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ぼくらは死んだ  作者: 水島素良
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第七章 3

「小学一年生で歴史の授業なんてあるもんかなあと不思議に思ったがね、どこからか聞きつけてきたらしい。お宅のおじいちゃんは昔戦争に行ったと、シベリアに抑留された、まあ、抑留なんて言葉はわからないかったんだろうな、『つれていかれたの?』と言われたんだったかな。とにかく、聞かれたわけだ。『まあ、そうだな』と答えた。それ以上は聞いてこないだろうと思ったんだ。

 でも『おじいちゃんが豆嫌いなのって、シベリアで山ほど食べさせられたからなんでしょう』って言うんだ」

「そうなの?」

「んなわけないだろう。さっきも言ったけど、食い物なんてなかったんだよ。スープ、出るだろ」手で鍋の形を作るように輪を描きながら、興奮した口ぶりで谷川が言った「お湯なんだよ。何もはいっちゃいねえんだよ。豆の一粒入ってたら大喜びさ」

「そうなのかい」

 フデさんは目を伏せて手元を見つめていた。何か考えに沈んでいるように見えた。

「それどころか、誰かがしたうんち、あるだろ、排泄物だよ。あの中に豆がまるまる残ってるんだよ。消化できなかったんだな。みんな弱ってたから。まるまるとした豆を見て、一瞬迷うんだよ、まだ食えるんじゃないかと、一緒に歩いてた奴と顔を見合わせてね、どうする?とな。俺は食わなかったよ。でも、次に同じところを通ったら、ないんだよ、排泄物だろうと豆は豆なんだ、食い物なんだよ。だれかが食っちまったんだ。

 死に際になってもみんな食い物のことしか頭にないのさ。天皇万歳なんて言わない、母ちゃんに会いたいとも言わない。何か食いたい、食いたいと言いながら死んでいく……」

 谷川がふと、梶村さんの遺影に目を向け、はっとしたようにその濡れたような目をぐっと開いた。

 そんな谷川を、前にいるフデさんはじっと、厳しい目で凝視している。何かを問いかけているような目だ。何を?それは僕にもなんとなくわかった。

「梶村は何もしゃべらなかったよ」

「正直に言っていいのよ。情けないなんて言わないから」フデさんが低い声でつぶやくように言った「戦争だったのよ、何が起きても……」

「いや、ほんとに何も言わないで死んだんだよ」遺影から目を離し、フデさんをなだめるように、困った顔で手を振り回しながらしゃべり始めた「寒さにも飢えにも、何も言わなかったんだ、知ってるだろう、恐ろしいほど無口なんだ、戦場で、敵の鉄砲の前にいたってそうなんだ……衰弱だよ。どうしてあんな強い人間がやられて、俺がここにこうしているのか、未だにわからない……」

 沈黙。本当なのか誤魔化したのかわからない谷川の返答に、フデさんは何も言い返さなかった。二人とも何かを思い出すように遠い目をしている。梶村さんはそんな二人をじっと見つめて、黙っている。今までになく寂しげな顔で。何かを失って、それを思い出しているような顔つきで。

「何の話をしてたんだったかな…ああ、豆だ、そうだ、俺は好き嫌いはしないんだ。息子たちにはそれは厳しくしたもんだ。言うことを聞かないと木刀で殴って倉庫に放り込んだりしてな。今それをやったら犯罪にされるだろう、窮屈な世の中だよ」

「マリちゃんの話は?」

「ああ、そうだった」谷川が何かを払いのけるように手を振った「きっと、あのちっちゃい頭の中にあるのは、座っている俺の前に敵兵が豆を山のように盛って、食え、食えって脅してる姿なんだろうなあ。腹がちぎれるくらい豆を食わされたと思ってるんだ。だから『豆嫌いなの?』なんて無邪気に聞けるんだ。そうじゃない、何も食べ物がなかったんだ。豆一粒どころか、パン屑、小麦の粉ひとつ、ない。……そう言ったところで、ちっちゃい子に何がわかるんだい?」

「なんて答えたの?」

「ああ、そうだよって、だから豆が嫌いなんだってね」

「正直に教えてあげればよかったのに」

「だめだ!」谷川が大声を上げた「俺はシベリアで起きたことは、女房にも話してないんだ。だれにも話さない、話せない。正直、マリにそんな話をしたのは誰か、突き止めてぶんなぐってやりたいくらいなんだよ。

 女房は、オレがシベリアに行って、人が変わったという。県庁の仕事を捨てて、無理やり家族を連れてこんな北国にやってきたんだからな。しかも石炭屋をやりにだ。親戚縁者には気が狂ったと言われてな。何があったのか話してくれと、何度も言われたが、絶対に話したくない。あんたにも、これ以上、話せないんだ」

 ボーン、ボーンという音がした。置時計が鳴ったらしい。

 僕は驚いて壁を見た。古びたねじまき時計がかかっていて、振り子が揺れているのが見えた。僕は怖くなった。この家にそんなものあっただろうかと疑った。少なくともいままでこんな鐘の音は聞いたことがない。

 時計の鐘は、あたり一帯に響いてるんじゃないかと思うくらいの音をたてて鳴っていた。

 二人とも、夢から覚めたような目で、鳴り続ける時計を見つめていた。その顔は、八十を過ぎた老人と言うより、まだ幼い子供のように見えた。

「時間が経つのは早いものね」

 フデさんが決まり文句のような言葉を、感情のない声で口にした。

「いや、長いさ」谷川がつぶやいた。いまにも消え入りそうな声で「驚くほど長い」





 ……もうすぐ日本に帰るのだ。空襲で街が焼けたというが、善光寺は無事だろうか、あそこが無事なら母もフデも無事なはずだ。

 列車は海に向かっている。その海をわたれば帰れるのだ!

 海が見えた!

 だれかが日本海が見えると叫んだ。

 歓声が上がった。帰れるぞ!

 でも、だんだんおかしいことに気がつく。

 あれは海じゃない。湖だ。列車は反対方向に進んでいたのだ。

 それはバイカル湖だった。着いたのは極寒の地だった。

 騙された。

 日本に帰るのではなかった。

 列になり、道を歩かされる。

 マンドリンを持ったソ連兵が時々叫ぶ。

 早く歩け、早く歩け、銃口を突き付けて。

 たどり着いたのは極寒の地だ。

 騙されたのだ!




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