……」

「あんたが自発的に脱いだんだろうがっ」

 下着まではぎ取り始めた彼女に背を向け、蒼衣も渋々脱衣を開始した。なぜこんなことに。

「…………」

「…………」

「…………」

「…………何」

「いいえ?」

 湯船で向かい合っていると有希の視線が気になる。もしそれが自意識過剰でないとしたら、彼女も自分と同じ性指向を持っているのだろうか。思えば、主従関係とはいえ有希の行動や言動は思わせぶりに思えなくはない。

 もしかして有希もそれで世襲制に反対して家出したのかな。だとしたら私たちそっくり過ぎるな。なんでそれでメイドやってるかはムーに載ってもいいほどの謎だけど。

 結局頭も体も自分で洗って早めに浴室を出た。蒼衣は自室にこもってゲームをやろうとしたが、なぜか有希がついてきていた。

「何」

「お話の続きをしませんか? 私はこの島へ遊びに来たわけではありません。お嬢様が家に戻る説得以外にすることがないのです」

「そういえばそうだっけねー」

「お嬢様」

 いつもより心持ち低い声で『お嬢様』とだけ言うときはちょっと怖い。それを学んでいた蒼衣は観念してベッドに腰掛けた。

「じゃあ適当にどっか座れば」

「ありがとうございます」

「つっても……」

 さっきの散歩での会話。有希の論理的な説得に対して頭ではすでに納得してしまっていた。だからといって素直に家に帰るのはなんだか悔しいような気がする。

「つっても何です?」

 とりあえず会話を繋げよう。

「ほら、えー……私が今すぐ『はい家に帰ります』つったとしてもさ、迎えの船に来てもらわなきゃでしょ?」

「ええ。その場合すぐに手配しますが」

「……うん」

 しばらく『だから何だよ』とでも言いたげな沈黙が部屋に横たわった。

 ふと有希が立ち上がり、窓のそばへ行き濁った空を見つめる。

「落雷の恐れはなさそうですね……お嬢様、さっそく帰りの船を呼んでもよろしいでしょうか? もし私に説得されてくださるのならば、貴女の自由な将来の保証の一端をお見せしましょう」

「は……?」

「すなわち上代家の世襲から抜け出す将来です」

「それの保証が、帰りの船?? どういうことよ?」

「見てのお楽しみです」

 有希は薄く笑んだ。彼女の考えていることはわからない。でも『はい家に帰ります』を素直に言えるきっかけにはなった。

「はっ、しょうがないなー。有希のメイドとしての面子のためにも帰ってやるか。じゃ、船呼んでよ」

「はい、お嬢様」

 軽く頭を下げて部屋を出て行く有希。これであの世間体お化けのような親の元へ戻ることが決まった。せっかくなのでゲームはせず、窓から島の風景を眺めて過ごすことにした。全ての雲がシャワーに変身したように感じる高濃度の雨。風が館に体当たりしている。

 もし家の仕事を継がないなら有希との縁は切れるだろう。それは寂しく感じた。

 そのとき窓に風景ならざるものが顕れた。

「お嬢様」

「──っ……」

 窓はいつの間にか戻ってきた有希を映したのだった。

「びっくりさせないでよ……」

「申し訳ありません。幽霊だと思いました?」

「べっ別に怖くねーし?」

「怖かったかとは訊いていませんが」

「む……」

 照れ隠しに首の後ろを掻く。やっぱりこんな奴いない方が楽かもしれない。

「船の到着まで一時間です」

「びっみょ……何して暇潰そうかなあ」

「ではお昼寝でもされては? 時間が来たら起こしてさしあげます」

「ん……そうしよっかな」

 散歩での疲れもあったので蒼衣はおとなしくベッドに入ろうとした。そこへ有希が腰掛ける。

「こちらへどうぞ。私の脚を枕に」

「……」

 なぜそんな誘いをするのかわからないが満更でないのは事実なので、もはや蒼衣はいちいち突っ込まず彼女の太ももに頭を預けた。そして目を閉じた……


 灰色の有象無象。奴らは何も見ていない。"多数が正義" 、それを無条件に盲信している。何も、考えていない。常識を絶対真理だと決めつけるクズどもめ。蒼衣は剣を取った。灰色の醜い化け物たちを刻んでいく。いいザマだ。来世ではもう少し論理的な生き物になれるといいな。ところでこれは何の音だ? さすがに流血の音にしては景気が良過ぎる。まるでシャワーの音みたいだ。どこから? ──


「お目覚めですか。ちょうどよかった」

 あぁ、雨の音か。蒼衣は未だ意識を三割ほど夢の中に置き去りにした状態で有希の腰に抱きついた。

「もうちょっと……」

「駄目ですよ。もう迎えは来ています。さあ」

「んんんぅ……」

「お嬢様」

 例のあれだ。蒼衣はすぐさま三割の分身をこっちの世界に引っ張り出して跳ね起きた。

「いい子ですね。では参りましょう」

 レインコートをはためかせながら二人は巨大な豪華客船の前に立った。

「はああ? たかが家に帰るだけでこんなデカい船じゃなくていいでしょ……」

「これは上代家に頼んで呼んだものではありませんよ」

「え? じゃあ誰が──」

「桐野社長、お疲れさまです」

 一人の女がやって来た。

「ご苦労。さっそく出航を」

 社長? どういうことだ。とにかく船には乗る。雨から解放され、二人はゆったりした部屋に案内された。

 話を聞いた。

 驚いた。

「よくまあ一企業の社長やりながらメイドもやってられるね……超人かよ」

「他の家政婦と違い私は泊まり込みではありませんし」

 有希は高校卒業と同時に起業したらしい。親の会社と同じ、化粧品を扱う分野だ。同じ土俵に立って親を越すことを目指したそうだ。

「そしていずれメイドなんかを雇ってみたいなと思ったのです」

「でなんで自分自身がメイドやってるわけ?」

「下克上百合という概念はご存知ですか?」

「知……え?」

 脳細胞は突然の熟語を咀嚼しきれずむせ返った。

「いつか私は貴女を貴女の家から解放します。そしてそのとき、貴女は私に仕えることでその借りを返すのです。……つまり、将来はうちで働きませんか?」

「ファー……」

 いずれは私がこいつのメイドになると。その立場逆転を楽しむためにわざわざ上代家にメイドなんかしに来たと?

「つーか百合って用語よく知ってんね」

「お嬢様の持ち物は一通り確認させていただきました。貴女が灰色の有象無象と違う人間であることもとっくに知っています」

 たたみかけるように有希はこちらへ近づき、唇と唇を軽く触れさせた。蒼衣にとって初めてのそれだった。

「…………!!」

 彼女の心に共鳴するかのような雷鳴が響く。その光が有希の不敵な顔を照らす。

「そか……話が早くていいね」

「ええ、理解が早くて助かります。……さすが私のメイドだ、蒼衣」

 調子に乗った有希は蒼衣の体中を撫でさする。

「ーーー~~……まだタメ語は早い!」

「おっと、失礼いたしました」

 稲妻は雲と海と二人の未来を照らし出す。恐れを知らぬ巨大な船は嵐の中を力強く進んで行った……。




   【了】


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