第八章 2
梶村さんと幸平に、僕は起きたことを説明しようとしたけど、自分でも何が起きたかわからなかったし、ひどく動揺していたから、わけのわからないしゃべり方になっていたと思う。
なんとか二人に理解してもらえた頃には、外は暗くなっていた。フデさんが夕食を終えて、お茶を飲みながらテレビを見始めた。
「字室はどこへ行ったかわかるか」
しばらく考え込んでいた様子の梶村さんが、窓の外を見ながら言った。
「わかりません。『逃げろ!』って声が聞こえただけです」
「こわがってどっかに逃げちゃったんでしょ」幸平がいやみな口調で言った「きっといつも通りに街中をふらふらしてるだけだよ。どこにいるかわかんないなんていつものことじゃない」
「しかし、あいつは何かあったら必ずここに来るだろう」
「まあ、そうだね」幸平が興味なさそうに言った「臆病だからね」
僕はいつか、サミの船で先生のガイコツが見つかったときの字室の様子を思い出した。確かに、異様におびえていたような気がする。人のことは言えないけど。
「サミのところに行ってきます」
僕は窓から外に出た。空中で一度静止して、あたりを見回す。何の気配もしない。
あの怪物のような老婆は何だったんだろう?梶村さんに打たれて空中に消えていったけど、あれでもう出てこないんだろうか?それとも……。
考え出すと怖くなってきた。さっさとサミのところへ行ってしまおう。
町にはぽつぽつと明かりが見える。あの一つ一つのもとに人が住んでいて、生活があって、人生があるんだ。ずいぶん長くここにいるのに、町の人の暮らしなんてあまり考えたことがなかった。
「感傷的になってるみたいだね」
後ろから声がしたので驚いた。幸平だ。
「まだ釧路に行く気になれない?」
「その話はあとにしてくれない?」
僕は湖に向かって進み始めた。幸平もついてきた。
湖には黒っぽい船の影、その上に、ぼんやりとした目で空を見上げるサミの顔があった。
「ずいぶん長く来なかったわね」
顔つきを変えず、抑揚のない声でサミが言った。怒っているのだろうか?
「ごめん、いろいろあったんだよ」
「隊長の友達が亡くなったんでしょう?」
隊長……ああ、梶村さんか、久しぶりに聞いたから一瞬わからなかった。
「字室が中にいるわ」
サミが、船のさびついたドアを指差した。
「中に?」
まさかガイコツのある部屋じゃないだろうな。
「ドアをあけたら、いるわよ。通路に座り込んだまま一言もしゃべらない」サミがやっと月を眺めるのをやめて、こっちを向いた「ショックだったんでしょうね。お母様があんな姿で出てきたら」
「お母様?」
僕と幸平が同時に叫んだ。
「そうよ。前に言ったでしょ」月に照らされたサミの顔は青白くて、本当にユーレイらしく見えた「お母さんを殺して、自分は自殺したって」
「ちょ、ちょと待って」幸平がサミのほうへぐっと身を乗り出した「字室のお母さん?あの化け物が?どうしてサミにそんなことわかる?」
「本人がそう言ったのよ」
サミはすっと後ろに身を引いて、踊るようにくるくると回り始めた。頭上の青白い月を見上げながらだ。
なんだか本当に幽霊がでてきそうな月模様……あ、ぼくらがユーレイなのか。
僕は船のドアの前まで行き、一瞬迷って―ドアをすり抜けた。
字室は例の骸骨があった部屋のドアの前に座り込んでいた。体育座りみたいにして顔を膝の中に伏せていたから表情は見えなかったけど、その暗い雰囲気はまるで、幽霊船の壁と一体化ししまった化石みたいに見えてちょっと怖い。
「大丈夫?」
おそるおそる声をかけてみる。ぴくりとも動かない。
「サミが、お母さんがどうとか言ってたけど、化けて出ちゃった?」
うしろからのんきな大声が響いた。
びっくりして振り向くと、幸平が興味のなさそうなぼんやりした顔で、僕のすぐ後ろに立っていた。
おい幸平、いきなりストレートにそんなこと聞くなよ!
「化けもんだ」
低い声がした。
「は?なに?聞こえない!」
幸平が大声を上げた。
「幸平、なんでそんなケンカ腰なんだよ?」
「あれは生きてた頃から化けもんなんだよ」
はっきりとした、低い声。字室が顔をあげてこっちを見ていた。
背筋がぞっとした。生きてないのに。
何の生気もない(いや、死んでるから当たり前なんだけど、いつもと比べるとさらにひどい)魚の干物のような目の、どす黒い顔つきの男がこっちを見ていた。
「だから、殺したんだ」
いつかのガイコツ騒ぎのときより、さらに船内の空気が冷え込んだように感じた。
地獄に落ちたらこんな感じだろうか、と僕は思った。