第一章 1
湖には今日も遊覧船がただよっている。正確に言うと就航している。
でも、速度がなさすぎて止まっているように見える。
僕と藤沢幸平は、その遊覧船をぼんやりと眺めている。
ただし、岸からではなく、上空からだ。僕らは空中に浮かんでいる。
「今日ね、掃除をサボってた」
「は?」幸平は唐突にわけのわからないことを言う「何それ?」
「何って、遊覧船の掃除係のおばさんだよ。いつも朝掃除してるのに今日いなかったじゃない」
「だから?」
「家を覗いたらさ、見慣れない男と一緒に寝てたよ。観光客かな?」
「家、覗いたの?」
「気になるじゃない。一人で死んでたら困るし」
「そう簡単に死ぬかよ」
「自分は簡単に死んだくせに」
「好きでこうなったわけじゃないぞ!」
誰が予測できるもんか。いつも通りに高校に行こうと道を歩いていたら、スリップした車が自分に向かって突っ込んでくるなんて。
いや、それだけならいい。
気がついたら、行ったこともない見知らぬ町の湖の上空に『浮かんでた』なんて、誰が予測できる?
「岩本君さ、いいかげん町に目を向けなよ。小さい地味な町だけど、家の中はけっこう修羅場で面白いんだから」
幸平が、声変わりしてない少年ボイスで笑う。昔風のガクラン姿の幸平は、ジャニーズみたいな顔と髪型をしていて、中学生にしてはとても幼く見える。
十四歳で交通事故にあった。気がついたらこの町にいて、ふわふわと空中をさまよっている。
「覗きなんて嫌だね。だいいち何なんだよこの町は!死人が集まってくるなんてよっぽど変な町なんだろうが!」
「集まるって、五人しかいないじゃない」
「そんだけいりゃ十分だろうが!」
自分の声が悲鳴のようになっているのがわかる。自分が死んだなんて認めたくないし、幽霊の存在なんて信じていなかった。
でも、認めざるを得ないのだろうな。
なんせ今空中に浮かんでいる。こういう状態になってから何日たったかもうわからない。昼間は湖とその周辺をうろうろして、夜は湖に近い商店の中に入る、そんな日々が続いている。幽霊だから夜うろうろしてもよさそうなものだけど、実際になってみるととてもそんな気にはなれないんだな。商店の主は一人暮らしのおばあさん。自分の家が幽霊のたまり場になっているなんてことにはもちろん気づいていない。何も知らずに商売を営んでいる。
「まあ、そんなにいやならいいけどさ、そのうち絶対神経おかしくなるよ。生きている人の近くにいないとさ。一人で考え込むのはよくないよ」
幸平はそういい残すと、町並みが見える方向へ飛んでいって見えなくなった。
死んだのに神経もなにもあったもんじゃない!と言いたくなるが、実際には、自分が恐ろしいくらいの不安に駆られているのがよくわかっていた。少しずつ高度を下げて、湖の水面に近づく。生きている人間だったらここに僕の姿が映るはずだ。でも僕の姿は水面にはない。自分の手を目の前にかざしてみる。自分の手は見える。体も見える。事故にあったときと同じ、高校の制服のままだ。この目ではっきりと手や足が見える。なのに、水の中に手を突っ込んでも感触がない。冷たいのはわかる。なぜか温度はわかる。なのに水の、あの濡れる感触がないし、揺れている水面の波の感触もしない。
訳がわからなかった。死んだということは、肉体はとうの昔になくなっているはずだ、手も足も、全部。なのに僕は水面が見える。小さい町の建物が小さく並んでいる景色が見える。山も空も見える。遊覧船からは時々ブオーという音がする。町へ戻れば人の話し声や車のエンジンの音、風にそよぐ木の葉の音が聞こえる。
なのに、感触だけが失われている。本当にわけがわからない。
また頭が真っ白になる。ここに来てから何回目だろう?死んでいるはずなのにめまいがする。頭は真っ白になる。手は震える。感触がないのに見てわかるくらい振動している。
商店に戻ろう。
僕は岸を目指して飛んだ。飛ぶには特にコツはいらないらしい。気がついたら思うように飛びまわれるようになっていた。でもちっともうれしくない。
商店が見えるとなぜか少しだけ安心する。くやしいけど。幸平の言うとおり、一人で考え込むのはよくないんだろう。少なくとも今の僕にとっては。
商店。朝早いのに、観光客がちらちらと見える。店の壁にかかっている、年季の入った壁掛け時計は七時十二分。商店の梶村フデ(たぶん八十歳以上)は、いつも六時起床、十時就寝だ。
カウンターに座っているフデさんの横を通過して、奥の居間へ入る。誰もいない。
幸平はまた町で人間観察でもしてるんだろうか?奥の部屋へ行くと、隅に金庫が置かれていて、その上に座っている男が一人。
「なんだ、もう帰ってきたのか」
妙に固い、昔風の声が響いた……といっても、僕にしか聞こえないだろうが。
「やることないんです」
「町に出ろ、どうせこの町からは出られんのだろう?だったらあちこち見て回ったらどうだ?」
男は日本軍の軍服を着て、銃を持っている。