第二章 3
次の日。いつもどおり誰とも話さずに家に帰ってくると、例のやせこけたじいさんが家の周りの草をむしっていた。右手で草を持ち、左手でときどき腰をさすっている。
あんなに夕食食ってるくせに、どうしてこんなに痩せているんだろうなあ。
僕はじいさんのとなりにしゃがんで、一緒に草を抜いた。細い草のつるつるした感触、植物の匂い。はじめて感じるような気がする。
「なあんだあ?ユウイチは、機嫌のいい顔をしているなあ」
やけにのんびりした声でじいさんが笑った。お年寄り特有の体臭がする。痩せた顔が、笑うと余計に骨と皮だけに見える。少し迷ったが、言ってみることにした。
「じいさん、最近痩せてきてない?」
「あーあ?やせたか?」爺さんは自分の手を見た「そうさなあ、どうも最近胃腸がおかしいからな、年のせいかもしれん」
年じゃなくて夕食のせいだろうが!とつっこみたかったが、やめた。
「じいさんいくつ……だっけ、忘れちゃった」
「七十二、いや、八十三だったかな、忘れた」
おい、自分の年を忘れるなよ。これはボケの初期症状じゃないか?
「ここの草抜いてどうすんの?なんか植えるの?」
「いや、若いやつにはわからんだろうが、草ぼうぼうの家は栄えないんだな」
「あ、そう」
田舎町の迷信だろうか?聞いたことがないなあ。じいさんには悪いが、草を抜いてもこの家が栄えるとは思えない。でかい地震でも来ればいいんだ、このボロ家ごとみんな死んでしまったほうがよっぽどすっきりする……いや、それは言いすぎか。僕はこの家の人間じゃないし。
「あらやだ!おじいさん!」
後ろからまたあの甲高い声。スダのおふくろさんだ。すっかり目が釣りあがってるが、中学生の母親にしては若い顔だ。ピンクのスーツを着ている。田舎町に立っていると目立つ。
「草むしりだったら一人でやってください!ユウイチが勉強があるんですからね!」
「今日は宿題ないよ」僕はできるだけ穏やかな声で言った「自発的に手伝ってるんだからいいじゃん」
おふくろさんがびっくりしたように目を丸くすると、頬をふくらませながら家に入り、派手に音を立てて引き戸を閉めた。子供っぽい怒り方だなあ。しかし何が気に入らないんだろう?
「ユウイチ、今日はずいぶんよくしゃべるじゃーないか」
じいさんが不思議そうな顔でこちらを見ていた。
そういえば、スダは家族としゃべらない奴だったっけ。
僕はそれからなるべく無愛想に草むしりすることにした。草はどこまでも、家の周りを囲うように生えていた。じいさんが、
「そろそろいいだろう、入ろうか」
と言うころには、あたりは真っ暗になっていた。
「そーか!二人ともユウイチっていうんだね。なるほどなるほど」
夜。様子を見にやってきた幸平が、感心したように何度もうなずいた。
「何がなるほどだよ」
幸平に言われて気がついたが、確かにスダは僕と同じユウイチという名前なのだ。どうりでじいさんに名前を呼ばれたときにまるで違和感を感じなかったわけだ。
「同じ名前だと乗り移れるんじゃない。僕、コウヘイって人探そう」
「あのさあ、まじめに元に戻れる方法考えてくれない?」
吐き気を抑えながら文句を言った。幸平の奴、どう見てもおもしろがっているとしか思えない。見ているとむかつく。でも、今のところはほかに味方がいないから強く文句は言えない。
「梶村さんが言ってたんだけど、岩本君がまだ生きているから、乗り移れたんじゃないかと」
「生きてるから?」
「うん。だから、生きている生身の体を動かすことができる。あくまで勝手な想像だって言ってたけど」
「そんな能力あってもありがたくないなあ」
仮に僕がまだ生きているなら、どうしてもとの自分の体に戻れないんだ?僕の体はいったいどうなっているんだ?
「そこで問題なのが、スダ君がどこへ行ってしまったのかってことだよね。どこかへ飛んでいったのか、単に眠ってるだけなのか」
「眠ってるだけなら起こせばいいんだよな」
「そう簡単にはいかないと思うけどね……」
幸平はサミのところへ行くと言って飛んでいった。結局のところ、たいした解決策はないわけだ。
生きているからこうなった。
なんだか嫌な話だな。ここ数日、胃腸がおかしいからかもしれないし、いやみな他人の家族に囲まれてるからかもしれないが、気分が落ち込んでしょうがない。確かに今僕は生きているが、これは他人の体だし、たいしていいことだとは思えないな、生きてるのは。
ババアとおふくろさんの戦争のせいで、この家はひどく居心地が悪い。学校にも友達がいない。スダも哀れな奴だな。
僕はまた、最初に学校に行ったときのスダの顔を思い出した。どこにいったんだ?お前は。
時計を見る。夜十時を回っていた。家族はだいたい寝ているようだ(早すぎるぞ)から、こっそり外に出て夜風に当たろうかな。湖の岸まで歩いたら、幸平かサミが気づくだろう。
僕は静かにドアを開けて、廊下に出た。階段を一歩下りようとしたそのときだ。
『だめ!』
頭に強烈に響く声。誰の声かは一発でわかった。
「スダか!?」
僕はあたりを見回したが、何も見えない。
『外に出るな。怒られる』
明らかにおびえたような声が、頭にガンガン響く。大音量のスピーカーみたいだ。
部屋に戻ってドアを閉めた。
「スダユウイチだな!戻ってきたのか?」
声に出して尋ねてみた。でも、返ってきたのはもっと弱気な声だった。
『戻りたくない!』
弱気だが、頭に刺さるような声だ。僕はベッドに倒れた。
「何で戻りたくないんだよ!こっちが迷惑だっつの!」
返事がない。
「おい!聞いてんのか!スダ!」
思い切り怒鳴ったが返答はなかった。代わりに、廊下からドスドスという足音と振動が響いてきたかと思うと、バン!と乱暴に部屋のドアが開いた。
「夜中に騒ぐんじゃないわよっ!うるさいわね!」
おふくろさんだった。鬼のような形相で怒鳴ると、ドアを乱暴にバン!と閉めた。ドスドスという足音が遠ざかっていくのが聞こえた。そのまま遠くに行って二度と帰ってこなければいいのに、と思った。
……戻りたくないよな、そりゃあ。
僕は深くスダに同情した。でも、代わりに人生背負ってやる気にはなれない!
どうしたらスダは戻りたいと思うだろうか?この家に、この人生に。
はっきり言って、これは高校入試より難問だと思う。
その夜は眠れなかった。必死で何か方法がないか考えたが、ちっともいい案なんて浮かばない。ただ、ひとつだけわかっていることがある。
あのババアとおふくろさんだ。あの二人をなんとかしないとスダは絶対帰ってこない。
本人に聞いたわけじゃないが、僕はここ最近の『スダユウイチ』体験で、そう確信した。