第四章 3
夜、孫が来た商店の食卓は、四人で食べるには多すぎるんじゃないかってくらい、いろいろなご馳走が並んでた。食べ物に縁がない僕らにとってはちょっと辛い光景だ。そのせいか、幸平も字室も食卓のある部屋に近づかない。隣の部屋で待機だ。
二人が物陰でゴネている。
「僕湖に行きたい」
「あとでミカを連れてくんだから、それまで我慢しろ」
「いや、一人で行きたい」
「どうせあとで合流するんだから同じだろうが!」
「合流しない方法ってない?」
「そんなに嫌だったら一人で町にでも出てろ!」
幸平はむすっとしたまま黙り込んでしまった。嫌だ嫌だと言いながら逃げないんだな、幸平。
「湖に行くって、サミのところに?」
僕が聞くと、字室がえらそうな声を出した。
「海岸線ぎりぎりのところまで来るはずだ。ミカが来ることは話してあるからな」
「あんなでかい船が近寄れるの?」
「話ができる距離には来れる」
「へえ」
ふすまが開いて光が漏れた。ミカちゃんがこちらの部屋を覗いていた。
「イワモトってさ、けっこう最近の人?チャパツだし」
「死んだのは今年の四月」
「わあ、シンジン」ミカちゃんが手を叩いた「なんか思い残したことない?好きな人にコクハクしそびれたとか。このミカさまが代わりに言ってあげよう」
「そんな人いないから大丈夫」
そんなにかわいい子は高校にはいなかったよ。僕はそう言おうとしたけど、やめた。そもそも僕は生きているときそんなに他人をよく見てただろうか、絶対見てなかった。
「なんだよーつまんないー」
「ミカちゃん、好きな人いるの」
「いるけど、教えない」
口をとんがらせてすねた顔をした。これは何かあるな。
「何でさ、教えてよ。家に帰る前でいいからさ」
「考えとく」
ふすまが閉まった。
「ほんとにいなかったの?好きな人」
後ろから幸平の声がした。見ると、手を上にかざしていて、その手のちょっと上に、どこから拾ってきたのか、白い貝殻が浮かんでいた。もてあそんでいるみたいに上下に揺れている。
「いないって、あんまり人に興味がなかったんだよ」
「そうだねえ。三種の神器が恋人って感じだもんねえ」
……事実だ。事実すぎて反論できない。
「何の話だよ?」
「何でもない」字室に説明したくなかった「字室は好きな人いなかったの」
「女は嫌いだ」
会話終了。
隣の部屋から、フデさんとミカちゃんのお母さんがしゃべっているのが聞こえる。お父さんとミカちゃんはほとんどしゃべらない。梶村さんは隣で何をしているんだろう。じっと観察しているだけだろうか。悲しくないのかなあ、自分だけ見えない状態で一家団欒されるの。
「でもミカちゃん、もう中学生なんだねえ。時間がたつのは早いもんだ。このまえまでこんなに小さかったのに」
たぶん手でもかざして、このくらい小さかったっていうジェスチャーでもしたんだろうな。すぐにミカちゃんの抗議の声がした。
「おばあちゃん、そんなに小さかったのはだいぶ前だよ」
「ほんとなら私立の中学に入れたかったんだがな」
せっかく和やかな雰囲気で会話が進んでたのに、お父さんの陰険な声で食卓は静まり返った。
「お父さん、札幌は公立のほうがレベルが高いのよ」
お母さんが慰めるように言ったが、お父さんがさらに反論する。
「それは北海道の話だろう。もともととろい奴が多いんだから当たり前だ。全国区で言ったらな、やっぱり中学から私立に行くのがまっとうな進路ってもんだろう」
自分も札幌に住んでるくせにそんなことを言うお父さん。
「そんなことを今いわなくたっていいじゃないの!」
お母さんが怒り出した。
「そうですよ。子供は元気なのが一番です」
フデさんがお年寄りらしい意見を言った。
「……札幌の人間は使えないって聞いたことない?岩本君」
幸平が話しかけてきた。妙に深刻な顔つきで。
「何それ?」
「支店経済」もてあそんでいた貝が床に落ちた「大会社の支店とか子会社ばっかり集まってるんだ、札幌は。マニュアル通りにしか動けない人間ばかりになる。そうすると、いざ転勤、転職だってほかの都市に行くでしょ、ほかの市町村はたたきあげの人間が多い。札幌のマニュアル人間はついていけない。それでよく『札幌の人間は使えない』って言われてたんだ」
そんな経済の話をいきなりされても、僕は何と答えていいかわからない。
「僕が生きてた頃の話だから、岩本君には関係ないかもね」
「確かに幸平はトロいよなあ」
字室が笑う。
「悪かったね。だからさ、ミカちゃんのお父さんの言い分も間違ってはいないんだよ。中学校も高校もほとんど公立に行くじゃない。北海道の人は。で。たいがいまともに勉強しなくても卒業していくじゃない?」
「まあ、そうかもね」
「当然、社会に出てから急に困難にぶつかるわけだ。道内にいたって企業の競争ってのは全国区だからね。そのせいで銀行までつぶしたとは言わないけどさ、いつまでたっても不況で、それでいてのんびりと危機感が抜けない、それが今の北海道じゃないかな」
「……幸平、そういう情報はどっから持ってくるの」
「本とか、いろいろ。長年世の中を『よそから』見てるから、いろいろ考えちゃうんだよ」
「そんなこと考えたってどうにもならないだろうが、死んでるんだからよ」
字室が呆れている。僕は幸平が世の中を気にしているのが以外だった。ただ他人のプライバシーを覗いておもしろがっているだけだと思っていた。
ふすまの向こうからは何も話し声がしない。四人とも黙り込んでしまったみたいだ。
家族の機嫌が悪いまま、就寝時間になった。みんなが寝静まったのを見計らって、ミカちゃんがもそもそと起き出した。
「行くぞミカ。クソオヤジに見つからないうちによ」
字室が起きかけのミカちゃんを乱暴にゆすった。
「ちょっと待ってよ、おじいちゃんと遊んでから」
遊ぶって何ですか?手の甲で目をこすってぼんやりしているミカちゃんを見ながら、思わず変な空想をしてしまう。
「知らねえぞ。見つかって叩かれてもよ」
字室が窓から飛んでいってしまった。幸平はとっくの昔に姿を消していた。たぶんサミのところに先に行ったんだと思うけど。僕が梶村さんとミカちゃんが何をするのか見たかったので、残ることにした。
ミカちゃんが部屋を出て廊下を歩き出す。廊下にすでに梶村さんが立っていた。暗い廊下に軍服が立ってるとかなり怖い。梶村さんがこちらに背を向けて歩き出す。ミカちゃんもそのあとを追って、忍び足で、家の二階へ続く階段を登る。たしか、ここの二階って物置みたいに古いものがたくさん積んであったと思うんだけど。詳しくは見たことがない。今まであんなに暇だったのに何で見る気にならなかったんだろうなあ。
二回の部屋の電気をつける。本好きの幸平でさえ手をつけてなさそうな、埃をかぶった古い本の山が暗闇に浮かび上がった。いまどき裸電球が天井からぶらさがってるなんて、居酒屋じゃあるまいし。しかも梶村さんが軍服だから、この部屋だけ戦前に戻ったんじゃないかという気すらしてくる。
でもなあ、ミカちゃんのけばけばしい金髪を見ると、瞬時に現代に呼び戻されるんだな。まさかアメリカ人にも見えないし。
「えーと、ええーと?」ミカちゃんが古い本の山を乱暴に倒し始めた「うーん、あ、あった!これこれ」
ミカちゃんが取り出した茶色い表紙の本を広げた。セピア色の写真が紙面にじかにはりつけてあった。古いアルバムのようだ。
「よくも毎年見たがるもんだなあ、同じものを」
梶村さんが優しい声で笑った。
「だって年に一回しか見れないじゃん。イワモト、これ見て!」
「開かれたアルバムを覗くと、そこには、今目の前にいるのと全く同じ顔で、服装がちょっと違う(けど軍服には変わりないな、これは)梶村さんと、その隣に若い着物を着た女の人が座っている写真だった。つまりこれは……。
「フデさん?」
「そうだ。六十年は前になるかな」
思わず梶村さんの顔を見てしまう、すごく照れた顔してる。こんな顔は初めて見た。
「結婚シャシンー!」
ミカちゃんが、ロボット大戦の決めゼリフみたいな叫び声をあげた。結婚写真といっても、晴れ姿というのではなかった。さっきの写真のほうがいい服着てたんじゃないかと思うくらい、二人とも着物姿ではあったけど、どこかみすぼらしい印象を受けた。でも、顔つきだけはこちらの写真のほうが大人びて見える。
僕はそのセピア色の写真をじっと見つめた。別に信じてなかったわけじゃないけど、梶村さんは本当に昔の人だったんだということを、初めて確認した気分だ。
「おばあちゃん、ビジンでしょ?」
「まあ、そうだね」
現代の基準で見てはいけないのだろうが、僕はあまりきれいだとは思わない、ただ、いかにも古風な女の人で、写真写りはいいほうなんだと思う。
「あとこっちがねえ、じいちゃんの大好きな女学校の制服……」
「ミカ!余計なことを言うんじゃない!」
「女学校ですか……」
写真の中のフデさんは、こんどはセーラー服を着ている。背景がないから何かの記念に撮影したものだろう。僕は思わずにやけてしまった。きっとこの姿を見て好きになったんだろうなあ、梶村さん。この写真のフデさんはきれいだ。昔のアイドルみたいな顔してる、さっきの結婚写真とずいぶん違う気がするけど。
「勘違いするなよ岩本、自分に変な趣味はないぞ」
「わかってますって。何を慌ててるんですか」
「あとこっちがねえ」慌てる『おじいさん』を無視してミカちゃんがページをめくる「おじさんを抱くおばあちゃん。このころはもうじいちゃんは戦争だよね」
さきほどのお嫁さんが、もっと地味でぼろぼろの服を着て、子供を抱いて立っていた。どうやら外で撮った写真らしい、背景に廃墟のような建物が見える。よくこんな写真撮影できたな、戦争中に。
「昔って、写真撮るの大変だったんじゃないですか?」
「いや、別に大変でもない」
「戦争中も映画見てたんだもんね。たしか、県庁の人だからタダ見できたんだよね、おばあちゃんが言ってたよ」
「映画をタダ見?」
耳を疑った。
「ミカ、それはあまりいいふらしてほしくないな」
梶村さんが額に手を当てて顔をしかめている。
「いいじゃん!ジコウジコウ!じいちゃんイマでいう県庁の人だったから、おばあちゃんとエイガ見に行っても顔パスだったんだって」
「顔パス……」
ますます戦争中らしくない話になってきた。
「違う、そうじゃない。ちゃんと証明書を見せた。だいいち見ている間に空襲警報が鳴ってからな。サイレンと共に画面は消えた。最後まで見れなかった」
「映画の最中にサイレンですか。嫌ですね」
「ああ」
「タカラズカも戦前からあるもんね、確か、えーっと」
次の写真を見ることはできなかった。廊下からドスドスと階段をあがる足音が聞こえてきたからだ。
「ミカ!こんなところで夜中に何をしているんだ!」
やっぱりお父さんだった。顔が真っ赤になって目が釣りあがっている。怒ってるぞこれは。
「写真見てただけでしょ!」とたんに険悪な顔になってミカちゃんがお父さんを睨んだ「お父さんこそ夜中にオーゴエ出さないでよね!」
「お前こそ早く寝ろ!」
「いいじゃん少しくらい、めったに見に来れないんだからさあ」
「親に向かってその口のきき方は何だ!」
親子喧嘩がはじまった。
「この男、昔から気に食わない」
梶村さんが静かな声で言ったかと思うと、銃を構えた……って、何をする気ですか!?
「ダメですって撃っちゃ!」
「バカ。ほんとに撃つわけがないだろう。撃っても大したことは起こらん。この銃も死んでいるからな」
「とにかく銃は下ろして下さいって、怖いから」
ミカちゃんが階段を駆け下りていく。お父さんがなにやら怒鳴り散らしながら追いかけていく。階段の下からぎゃあぎゃあ言い合いの声が聞こえてくる。
「あ、写真出しっぱなしだ。どうしよう」
「明日にでも片付けさせればいい。それより岩本、ミカの後を追ってくれ」
「後を追う?下でケンカしてんじゃないですか?」
「外に飛び出して行った」
梶村さんが部屋の窓から外を覗いていた。置いてある本やがらくたを避けて窓まで飛んでいくと、暗闇の中をパジャマ姿で走っていくミカちゃんの姿が見えた。お父さんの姿は見えなかったから、外までは追いかけなかったんだろう。
僕は窓をすりぬけてミカちゃんのあとを追って飛んだ。方向から言って湖に向かっているようだ。サミのところへ行くんだろう。みんないるだろうか?それにしても、飛び出すような大喧嘩だったか?今の。