第七章 4
「死ぬ前にここに来れてよかったよ。ま、もうすぐあの世で会うことになるがな」
日が落ちたころ、谷川が玄関でこんなことを言った。暗い眼をしていたが、やはり目玉がぎらぎらと濡れたように光って、不気味なくらいだ。
「またそんな弱気を言って」フデさんが調子のいい大声を出した「そんなことばかり言ってると、あの人も怒りますよ」
「別に怒りはしない」
梶村さんが今のドアから玄関を覗いて、そう言った。もちろん生きている二人には聞こえなかっただろう。
僕は最近よく見ていたシベリアの夢を思い出していた。あれは梶村さんが体験したことなのだろうか?きっとそうだろう。日本へ帰るはずの列車がなぜかシベリアの奥地に辿り着き、そこにはろくな食料の支給もない。極寒の地での重労働でつぎつぎと仲間は死んでいく。それから……。
「世の中はどうなっちまうんだろうな」
谷川がつぶやいた。心底心配そうに下を向いていた。
「なるようになるしかないわよ」
「なるようになる、なら、いいんだけどな。どうせ俺はもうじき死んじゃうし、息子夫婦ははやく死んでくれってなもんだから、いいけどな。でも孫が心配だ。まだ小さいのに、世の中はめちゃくちゃになっているじゃないか」
「めちゃくちゃにはなっていませんよ」フデさんが笑った「ただ、生き方も迷い方も、時代が変わると相当違うというだけですよ」
「そうかい?」
「そうですよ」
この二人のやり取りはまるで親子のようだと思った。
谷川が出て行った。
「岩本」梶村さんが玄関をみつめたまま言った「送ってやってくれ」
「は?」
「谷川がちゃんと駅までたどり着けるか」
「いいですけど、子供じゃあるまいし、だいいち僕が行ったって気がつかないでしょ……」
「駅までもたない」
「はあ!?」
梶村さんの顔を改めてみると、今までに見たことがないような苦痛の顔をしていた。
「私にはわかる。もう助からない。最後まで見守ってくれ」
僕がそのとき思い出したのは、テレビで行方不明の報道を見て『この子は無事だ』『だめだ、この子はもう殺されている』と、画面に映った人間の生死を予想していた梶村さんの姿、そして、その予想は100%当たるということだった。
僕は玄関から(ドアを突き抜けて)飛び出した。でも、飛び出した瞬間怖くなって、空中で止まった。はるか前方に、とぼとぼと歩く谷川の後ろ姿が見えた。
これから、人が死ぬ瞬間に立ち会わなきゃいけないのか?
動けなかった。怖かった。なんで僕が?と思った。
いや、でも行かなくちゃ、梶村さんがあんなに苦痛の顔をして頼んできたんだから。
でも。
悩んでいる間に、弱々しい背中が遠ざかっていく。
腹が減った。
最後に白い飯を食ったのはいつだったろう。
凍傷がひどくなってきた。これからますます寒くなるというのに。
靴が、底がやられた。
これで凍土の、雪の中で働けるか。
谷川がなにか遠くでわめいている。
雪が強くなってきた。
前が見えない。だれかがおれのからだを揺さぶっている。大声でわめいている。
黙れ谷川。
黙れと言っているのがわからんか。
そう言おうとしたが声が出ない。
誰かが俺のからだを起こした。数人でどこかへ運んで行く。
ふたたび雪の上に下ろされる。
俺の服をだれかがはぎ取っている。何をするんだ。
谷川がわめいている。
とらないでくれ、こんな寒いところではだかで埋められちゃかわいそうだ。服を取らないでやってくれ。大声でわめいている。
だれもそんな声は聞かない。ここでは何もかもが貴重品だ。
体が空中に浮いた。誰かが放り投げたのだ。
穴の底に落とされる。
まだ埋めないでくれ。叫ぼうとする。
声が出ない。
声が出ない。
まだ俺は意識がある。こうして考えている、叫ぼうとしている。
埋めないでくれ。
声が出ない。
目の前が真っ暗になる。
谷川の背中が、ゆっくりと地面に向かって落ちて行った。
僕はあわてて飛んで行った。
地面にうつぶせに倒れた谷川は、土を両手の爪でひっかくようにしてもがいていた。うぎぎぎぎぎ、という、どう考えても普通じゃないうめき声をあげながら。
「谷川さん!」
僕が思わず叫んだ。すると、おどろいたことに、谷川が首をぐるっと曲げて、覗き込んでいた僕を見た、目が合った。
僕はその視線に捕えられたように固まってしまった。動くことも、声を上げることもできなかった。谷川はうめきながらも僕の目から視線をそらそうとしなかった。濡れたような不気味な目。
「……全部、知ってたさ、見えた。梶村も、おまえも、となりのガキも」
何だって?
谷川がまたうめき声をあげた。地面をえぐる指にはさっき以上の力が入っていたんだろう、手全体が土の中にのめりこみそうなくらいだった。
「きゃあ!どうしたんですか!しっかりして!救急車!!」
偶然通りがかった中年の女性が声をあげて、どこかへ走って行った。
「先に、行ってるから、早く来い、と、言っておけ」
「えっ?」
女性に気を取られていた僕は、その声で視線を谷川に戻したが、そのときにはもう、うめき声も、濡れたような眼光も、そこにはなかった。
長い人生を終えた、やせこけた男の遺体が、横たわっているだけだった。
どのくらい時間が経っただろう?
暗闇の端に光が、かすかに見える。
海だ。
薄暗い海と、明るい空だ。
船に乗っているのだ。
これは、日本海に違いない。
帰るのだ!
とうとう帰るのだ!
港が見える。帰ってきたのだ。あれは日本だ。
いつのまにか、どこかの街中にたどりつく。
おや、店先の値段がおかしい。
どうしてみかんがこんなに高いんだ?いや、みかんだけじゃない。何もかも高い。
建物もすっかりなくなっている。やはり攻撃されたのだ。
家があった場所には、新しい建物が建っている。
あれはフデだ。
帰ってきたぞ!
おい!聞こえないのか?
どうして泣いているんだ?
手に握っているのは何だ?
おい!
聞こえないのか?
寄り添っている男は誰だ?
大きくなった息子は、なぜ下を向いて黙っているんだ?
どうしてこっちに気がつかない?
何が起きたのだ?
なぜこんなことに?
なぜ?
なぜ?
なぜ?