第一章 2
僕が『死んで』この町になぜか飛ばされてしまったとき、最初に会ったのはさきほどの幸平だ。湖の上で前後不覚になっていた僕の目の前にいきなり現れて、顔を覗き込んだ。
「君さ、死んだんだよね。名前は?」
ストレートすぎて何を言われているかわからなかった。幸平のほうも『あたらしい人』が来るのは珍しいから興奮していたらしい、あとで聞いた。
「あのね、君、浮かんでるよね。わかってる?これは夢じゃないんだ。ここは天国ではない。実在している北海道の町の湖の上空だよ、上空。つまりね、君は死んでユーレイになってここに来ちゃったわけだ、間違いないよ。生きてる人間が浮かぶわけないもんね。ちなみに僕は藤沢幸平っていうんだ。札幌に住んでたんだけど、車道を渡るときにダンプに吹っ飛ばされちゃった。気がついたらここにいた。アハハ」
幸平は興奮気味に一気にしゃべった。でも、僕自身は自分が浮かんでることは棚に上げて、目の前に人が飛んできたことに衝撃を受けていて、何も言葉を返せなかった。
いったい何が起きたか?僕は必死で、その日の朝からの自分の行動を思い出していた。
いつも通り八時には起きた。朝食を食べずに学校へ向かっていたはずだ。そしたら赤い車が突然視界に飛び込んできて……。
そのあとの記憶がなかった。
まさか、そんな。
「ねえ、聞こえてる?もしかして僕が見えてない?」
「いや」
それだけ口にするのが精一杯だった。
「あ、しゃべった。大丈夫だね」
何が大丈夫だ!と思ったが声は出なかった。
「とにかく、ついてきて。ここにじっとしてるのも嫌でしょう?」
言うとおりにすることにした。何も考えられなかった。幸平が僕のシャツのすそをつかんで(幸平は人には触れないが、物には触れるらしい)岸まで引っ張っていった。つかまれている感触も、引っ張られている感触もしないことに気がついて、僕はますます頭が混乱した。
そうしてたどりついた先が『梶村商店』だった。湖に一番近い家なんだ、と幸平が言っていたような気がするが、よく覚えていない。
店は閉まっていたが、裏の窓が開いていて、そこから入った。
「窓閉まっててもすり抜けられるんだけどね、一応閉まってたら遠慮することにしてるんだ。ま、どこも開いてなかったら容赦なく抜けるけど」
『すり抜けられる』あまり聞きたくない言葉だ。
「梶村さん、新しい人見つけた」
そこは畳の部屋で、隅に人影があった。椅子に座っているらしい(ほんとは椅子じゃなくて金庫だったんだけど)その人物は、歴史の教科書で見た写真のような軍服姿だった。手にはなぜか長い銃、服の襟には赤い丸、たぶん日の丸だ。制服のような帽子をかぶっていて、顔つきは若いけど、目がキッと細くて、いかにも軍人ですって感じだった。
やな予感。
「新しい人?死人か?」
低い声が響く。『死人』って幸平よりストレートな言い方だ。耳に刺さった。
「うん、僕より年上だと思うよ。ほら」
幸平がまた僕の服のすそをつかんで、男の前に引っぱり出した。男は細い目をますます平たくして、じっと僕を観察しているようだった。怖くて動けなかった。
と、男が軍人らしく、手を額の辺りにかざした、あれは何て言うんだろう?敬礼?
「兵士、梶村二等だ。以後よろしく」
きりっとした青年の声が僕の耳に響いた。僕はどうしていいのかわからなかった。ただ呆然と目の前の『兵士』を見ていた。
「へいし……」
思わず口からもれた。どうやら自分は大変なことになっているらしい、と、そのときになってようやくそのときに実感しはじめたわけだ。だって、兵士だぞ?自衛隊じゃないんだぞ。戦争中の人間が目の前にいるんだぞ。
「梶村さんはこの辺で一番『長い人』だよ。第二次世界大戦で兵士やってて、戦死……と言いたいところだけど、実はシベリアに抑留されてそこで亡くなったんだって」
幸平は内容に合わないはしゃいだ声で言った。
「ヘイ……」
何か言いたくてもそれしか口から出てこない。頭がぐるぐる回転するみたいだった。
「悪かったな、兵士が戦死じゃなくて」幸平に向かって意義を唱えると、『兵士』は僕に迫ってきた「君はどうした?新手の奇襲か?手榴弾か?空中放火?反乱か?」
兵士梶村が鬼のような形相で顔を覗き込んできたので、僕は思わず数歩後退した。
「それとも今話題の……」
「ち、違います、違いますって!」僕は叫んだ「ただの交通事故です!」
「なんだ、それなら幸平とたいして変わらん」
つまらなさそうな顔をして、梶村さんはもといた金庫の上に座りなおした。
「よかった。まともにしゃべれるようになってきたみたいだね」幸平が僕の前に出てきた「君、名前は?」
「岩本、岩本祐一」
「岩本……ん?」梶村さんが首をかしげたかと思うと、僕の前の幸平を押しのけて顔をぐっと僕に近づけて、目をまっすぐ睨んできた。殺されるかと思った(もう死んでるのに)
「な、何です、か?」
「幸平、この男、本当に死んだのか?」
梶村さんが僕から離れて幸平のほうを向いた。
「へ?だって、ユーレイになってるじゃない?湖の上空に浮かんでたんだから。間違いない」
「生きている気配がするぞ!」
「え?」
「は?」
今度は僕だけじゃなくて幸平もびっくりだ。『君死んだ』の次は早くも『生きている気配がする』だぞ?わけがわからない。
「何言ってるの梶村さん。実際鏡に映ってないじゃない、この人」
幸平が部屋にある鏡台を指差した。いかにもおばあちゃんの持ち物という感じの、木目が美しい古い鏡台の鏡、そこには、金庫しか映っていなかった。梶村さんも幸平も僕も映っていなかった。
ぞっとした、鏡に映らない。僕は自分の手を見た。自分の手はちゃんと見えるのに。
「いーや、間違いないぞ」梶村が興奮した口調で言った「キャリア六十年の生死の勘が訴えておる。君はまた生きているぞ」
「じゃ、なんで僕らみたいになってんのさ?」
幸平が不満げな口調で言った。僕にはもう何がなんだかわけがわからない。
「けがでもして体のほうの意識がないだけじゃないのか?戦争中にはよくあったことだ。一度きちんと確認しろ」
梶村は金庫に座って、深いため息をついたように見えた。死んでいるから息の音は聞こえなかったけど、疲れているように見えた。
そのあとどうなったか。
幸平と一緒に隣町との境目の上空まで飛んだら、見えない壁にぶち当たった。つまり、僕は町から出られないというわけだ。
「この壁がねえ、何でできてるのかわからないんだけど」幸平が見えない壁に両手のひらを当てながら、地平線のほうへ目をやった「この湖の町から出られないんだよね。僕ら死んだ人間は」
見えないガラスの壁のようなものが町を覆っているらしい。冗談じゃない。そらから僕らは毎日毎日、何回も何回も、場所を変えて隣町との境目に行き、壁をすり抜けることができないか試した。でもダメだった。強化ガラスでもはまってるみたいに、進もうとするたびに行く手を遮られてしまう。
もがいてる僕の横で、鳥や車がふつうに通過していくのを何度も見た。町の生きた人間たちには僕らが見えないようだ。もし見えていても、見えない壁と格闘してる僕たちの姿は、へたくそなパントマイムにしか見えなかっただろう。ガラスにぶち当たってもだえてるパントマイム、面白くもなんともない。
僕らはこの見えない壁によって、町というでっかい檻に監禁されているわけだ。
「やだなあ。監禁なんて人聞きの悪い」
幸平はそう文句を言っていたが、ほかに言いようがないじゃないか。
そして今日。何もする気がせず、かといって町に行く気もせず、商店の奥の居間でぼんやりしている。梶村さんは、人には外へ出ろと言うくせに、家からはめったに出ないんだそうだ。まるで自縛霊だ。
居間の窓からは湖が見える。昼間にしては人が少ない。朝見かけた観光客はどこだろう?遊覧船に乗ったのだろうか?それとももう帰ったのか、どっちでもいい。
黙ってぼんやりしていると深刻に考え込んでしまう。どうして僕はここにいるんだ?どうして車が突っ込んできたんだ?どうして死ななきゃいけないんだ?本当に死んだのか?『生きている気配』ってどういう気配だ。ずーっと未来永劫この町を漂ってなきゃいけないのか?
気が変になりそうだ。もっとどうでもいいことを考えよう。このまえ梶村さんが『それとも話題の……と言いかけてやめた死因は何だろう?考えてみる。本人には聞かない。聞いてしまうと時間つぶしにならないからだ。
「ミサイルとか、原子爆弾かな、戦後話題になったはずだし……」
独り言をつぶやく。外はいい天気だ。日当たりがいいのが妙に空しい。