第五章 5
驚きで振り返った僕の目に見えたのは、湖に向かって突進していくアイカの後姿と、あわてて追いかけて正面に回り込んだ幸平の、めずらしく本気で焦っている顔だった。
「何してんの!」
幸平が叫んだ。でもアイカは、避けるようにして横にそれると、まっすぐに水の中に入っていった。
「アイカ!」
「だって」アイカの背中から低いつぶやきが聞こえた「生きている意味が分からない。毎日、つまんない。いじめられるだけでいいことなんて何もないし、このまま大人になっても何かができるとは思えない。でも、死んだら幸平と一緒にいられる」
「一緒になんかいられないって!」幸平がなくような声で叫んだ「僕らは例外なんだって!死んだ人はほぼ全員消えて、何も残らない!僕はよく知ってるよ。死んだ人間は何十億人もいるのに、僕があったことのあるユーレイは5人だけだ!死んでも消えるだけだよ!」
「絶対そうとは言い切れないでしょ!?やってみなきゃわからないじゃない!」
振り返って怒鳴ったアイカの顔は、もうさっきの可愛い女の子とは別人のようだった。狂気と、どこか、期待の入り混じったような、笑いと嘲笑と絶望が混じったような顔だった。
期待。
死んでユーレイになれば……。
いや、だめだろう!
アイカはまっすぐに湖の中に沈んでいく。もうすぐ顔まで水が届きそうだ。幸平が狂ったように叫びながら周りを飛んでいる。彼女には僕が見えない。どうしたらいい?
僕は、スダの家に飛んで行った。奴はねぼけた顔で漫画を見ながらウトウトしていたが、僕が窓をすり抜けて飛び込んできたのを見て、驚いて目が覚めたようだった。
「おどかすなって!勉強してたのに!」
明らかなる嘘だが、そんなことを気にしてる場合じゃない!
「お前のクラスの葛西さんが、湖に入って自殺しようとしてる!」
「へ?」
誰それ?という顔のスダ。トロいだけじゃなくて記憶力も最低らしい。
「早く行って止めろ!」
「え?でもさあ」スダは露骨にめんどくさそうな顔をした「それは俺じゃなくて警察を呼んだほうが……」
「いいから早く行って来い!助けられなかったら呪い殺すぞ!」
人の呪い方なんて当然僕は知らないが、それに自分で気づいた時には、スダはすでに部屋を飛び出していた。ウソも方便とはこういうことを言うんだ。
スダは走るのが遅い。空が飛べる(できても嬉しくない!)僕はあっさりと追い越して、先に砂浜についた。すると、アイカは水の中ではなく、砂の上に倒れていた。意識がないようだ。そばには幸平と……字室!
「なにしてんだよ!?」
「何って?バカな女がいたから殴って浜辺に引きずり出しただけだろ?」
「なにぃ!?」
「なにぃじゃねえよ。ほっといたら入水自殺だったんだぞ。人が殴れる俺に感謝しろよ」
「字室君、凶暴すぎる」
幸平は、無表情で愛華のそばにひざまづいて顔を覗き込んでいた。
「殴る必要ないだろ!?ふつうにつかんで引きずり出すことだってできただろ?」
「そしたらまた入っていくだろうが。バーカ」
字室はいつも通り、あからさまに人を馬鹿にした顔をしていた。目の前で人が死のうとしていたってのに、なぜそんな態度でいられるんだ?まったく理解できない。
「岩本ぉ~」走るのが遅いスダがやっと追いついた「どこに葛西が……げっ」
倒れているアイカに気付いて、スダが怯えた顔で一歩後ろに引いた。
「運べとは言わないから、警察呼んでもらって」
幸平がそう言って、僕の顔をじーっと見た。数秒たってようやく、スダには僕の声しか聞こえてないことを思い出した。
「警察呼んで運んでもらって。救急車も」
僕がそう言い終わる前に、スダは逃げるように暗い街の向こうに消えていった。
暗い。
小さな町だ、街灯もほとんどない。
ぼうっと眺めていると、飲み込まれてしまいそうなほど、陸の方向は真っ暗だ。
救急車に運ばれるアイカを見ながら、どうしてこんなかわいい子が、狂気のような顔つきになるほど死にたがるのだろうと、考えた。
考えたところでわからない。しかも僕は死んでるユーレイだ。そういえば、死んだのになぜ考えているんだろう?
生きている人間の特権じゃないのか?『考える』ということは。
数日後、アイカは母親とともに、湖の町から出て行った。不良から引き離したほうがいいと考えた先生と親の考え通りに、別な町の親せきのところへ行くことになったのだ。
引っ越していく前の日、まだ入院していたアイカを訪ねてみないかと幸平に誘われた。
どうせ彼女に僕は見えない。存在さえ知られてもいない。
でも、このまま去られてしまうのは悲しいので、傍観者に徹することにして幸平について行った。
「あ、来てくれたんですね」
アイカは、いつかと同じセリフと、かわいい笑みで、窓から入ってきた不審なユーレイ(不審じゃないユーレイなんていないと思うが)を迎えてくれた。
ああ、本当にかわいい。なぜ幸平しか見えないんだ!不公平すぎる!!
「もう大丈夫みたいだね」
「だって、けがは何もしてないもの」
「僕は、君に悪い影響を与えてしまったみたいだ」
幸平が、本当に後悔している顔でそう言った。アイカは目を丸く見開いた。
「そんなことない!」
「ユーレイは生きてる人間にかかわらないほうがいいんだよね」
「そんなことない!だって、私はもとからこうだったもの!生まれた時からどうして生きているのかわからなかったし、今でもわからない……」
「今はわからなくても、いずれ楽しいこともあるよ」
幸平がそう言って、なぜか僕のほうを振り返った。
「僕が言っても説得力ないよね。永遠の十四歳だし、アハハ!」
「そこに誰かいるの?」
「いるよ、図書室にいた友達が」
「二人きりで話せない?」
アイカが、幸平と、ぼくがいるあたりの空間(視線の先は微妙にずれてたが)を交互に見た。僕はいたたまれなくなって、気をきかせて窓の外に撤退し……外壁の横にぴったりとはりついた。
「私は、このまま生きて大人になっても、変わるとは思えない」
半分涙が混じった声が聞こえたので、中を覗こうとしたら、幸平が目ざとくこっちを振り返ったので(なんでわかったんだ!?)慌てて引っ込んだ。
「変わるよ」
幸平が、不思議なほど確信を持った声で言った。いつもの、のんびりした声とは全然響きが違った。
「人は変わるものだ」
「なんでわかるの?永遠の十四歳なんでしょ?」
ちょっとふざけたような声だった。少しだけ安心した。
「僕はそうだけど、他の、生きている人が変わっていくのを、何人も見てきた。数えきれないくらいに」
生きている人が変わっていくのを。
僕はその言葉に硬直した。死んで体がないはずなのに、筋肉が硬直するような感覚を覚えた。
生きている人は変わっていく。
僕らは?死んだ僕らはどうだ?
固まって考えていると、幸平が窓からひょこっと顔を出して、
「い~わ~も~と~くぅ~ん!!!」
かなり珍しいしかめっ面でこっちを睨んでいた。僕は反射で遠くへ飛んで逃げた。
そしてアイカは行ってしまった。生きている人は好きな所へ(あるいは、望んでいない場所へ)移動していく。もうあの不良たちにからまれることもないだろう。でも、あの部屋にあった人形たちは?本は?
アイカは変われるんだろうか?
僕はどうだ?
去っていく引っ越しのトラックを未練がましく見ながら(いいだろ、どうせあっちには見えないんだから!)考えていた。答えは出ないままだ。
「岩本君」
振り返ると、幸平がいた。ニヤニヤと楽しそうに笑っている。人が感傷に浸ってるというのに。バカにされているような感じだ。気に入らない
「何だよ?」
「一緒にやらない?空中アクロバット飛行」
「……」
「楽しいよ?」
どうしたかって?
その日は一日中、狂ったように空中回転飛行をして過ごした。あんなに気味悪いと思ってたのに、やってみたら面白かった。
僕は自分が思っていたより、狂っているのかもしれない。もう既に。
そういえば、この町の町長が先日テレビに出演し『町で奇怪な事件が増えている』と嘆いていた。
まさかユーレイが犯人だとは夢にも思ってないだろうな。かわいそうに。




