第二章 4
学校にて。あいかわらず誰ともしゃべらない生活。
授業はてきとうに聞いてりゃいい(なんせこっちは高校生だからな!)ここの教師ときたら、揃いも揃ってつまんない授業してんだよ。この前の数学の教師だけ気をつければ、居眠りしてても怒られない。先生もやる気ないな、この学校。
よっぽど『お前の授業はつまんねえんじゃああああ!』とか絶叫しながら机投げてやろうかと思ったが、実行には移さなかった。そういえば、僕が岩本としてちゃんと生きて学校に行ってたときも、同じことをしょっちゅう思ったもんだよ。やっぱり本当に生きている間に、やっておくべきだったのかもしれないな。でも、今だって、他人の体とはいえ生きているのに、何もやる気がしない。生きた体というのは、僕の予想以上に融通がきかない。すぐ疲れる。
結局のところ、どうなっても何もしない人間だったんだなあ、僕は。
ま、ほとんどの授業は机に向かってボーっとしてればやり過ごせる。問題は体育だ。このスダという奴の体が運動向きじゃないのか、自分の体じゃないから僕がうまく動かせてないのか、ただ走ったり、ボールを投げたりするだけの動作がひどくギクシャクしてうまくいかない。変になるんだ、動きが。
極めつけ。バスケットボールでドリブルしようとしたら、床に跳ね返ったボールが手の横をそれて、顔面直撃。まわりの生徒が大笑いだ。何度も試したけど、どうしてもドリブルにならないんだよ。どうも、ボールを扱う才能がないらしい。何だ?何かの障害か?
「あいつさ、ロボットみてえじゃん?」
クラスの連中の笑い声が絶え間なく聞こえてくる。ああ、ほんとの僕はこんなんじゃない。ドリブルなんて普通にできるに決まってるし。百メートル走だってほんとうは十一秒を切るのが当然じゃないか、なのに。
「スダ、十六秒六だ」
無愛想な体育教師が読み上げたタイムは、人間とは思えない遅さだ。
間抜けすぎる。肩で息をしながら唇を噛んだ。またクラスの連中が笑っていた気がするが、顔をみたわけじゃないから気のせいかもしれない。そういえば、高校にもいたっけな、どうしてもバレーのサーブができない間抜けが。何度やろうとしても腕がボールに当たらない。さんざん笑いものにしてやったが、今思えばむごいことをしたかもしれないな。
季節は春だ。五月の桜が散り始めている。真夏のように汗が出る。半分冷や汗かもしれないけどな。手の甲で額の汗をぬぐうと、びちゃびちゃと派手な音が目の上から聞こえる。気分が悪い。太陽は容赦なく照っている。その場にぶっ倒れてしまいたかった。ひきずるようにして教室に戻る。
ほんとにさ、ひきずっていったんだよ。他人の体を。こいつ身長は低いし、痩せてるのに、体が重い。重すぎる。教室に戻ったって友達はいない。一人で授業をもくもくと聞いているだけだ。
つまんねえ、つまんねえよなあ。何しに生き返ったんだかわかんないなあ。こんな生活。
授業が終わった。いつものようにとぼとぼと家路を進む。せっかくだから町を見て回ろうと思って、知らない道に入ったのが間違いだった。
全く見覚えのない新しい住宅街に出た。田舎町とは思えないくらい小奇麗な建物ばかりだ。ちょっと違和感を覚えながら進んでいった。そのうち、どこをどう行ったらもとの田舎道に戻れるかわからなくなった。つまり、道に迷った。
道を聞こうにも、人の姿が見えない。昼間だからみんな仕事に行ったんだろうなあ。田舎って、もっとおばあさんとか子供が歩き回ってるイメージがあったが、人影どころか洗濯物すら見られない。本当に人が住んでるのか?ここ?ゴーストタウンに一人ぼっちの気分だ。
……やばい、町民が町で迷子になったら話にならないぞ。
適当に大きな通りを選んで進んでみたが、一向に見覚えのある道にたどり着かない。それどころか、だんだん山の中に入っていくような気がする。振り返ってもときた道を眺める。かなり高いところまで登っていたらしい。遠く、下方に湖が見えた。
そうか、湖に向かって歩けばいいんだな。
もときた道をたどる。湖には小さく白い船が見える。あいかわらず人影は見えない。
「あー?ユウイチじゃねえか」
低い声が聞こえた、振り返ると、そこにはスダの色黒の親父が立っていた。黒いスーツがぜんぜん似合ってない。
「な、なんでここに親父?」
「何でもなにも、仕事帰りに決まってるがな」
「あ、そう」
にしては早すぎる気がするが……。仕事場が近いのか?
一緒に歩くことになった。ななめ前を歩く親父をじっと観察する。色黒で、やくざみたいな顔と声してるのに、あのおふくろさんたちには一切文句を言わない。というより、一切口をきかないようにしているらしかった。いったい何を考えながら暮らしているのか、まるでわからない。
「あのさ、おと、えーと、親父」
なんだか呼ぶのが気恥ずかしい、なぜだろう?
「何だ?」
「うちのおばあちゃんとお袋のことなんだけどさ、いつからああなっちゃったんだっけ?」
親父が立ち止まって振り返った。顔つきが明らかに不愉快そうだ。
「何だ急に」
「いや、あのさ」僕は慌てた「いいかげん頭に来ない?っていうか変じゃない?あの夕食とか」
「しょうがないさ、みんな精一杯だ」
精一杯?何が精一杯だ?無理やり家族に二人分食わすのが精一杯か?毎日口げんかしてる家族をほっとくのが精一杯か?家の草抜くのが精一杯か?(何か話が違う気がするが、思い出したから一応入れといた)
「俺は嫌だね。あんな家でこれからずっと過ごすのは」
ひとりごとのつもりだったが聞こえていたらしい。親父が大声で叫んだ。
「そんなことを言うんじゃない!」
ぜんぜん迫力がない。前を早足で歩いていく親父を追いかけながら、うちの父のことを思い出した。インテリの医者で、ひょろひょろメガネだ。でも、絶対に怒らせたらスダの親父より怖い。姉とケンカしたときも、女相手だからって容赦せずに怒鳴り散らして殴り倒すんだから(ただし、最終的には姉が勝つんだな)
無性に腹が立つ。親父を早足で追い越した。道はもうわかるところまで来ていた。走って家に戻ったが、親父は追ってこなかった。
梶村商店の横を通って(なぜかすごく緊張した)湖のほとりまで歩く。一ヶ所だけ、海の砂浜みたいに波打ってるところがあって、そこに座って湖を眺めることにした。ちょうど遊覧船がこちらに帰ってくるところらしい。少しずつ近づいてきた。
「あー、こんなところに珍しい」
横を向くと、いつの間にか幸平が隣に座っていた。驚いて飛び上がりそうになった。
「生き返ってから初めて来るでしょ、湖」
「別に生き返ったわけじゃないぞ」
「いいじゃない。今のうちに砂に触ってみなよ。僕わからないけどさ、きっときめ細かいんだろうね、湖の浜の砂」
幸平が下を向いて、足元の砂をなでる動作をする。そんなことしても感覚はないはずだ。僕まねして手を砂にはわせてみる。思ったより荒い粒だったけど、さわり心地のいい砂だった。
「どう?」
幸平が好奇心いっぱいの顔で僕を見た。その顔つきがあまりにも子供っぽいから僕は笑ってしまった。
「けっこういい感じだよ。思ったよりざらざらするけどね」
僕は指を砂にぐっと差し込んで強く握った。手の中に入った砂は、僕が手を少し持ち上げると、指の間をさらさらと落ちていく。まるでどこかに行ってしまった、僕らが本当に生きていたころの時間みたいだ。そういえば、今日は風が程よく吹いている。全身で感じることができる。今までそんなこと気にしたことなかったのに。
「今日は風が気持ちいいんだよ、幸平」
「そう。風かあ」幸平は少し寂しそうな顔をした「最後に風を感じたのはいつだったかなあ。もう思い出せないや」
そうなんだ。死ぬってのはそういうことなんだ。何も感じなくなるんだ。でも、もしそうなら、今の幸平の寂しげな顔は何だろう?僕が湖の上空で感じた不安は何だったんだろう。
おい、スダ、いいのか?このまま僕に体を取られたままでいいのか?こんなに今日は気持ちのいい日なんだぞ。ここがお前の町なんだぞ。なあ、いいのか?このまま一度も風を感じないで消えていっても?なあ?
僕は心の中でスダに語りかけたが、反応はない。
「そうだ、スダの声が聞こえたんだよ、昨日」
「スダ君の声?」
僕は夜に起こったことを幸平に話した。
「つまり、家族を怖がってるんだね、スダ君は」
「やっぱそうなるのかな」
「だと思うよ」
やっぱりあの家をどうにかしなきゃいけないのか。頭痛がしてきた。ああ、頭が痛い。これも初めてのような気がするな。悩んでるっていう意味じゃない。ほんとうにガンガン痛むんだ。